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2019年 11月の記事 (9)

ナントカ堂 2019/11/12 21:00

永楽朝軍功宦官劉氏兄弟

 明代宦官についてはまだまだ先になると思いますが
とりあえず明前期の宦官の劉兄弟の墓誌を。


劉通墓誌

 公の諱は通、代々三万戸の大族で、父は阿哈、母は李氏、共に徳を積むことを重んじていた。公は大明辛酉七月二十九日に生まれで剛毅な性格であった。成長すると武勇と知略が人より優れ、出仕して内臣となった。洪武丙子に命を奉じて開平と大寧で城堡を修築しよく務めを果たした。まだ燕王であった頃の永楽帝に仕え、気に入られて重用された。建文帝と宗室が離間したため、主上は公の忠義心を信用し、外情を偵察させた。公は広く情報を集めて報告した。歳己卯、永楽帝が靖難の役を起こすと、公は力を尽くし、先頭に立って九門を平定した。永楽帝は雄県と漠州を攻め取り、永平・劉家口を接収し、大寧で勝利し、反転して鄭村ハで大いに戦った。続いて大同・蔚州・広昌などを攻め落とした。翌年庚辰、白溝河で大いに戦い、済南・滄州・東昌を、辛巳に藁城・西水寨を、壬午に東阿・ブン上・小河・斉眉山・霊壁・泗州を攻略し、夏五月に淮河を渡ってクイ・揚州・儀真を攻略し、六月に長江を渡って金川門を攻め落とし、南京を平定して宮中を清めた。公はこれに従って何度も軍功を挙げ、永楽帝が即位すると、尚膳監左監丞に任命された。永楽庚寅、沙漠への遠征に従軍し、静虜・広漠を経て、答蘭那末児葛克台□児に陣を敷き、威河で敵と三日間大いに戦って、多くの敵を討ち取り敗走させた。公は単騎で七十里以上追撃し、敵二人を生け捕りにして帰還した。功を認められ、尚膳監左少監に昇進した。甲午、瓦剌に進軍し九龍口に到着すると、班慷葛剌と遭遇して大いに戦い撃破した。公は単騎で追撃し、酋長二人を捕らえて帰還したため益々名声が上がり、直殿監太監に昇進した。壬寅、騎兵の精鋭の一隊を指揮し、東に偵察に向かい、舎児トンで敵と遭遇すると戦って勝利し、多くの敵を討ち馬三千頭以上と牛羊十二万以上を獲得した。癸卯に陽和で、甲辰に大小出□で戦い軍功を挙げたので、帝から大いに評価されて、特別に邸宅を賜った。王氏の娘を妻として家政を任せ、母に奉仕して恩に報いた。宣宗が即位即位すると、(朱高煦が謀叛を起こしたため)帝と共に武定州に行き、謀叛人たちを討ち取った。三年、神鏡騎士五千を率い、帝に従って喜峰口に出て敵を掃討した。公の軍功は他にもあり列挙しつくせないほどである。また友情にも厚く、義弟として家族とした者が八百人以上、騎射者を得意とする者が二百五十人を撫育した。宣徳庚戌、命を奉じて永平や山海に鎮守した。これより公の力によって東北の辺境は安定し、兵も民も安心して暮らすようになった。乙卯夏四月、宣徳帝が崩御したため都に戻るよう命じられ後事を託されたが、その年の八月十四日、病のため家で没した。享年五十五。
 訃報が届くと帝は大いに悼み弔意として鈔一万貫を贈り、担当官に命じて葬儀費用を支給させ墳墓を造らせて、官人を派遣して葬儀を行わせた。公の弟で御馬監太監の劉順は礼に従い喪に服した。(後略)


劉順墓誌

 正統五年十二月十五日、御馬監太監の劉公が病没した。享年五十七。訃報が届くと帝は大いに悼み、弔意として鈔三万貫を贈り、官人を遣わして葬儀を行わせ、太監の李童を葬儀責任者とし、棺や墳墓その他を全て官から支給した。翌年二月十七日に昌平県の白仙荘に埋葬され、それが終わると、姻戚で羽林前衛指揮僉事の潘義は、公の養子の劉清らと相談した。「われらの公が亡くなられて、天子はその功労を想い多くの者を賜って、少保の楊公も墓前に参した。そこで公の功績を墓前の石に記し、後世に伝えようと思う。」こうして友で礼部郎中の黄養正が文章を作った。

 公の諱は順。女直人で、祖父は元に仕えて万戸となった。父は阿哈、母は李氏。公は幼い頃より兄の劉通と共に宮中に出仕し、永楽帝に認められて劉姓を賜った。十三歳のとき騎射を得意として、武を以って評判となり、選ばれて近侍するようになった。靖難の役が起こると、公は諸将と共に九門を取り、鄭村ハ・白溝・東昌・霊壁で勝利し、長江を渡って金川門を攻め落とし、そのいずれでも軍功を挙げた。甲申に御馬監左監丞に抜擢され、以後益々重用されるようになった。丙戌、遼東は重要な地であったため、公が行って鎮守するよう命じられた。戊子、倭寇が攻めてきたため安東で戦い、一昼夜戦い続けて敗走させた。己丑、淇国公の丘福が漠北に出征すると、公はこれに従軍した。臚ク河で敵と遭遇し、丘福は油断して危機に陥った。そこで公が兵を率いて敵陣に突撃すると、酋長の葛孩は逃げ出した。公は弓を引いて葛孩の馬を射倒すと、敵は退散し、丘福軍は全て助かり帰還した。その後何度も帝の北伐に従軍し、いずれも前哨となった。庚寅、滅胡城に至り答剌罕河に出て本雅火里を敗走させ、更に東に進軍して台哈答答の諸部に勝利した。公は兵を指揮して敵に遭遇すると、馬から下りて白兵戦を行い、身に五十ヶ所以上傷を負ったが気迫はいよいよ増し、更に馬に乗って突き進んだため、敵は支えきれずに壊走した。甲午、帝に従って九龍口に至ると瓦剌と遭遇した。公は馬を失って歩戦し、敵の酋長を射殺した。敵は散ったり集ったりして戦い、公は連続して戦い打ち破った。庚子、開平にて哨戒し、敵の知院の満子台ら十人あまりを捕らえた。壬寅、兀良哈を攻め落としてその酋長の孛克タ児ら五人を捕らえ、一人を射殺し、多くの羊と馬を獲得して、その功により御馬監太監に昇格した。甲辰、帝に従って北征し、麾下を率いて東を後略し、チョウ窩まで戻ってきたところで帝が崩御したため、棺を護衛して北京に帰還した。
 洪熙元年六月、(帝が崩御し)宣徳帝が南京から戻ると、公は騎兵の精鋭を率いて出迎え固城にて警護した。翌年の宣徳元年、楽安の朱高煦が謀叛を起こしたとの報告が入ると、宣徳帝は親征し、陽武侯の薛禄と公に先鋒を命じた。このとき諸将の多くが畏れ怯み、一部は帝と朱高煦と両天秤にかけていた。公と薛禄は兵を率いて楽安に急行すると、城を包囲した。逆徒は戦意を失い、遂に朱高煦を捕らえた。論功により公は、家奴二百人を賜った。丁未、兵を率いて長城外に出征し、哈剌哈孫を破って捕らえ、鎮撫の晃合貼木児ら百人以上を生け捕りにし、羊と馬二万を獲得して、金壼・玉盞・彩幣・白金を賜った。戊申、古北口を出て、小興州で敵と遭遇し、百戸の猛可沙児を殺して、タタ禿ら二百人以上を捕らえ、羊と馬四万を獲得した。己酉、再び古北口から出て、夜中に進軍して款堆に至り、脱脱口温ら百人以上を討ち取って、紅螺山まで進軍して帰還した。帝より兵を労うために酒三百瓶と羊百頭を賜った。甲寅、偵察のため小伯顔以北に至り、格千完者貼木児を捕らえた。公の戦果は東北の二辺にて最も有名となった。
 公は身長七尺、心は勇ましく容貌は立派で、沈毅にして謀あり、勇気と決断力があって戦いを得意とし、平和なときには泰然自若としていた。またよく下の者と苦楽を共にし、功がある人を推薦して、その人が登用されることを楽しみとした。(中略)
正統七年九月庚午、夫人の潘氏が碑を立てた。(後略)


 なお詳しくは「明永樂朝軍功宦官劉氏兄弟史事考述」をご覧ください。

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ナントカ堂 2019/11/10 19:08

高麗史世家の中の渤海人記事

なんとなく

太祖八年(925)九月丙申、渤海の将軍の申徳ら五百人が来投した。

同月庚子、渤海の礼部卿・大和鈞、均老司政の大元鈞、工部卿の大福謨、左右衛将軍、大審理らが民百戸を率いて来附した。
(中略・契丹が渤海を滅ぼしたため)来奔者が相次いだ。

十二月戊子、渤海の左首衛小将の冒豆干、検校開国男の朴漁らが民千戸を率いて来附した。

十年三月甲寅、渤海の工部卿の呉興ら五十人と僧の載雄ら六十人が来投した。

十一年三月戊申、渤海人の金神ら六十戸が来投した。

同年七月辛亥、渤海人の大儒範が民を率いて来附した。

同年九月丁酉、渤海人の隠継宗らが来附した。天徳殿で太祖に拝謁し三拜した。ある人が「礼を失している」と言うと大相の含弘は言った。「領土を失った人が三拜するのは古の礼である。」

十二年六月庚申、渤海人の洪見らが船二十艘に人と物を載せて来附した。

同年九月丙子、渤海の正近ら三百人あまりが来投した。

十七年七月、渤海国世子の大光顕が数万人を率いて来投した。王継との姓名を賜り宗籍に附けられ(高麗王の一族とされ)特に元甫守に任命されて白州で先祖の祭祀を続けることになった。その家臣には爵を、兵士には地位に応じて田宅を賜った。

同年十二月、渤海の陳林ら百六十人が来附した。

太祖二十一年、渤海人の朴昇が三千戸あまりを以って来投した。

景宗四年(979)、渤海人数万が来投した。

顕宗二十年(1029)九月戊午、契丹の東京将軍の大延琳が、大府丞の高吉徳を遣わして建国を告げ、同時に支援を求めた。大延琳は渤海の始祖の大祚栄の七代目の子孫で、契丹に叛いて興遼国と号し元号を天興とした。

同年十二月庚寅、興遼国の大師の大延定が、東北女真を引き込んで共同で契丹を攻撃し、高麗に使者を遣わして援軍を求めた。顕宗はこれを断った。以後、道が妨げられ契丹とは不通となった。

二十一年正月丙寅、興遼国が再び水部員外郎の高吉徳を遣わして援軍を求める上表をした。

同年七月乙丑、興遼国の行営都部署の劉忠正が、寧州刺史の大慶翰を遣わして上表文を届け、援軍を求めた。

同年九月丙辰、興遼国のエイ州刺史の李匡禄が高麗に来て緊迫した状況を告げた。まもなく興遼国は滅び、李匡禄は高麗に留まって帰らなかった。

同年十月、契丹・奚哥・渤海の民五百人あまりが来投したので、江南の州郡に住まわせた。

二十二年三月、契丹と渤海の民四十人あまりが来投した。

同年七月丁卯、渤海の監門軍や大道行郎ら十四人が来投した。

同月己巳、渤海の諸軍判官の高真祥と孔目の王光禄が契丹から牒を持って来投した。

徳宗元年(1032)正月戊戌、渤海の沙志や明童ら二十九人が来投した。

同年二月戊申、渤海の史通等十七人が来投した。

同年五月丁丑、渤海の薩五徳ら十五人が来投した。

同年六月辛亥、渤海の于音や若己ら十二人が来投した。

同月乙卯、渤海の所乙史ら十七人が来投した。

同年七月丙申、渤海の高城ら二十人が来投した。

同年十月丙午、渤海の押司官の李南松ら十人が来奔した。

徳宗二年夏四月戊戌、渤海の首乙分ら十八人が来投した。

同月戊午、渤海の可守ら三人が来投した。

同年五月癸巳、渤海の監門隊正の奇叱火ら十九人が来投した。

同年六月辛丑、渤海の先宋ら七人が来投した。

同年十二月癸丑、渤海の奇叱火ら十一人が来投したので南の地に住まわせた。

文宗四年(1087)四月癸酉、渤海の開好らが来投した。

睿宗十一年(1116)三月壬寅、鄭良稷が遼の東京から戻ってきた。このとき東京の渤海人は乱を起こして留守の蕭保先を殺し、供奉官の高永昌を擁立して、皇帝を僭称し国号を大元、元号を隆基とした。(後略)

同年十二月、契丹人三十三人、漢人五十二人、奚人百五十五人、熟女真十五人、渤海人四十四人が来投した。

十二年正月壬辰、渤海人五十二人、奚人八十九人、漢人六人、契丹人十八人、熟女真八人が遼から来投した。

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ナントカ堂 2019/11/10 16:07

世宗実録地理志を訳して

訳していてなんとなく思ったことは
各道である程度癖があって、それを整合しないで載せているな、ということです
語句が微妙に違うのと、著者の好みで偏りがあって
忠清道や慶尚道なんて「霊異」の項目が全然無いのに
平安道は「霊異」の項の『檀君古記』の引用文がかなり長い
例えば『三国史記』だと河伯と海慕漱は会っていないのですが
地理志引用の『檀君古記』だと本当の天帝の子か確かめるために

そこで河伯は庭前の川で鯉と化すと、流れに乗って泳いだ。
海慕漱はカワウソと化すとこれを捕らえた。
河伯が鹿と化して走ると、海慕漱は豺と化してこれを追った。
河伯が雉と化すと、海慕漱は鷹と化してこれを捕らえた。

とかやっていたり
松讓が朱蒙に降った件でも

朱蒙は西に狩りに行って白い鹿を捕らえると、蟹原にてこれを縛りつけ、このように祈った。
「天が雨を降らせて沸流王の都を水没させるなら汝を解き放とう。この危機を逃れたいのであれば、汝は天に訴えよ。」
鹿が哀しく鳴くと、その声が天まで届き、七日間雨が降り続いて松讓の都は水没した。
朱蒙が馬に乗って葦の綱を流すと、松讓の民はその綱に捕まった。
そこで朱蒙が鞭で水を打つと、水は減っていった。
松讓は国を挙げて来降した。

とか書いてあります。

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ナントカ堂 2019/11/06 16:00

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