ナントカ堂 2019/11/10 19:08

高麗史世家の中の渤海人記事

なんとなく

太祖八年(925)九月丙申、渤海の将軍の申徳ら五百人が来投した。

同月庚子、渤海の礼部卿・大和鈞、均老司政の大元鈞、工部卿の大福謨、左右衛将軍、大審理らが民百戸を率いて来附した。
(中略・契丹が渤海を滅ぼしたため)来奔者が相次いだ。

十二月戊子、渤海の左首衛小将の冒豆干、検校開国男の朴漁らが民千戸を率いて来附した。

十年三月甲寅、渤海の工部卿の呉興ら五十人と僧の載雄ら六十人が来投した。

十一年三月戊申、渤海人の金神ら六十戸が来投した。

同年七月辛亥、渤海人の大儒範が民を率いて来附した。

同年九月丁酉、渤海人の隠継宗らが来附した。天徳殿で太祖に拝謁し三拜した。ある人が「礼を失している」と言うと大相の含弘は言った。「領土を失った人が三拜するのは古の礼である。」

十二年六月庚申、渤海人の洪見らが船二十艘に人と物を載せて来附した。

同年九月丙子、渤海の正近ら三百人あまりが来投した。

十七年七月、渤海国世子の大光顕が数万人を率いて来投した。王継との姓名を賜り宗籍に附けられ(高麗王の一族とされ)特に元甫守に任命されて白州で先祖の祭祀を続けることになった。その家臣には爵を、兵士には地位に応じて田宅を賜った。

同年十二月、渤海の陳林ら百六十人が来附した。

太祖二十一年、渤海人の朴昇が三千戸あまりを以って来投した。

景宗四年(979)、渤海人数万が来投した。

顕宗二十年(1029)九月戊午、契丹の東京将軍の大延琳が、大府丞の高吉徳を遣わして建国を告げ、同時に支援を求めた。大延琳は渤海の始祖の大祚栄の七代目の子孫で、契丹に叛いて興遼国と号し元号を天興とした。

同年十二月庚寅、興遼国の大師の大延定が、東北女真を引き込んで共同で契丹を攻撃し、高麗に使者を遣わして援軍を求めた。顕宗はこれを断った。以後、道が妨げられ契丹とは不通となった。

二十一年正月丙寅、興遼国が再び水部員外郎の高吉徳を遣わして援軍を求める上表をした。

同年七月乙丑、興遼国の行営都部署の劉忠正が、寧州刺史の大慶翰を遣わして上表文を届け、援軍を求めた。

同年九月丙辰、興遼国のエイ州刺史の李匡禄が高麗に来て緊迫した状況を告げた。まもなく興遼国は滅び、李匡禄は高麗に留まって帰らなかった。

同年十月、契丹・奚哥・渤海の民五百人あまりが来投したので、江南の州郡に住まわせた。

二十二年三月、契丹と渤海の民四十人あまりが来投した。

同年七月丁卯、渤海の監門軍や大道行郎ら十四人が来投した。

同月己巳、渤海の諸軍判官の高真祥と孔目の王光禄が契丹から牒を持って来投した。

徳宗元年(1032)正月戊戌、渤海の沙志や明童ら二十九人が来投した。

同年二月戊申、渤海の史通等十七人が来投した。

同年五月丁丑、渤海の薩五徳ら十五人が来投した。

同年六月辛亥、渤海の于音や若己ら十二人が来投した。

同月乙卯、渤海の所乙史ら十七人が来投した。

同年七月丙申、渤海の高城ら二十人が来投した。

同年十月丙午、渤海の押司官の李南松ら十人が来奔した。

徳宗二年夏四月戊戌、渤海の首乙分ら十八人が来投した。

同月戊午、渤海の可守ら三人が来投した。

同年五月癸巳、渤海の監門隊正の奇叱火ら十九人が来投した。

同年六月辛丑、渤海の先宋ら七人が来投した。

同年十二月癸丑、渤海の奇叱火ら十一人が来投したので南の地に住まわせた。

文宗四年(1087)四月癸酉、渤海の開好らが来投した。

睿宗十一年(1116)三月壬寅、鄭良稷が遼の東京から戻ってきた。このとき東京の渤海人は乱を起こして留守の蕭保先を殺し、供奉官の高永昌を擁立して、皇帝を僭称し国号を大元、元号を隆基とした。(後略)

同年十二月、契丹人三十三人、漢人五十二人、奚人百五十五人、熟女真十五人、渤海人四十四人が来投した。

十二年正月壬辰、渤海人五十二人、奚人八十九人、漢人六人、契丹人十八人、熟女真八人が遼から来投した。

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