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ナントカ堂 2024/06/01 12:00

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ナントカ堂 2024/05/21 23:26

梁子美

 梅原郁氏の「宋代の恩蔭制度」の「おわりに」には
 「宋代の宰相には、なるほど、呂蒙正、李迪、王曾らの状元出身者をはじめとして科挙の上位出身者が少なくない。しかし目を転ずれば、賈昌朝、陳執中、梁適など、恩蔭出身者も混じっており、執政クラスにもそれが稀ではない。」
 とあります。
 賈昌朝と陳執中の子は恩蔭かどうかは分かりませんが、梁適の孫の梁子美は恩蔭により出仕して、これも執政クラスに昇進しています。(『万姓統譜』には徽宗が梁子美に対して「卿は四代続けて京尹となった。士大夫の間でも光栄なことだ」と言ったと記されています)
 ここでは『東都事略』巻六十六よりその伝を見ていきましょう。


 梁子美、字は才甫、蔭位に拠り出仕し、紹聖の初めに梓州路常平となった。湖南路に異動となって提点刑獄に昇進し、徽宗が即位すると河北転運使となった。
 梁子美は水上輸送で得た利益を上納し、遂には三百万緡で北珠を買って進上した。北珠とは敵地(契丹)から来るもので、敵は初め輸出禁止にしようとしていたが、群臣が協議してこのように言った。
「中国は府庫を傾けて無用の物を買う。これは我らの利となり中国は困窮するであろう。」
 崇寧年間に各地の漕臣が羨余を進上するのは、梁子美より始まる。
 枢密直学士から戸部尚書兼開封尹となった。
 梁子美は府の政務を執るに当たり、大小と無く全て自ら決裁したため、胥吏が賄賂を受けることができなかった。このため共謀して文書を路上で受け渡していたが、発覚すると路上に棄てて逃げた。梁子美はこの書状を焼くよう命じた。徽宗が焼いた理由を問うと、梁子美は「事が大事であれば改めて訴えざるを得ません。小事であれば放置しても良いでしょう。」と答え、徽宗は納得した。
 尚書右丞を拝命し、左丞となり中書侍郎に昇進して資政殿学士・定州知州となった。大名府知府に異動し大学士に昇進した。ある罪で単州に流されたが青州知州として復帰し、観文殿学士に昇進して寧遠軍節度使を拝命した。病のため引退を願い出て、開府儀同三司・提挙崇福宫を拝命し、まもなく致仕した。七十八歳で卒去して少師を追贈された。
 梁子美は地方官の時代に、贅沢で残虐であったが、実務能力があったため、赴任する先々で実績を挙げたという。


 『東都事略』と『宋史』の両方に伝があると、大体同じ内容だと思われがちですが、視点が結構異なってきます。次に『宋史』巻二百八十五の伝を見てみましょう。


 梁子美は紹聖年間に提挙湖南常平となった。このころ新たに「復役法」が施行され、梁子美は真っ先に諸路の賦役を纏めて記し、提点刑獄に昇進した。
 建中靖国の初めに尚書郎中となったが、中書舎人の鄒浩の反対に拠り、京西転運副使に改められた。諫議大夫の陳次升は更にこう言った。
 「梁子美は章惇の姻戚に当たり、たびたび湖南に赴任したのは、章惇の意向に拠るものです。鄒浩の反対に拠り左遷しましたが、後々鄒浩が迫害される恐れがあり、梁子美を都の近くに赴任させるべきではありません。」
 そして成都路に異動となった。
 その後、累進して直龍図閣・河北都転運使になると、転運で得た利益を上納し、緡銭三百万で北珠を買って進上するに至った。崇寧年間に諸路の転運使が羨余を進上するのは、梁子美より始まった。
 北珠は女真の地より産出し、梁子美は契丹から買っていた。契丹は利益を求めて、女真を虐げ海東青を捕え北珠を求めた。遼宋両国の災いはここに端を発する。梁子美はこれを用いて高位高官に至った。
 宣和四年に病のため、開府儀同三司・提挙嵩山崇福宮として致仕し、卒去して少保を追贈された。
 梁子美は地方官の時代に、贅沢で残虐であったが、実務能力があったため、赴任する先々で実績を挙げたという。

 最後の一行だけは一字一句合っているので、『宋史』編纂者が『東都事略』を見ながら記事を取捨したのでしょう。

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ナントカ堂 2024/05/15 12:00

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ナントカ堂 2024/04/21 14:06

李重進

 後周の太祖は妻の甥を後継ぎにしましたが、何故血の繋がった姉の子の李重進に継がせなかったのか甚だ疑問です。今回はこの李重進について『宋史』巻四百八十四の伝を見ていきましょう。ただし李重進の伝は戦闘の描写が多く煩雑となるため、多少省略します。


郭簡
┣━━━━━━━━━━━━┓
┃  □         ┃ 
┃  ┣━━━━┓    ┃
郭威=柴氏  柴守礼  福慶長公主
┃       ┃    ┃
女=張永徳  世宗    李重進


李重進(『宋史』巻四百八十四)

 李重進は先祖が滄州の人で、郭威(後周の太祖)の甥、福慶長公主の子で、太原で生まれた。
 後晋の天福年間に出仕して殿直となり、後漢の初めに郭威に従って河中に遠征した。広順の初め(951)に内殿直都知に昇進して泗州刺史を領し、小底都指揮使に改められた。
 二年に大内都点検・権侍衛馬歩軍都軍頭に改められて恩州団練使を領し、殿前都指揮使に昇進した。三年に泗州防禦使を加領となり、顕徳の初め(954)に武信軍節度使を領した。

 李重進は世宗より年上で、郭威が病の床に就くと、召されて後事を託され、世宗に拝礼するよう命じられて、君臣の分を定めた。
 世宗が帝位を継ぐと、李重進は侍衛親軍馬歩軍都虞候となった。
(中略)
 張永徳が下蔡に駐留していた頃、李重進と不仲であった。張永徳は将吏と宴会を開くたびに、李重進の短所を暴露し、後には酔いに乗じて「李重進は陰謀を企てている」と言ったため、将吏はみな驚愕した。張永徳は密かに信頼する者を遣わして進言したが、世宗はその話を信じず意に介さなかった。二将が共に大軍を指揮していたため、人々は益々憂慮した。
 遂には李重進は寿陽から単騎で張永徳の陣に出向き、酒の席を設けさせる、自ら張永徳に酌をして言った。
 「私と貴公とは共に国家の肺腑であり、互いに力を尽くして国を盛り立てて行かなくてはならない。貴公は何故、私を深く疑うのか。」
 張永徳は和解し、二軍は共に落ち着いた。
 李景はこれを知ると、人を遣わして李重進に密書を送り、多大な利で勧誘した。李重進はこれを世宗に報告した。
 このころ行濠州刺史の斉蔵珍も李重進に謀叛を勧め、これを知った世宗は、他事にかこつけて斉蔵珍を誅した。
(中略)
 宋の太祖が即位すると、韓令坤が李重進に代わって侍衛都指揮使となり、李重進は中書令を加えられた。その後、青州に移鎮となって開府の資格を加えられた。
 李重進は太祖と共に後周に仕え、各々軍権を握っていたが、常に心の中で太祖を嫌っていた。太祖が皇帝になると益々不安になり、移鎮になるに及び、謀叛の志を懐くようになった。太祖はこれを知ると、安心させようと六宅使の陳思誨を遣わして鉄券を賜った。
 李重進は十分な備えをした状態で陳思誨と共に入朝しようと考えたが、側近に惑わされて決断できなかった。また後周の王室の近親であったため、いずれは滅ぼされるであろうと恐れ、遂には陳思誨を拘束して城壁を改修し武器を揃え、人を遣わして李景に援軍を求めた。李景は恐れて拒み、太祖に報せた。
 監軍の安友規は常日頃から李重進に嫌われていたが、ここに至り親しい者数人と共に城門を壊して出ようとした。兵たちに防がれ、ようやく城壁を越えて逃げることができた。李重進は軍校で自分に味方しない者数十人を捕えて皆殺しにした。

 太祖は、石守信・王審琦・李処耘・宋偓の四将に禁軍を指揮させて李重進討伐に向かわせた。このときちょうど安友規が都に到着したため、襲衣・金帯・器幣・鞍馬を賜り滁州刺史に任じて、前軍の監軍とした。
 太祖は側近に「朕は後周の旧臣を疑ったことは無い。しかし李重進は朕の心を理解せず、自ら謀叛の志を懐いた。今、六つの軍が地方に居る。まさに行って慰撫するのみ。」と言うと、遂には親征した。
 大儀鎮に布陣すると、石守信から使者が来て「揚州はまもなく落とせます。陛下直々その場面をご覧ください。」と伝えた。太祖が揚州城に行くと、即日陥落した。
 城がまさに落ちようとしたとき、側近が李重進に陳思誨を殺すよう勧めた。李重進は「私は今、一族挙げて火に身を投じ死のうとしている。陳思誨を殺して何の益があろうか。」と言うと、火を放って焼身自殺した。陳思誨も李重進の一党に殺された。
 太祖は城の西南に布陣すると、逆賊の一党数百人を見て全員殺した。李重進の兄で深州刺史の李重興は、李重進が叛いたと聞くと、自殺した。弟で解州刺史の李重賛と、子で尚食使の李延福は共に市場で処刑された。

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ナントカ堂 2024/04/14 11:04

劉予の子と孫

 前々回に続き『図絵宝鑑』から。
『図絵宝鑑』巻四にある「海陵王は水墨画を描き、竹を多く描いた。」という記述も面白いのですが、今回は「紫微劉尊師は偽斉の劉予の孫で、山水人物を得意とした。」との記述に着目します。
 そこで劉尊師の記述から入ろうと思ったのですが、劉予の子の劉麟の記事も日本語では乏しいので、まずは『金史』巻七十七からその伝を訳しましょう。


 劉麟、字は元瑞、劉予の子である。宋の宣和年間に、父の蔭位で将仕郎となり、累進して承務郎となった。

 天会七年に劉予が済南ごと降ると、劉麟はこれより金軍に従軍して、水賊の王江を撃ち破り降した。
 劉予が東平の統治を任されると、劉麟は知済南府事となった。斉が建国されると、済南は興平軍となり、劉麟は節度使・開府儀同三司・梁国公となり、諸路兵馬大総管・判済南府事に充てられた。翌年、斉の尚書左丞相となった。
 その翌年、劉予が開封に遷都すると、判済南府事は解任されたが、これまで通りに開府し、参謀を置くことを許された。
 劉予が劉麟を皇太子に立てるよう願うと、金の朝廷はこれを許さず、言った。
 「もし宋を討伐して、功を立てれば皇太子に立てよう。」
 ここに劉麟は連年兵を率いて南征したが、全て戦果無く帰還した。

 金の朝廷は斉の廃止を決め、劉予に南征の期日を伝えて、先に兵を出し淮河沿岸に布陣させるよう命じた。撻懶は軍の力で劉予を廃しようと、刁馬河に軍を止めた。
 劉麟が数百騎を率いて出迎えると、撻懶は劉麟に、指揮する騎兵を南岸に留め一人で渡河するよう命じた。こうして劉麟を捕えると、劉予を廃し、劉麟を臨潢に移した。
 しばらくして劉麟は北京路都転運使の地位を与えられ、中京路と燕京路の都転運使、参知政事や尚書左丞を歴任して、興平軍節度使・上京路転運使・開府儀同三司となり、韓国公に封ぜられて、六十四歳で薨去した。
 正隆年間に二品以上の官封を降格する命が下り、特進・息国公に改贈された。


 ここで改めて劉尊師について見ていきましょう。
 『図絵宝鑑』の記述は上記にあるのみなのですが、『元好問集』巻四十にはこのように記されています。


【跋紫微劉尊師山水】
 山水の画家では李成と范寬の後は、郭熙が絵の名人である。郭熙の筆は老いても衰えず、山谷詩に「郭熙の目は老いてもなお明るい」との句があり、これは郭熙が八十歳を越えた時に記されている。
 近年では太原の張公佐の「山間風雨」は神業であり、この人は八十六歳で亡くなった。その暮らしの跡は河東の各地にある。張公佐の後には紫微劉尊師がいる。
 尊師は山水を描くのを好み、老齢になってから郭熙の「平遠」を四幅手に入れると、これを愛しそこから技法を学んで、ここから画力が大いに向上した。今は九十七歳である。
 弟子の邵抱質が「春雲出谷」「湖天清昼」「千崖秋気」「雪満群山」を描いたが、特に師の画風の影響が見られる。邵抱質が私に題記を求めたので、この機にこの文を記す。
 この翁は定襄の人。童子の頃に入道し、道行は高潔で玄学の深淵に達した。人として正道を歩んだ人物と言えよう。ただ後世に、この人の絵だけを見て郭熙・張公佐と優劣を論じ、その行いが知られなくなるのではないかと心配である。玄学とは秘されたものであるから、今ここに明記するものである。
  歳癸丑冬十月旦、郡人元某(元好問)記す。


 劉予の評判が悪かったので、元好問は記さなかったのでしょう。

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