投稿記事

2021年 06月の記事 (2)

ナントカ堂 2021/06/27 16:20

曹利用

 澶淵の盟の記事を見ると、交渉役の曹利用が寇準に脅かされて云々と、何やら曹利用が情けない人物のように記しているものがまま見られますが、話を面白くするためか、科挙官僚の寇準を美化し、蔭位出の曹利用を劣って見せようとの意図かは知りませんが、単身敵陣に乗り込んで交渉する曹利用が弱弱しい人物のはずがありません。
 『宋史』巻二百九十よりその伝を、長くなるので前半だけ訳します。


 曹利用、字は用之、趙州の寧晋の人である。父の曹諫は明経で科挙に合格し、右補闕にまで至り、武略を以って崇儀使に改められた。

 曹利用は若い頃から弁論を好み気概があった。曹諫が卒去すると、殿前承旨に任じられた。その後、右班殿直に改められ、鄜延路走馬承受公事に昇進した。

 景徳元年(1004)、契丹が河北に攻め込み、真宗が澶州に出陣した。契丹の大将の撻覧が矢を受けて死ぬと、契丹は撤収しようと考え、王継忠に講和を協議するよう命じた。
 宋側で契丹への使者を選考している中、曹利用がちょうど報告のため行在に来ていたため、枢密院は曹利用を選出した。真宗は「これは重大事であり、軽率な人選をしてはならない。」と言った。
 翌日、枢密使の王継英も曹利用を推薦したため、曹利用に閤門祗候・崇儀副使の地位を与え、書状を持たせて契丹軍に送り出した。
 真宗が曹利用に言った。
 「契丹が南侵したのは、領土ではなく金品が目的であろう。関南の地は中華に帰属して既に久しく許してはならぬ。漢が単于に玉帛を賜った故事に倣うように。」
 曹利用は契丹に憤慨していたため、怒りを込めてこう答えた。
 「契丹が不当な要求をするなら、臣は生きて帰るつもりはありません。」
 真宗はその言葉を頼もしく思った。

 曹利用が早馬で契丹の軍中に至ると、耶律隆緒(聖宗)の母が車上で会った。車の軛に横板を設け、食器を並べて召し、共に飲食をして、契丹の従臣がこれに陪席した。会食が終わると、協議が行われ、関南の地の割譲が求められた。曹利用は拒否した。一旦、曹利用は戻り、契丹の臣の韓杞が同行した。
 曹利用が再び契丹への使者として遣わされると、契丹の国母が言った。
 「後晋は我が国に恩義があったため、我らに関南の地を割譲した。それを後周の世宗が取った。今こそ我が国に返還すべきである。」
 曹利用が言った。
 「後晋が契丹に割譲し、後周が取ったというのは、我が国には関係ないことです。もし毎年の金帛を要求するなら、帝がどうお考えになるかは分かりませんが、領土を割譲せよと言うなら、私は帝にお伝えしません。」
 契丹の政事舎人の高正始が進み出て言った。
 「我らが兵を率いてここまで来たのは、以前の領土を回復するためです。もし金帛を得ただけで帰ったなら、我が国の人々は恥と感じるでしょう。」
 曹利用が言った。
 「あなたは契丹の為に熟慮すべきです。もし契丹で貴方の意見が採用されたなら、戦いは止むことなく、民は休まることなく、貴国の損となりましょう。」
 契丹では、曹利用を屈服させるのは不可能と見て、和議が成立した。曹利用は誓約書を持って帰国し、東上閤門使・忠州刺史に抜擢されて、都に邸宅を賜った。契丹から使者が遣わされると、曹利用が命を受けて慰労の接待をした。

 宜州知州の劉永規は部下を制するに残酷で、軍校は兵たちの怨みに乗じて劉永規を殺し、反乱を起こした。柳城県を攻め落とし、象州を包囲し、別動隊が広州を攻めて、嶺南は大混乱となった。
 真宗は輔臣に言った。
 「先ごろ司天官が、兵乱が起こると占った。朕は以前から遠方の守将に適材が居ないことを憂慮していた。それが辺境で兵乱が起こり、心配が現実となった。曹利用は計略があり、心を尽くして事に当たる。あの者を広南安撫使としよう。」
 曹利用が嶺外に到着すると、武仙県で反乱軍と遭遇した。敵将は手には立派な飾りの槍と煌びやかな盾を持ち、武具は堅牢、鋭鋒は付け入る隙が無かった。曹利用は兵士に大きな斧と長刀を持たせると盾を破壊し、敵将の首を刎ねて皆に示した。嶺南が平定されると、引進使に昇進した。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2021/06/20 23:15

宋代の張飛?

 中国版のwikipediaである維基百科に「有宋朝張飛之風」とありますが、部下に乱暴して自業自得の張飛と比べるとあまりにも可哀そう。以下『宋史』巻二百五十九から。


 張瓊は大名の館陶の人で、代々牙中の軍人であった。張瓊は若い頃から勇猛で弓矢を得意とし、太祖の麾下に属した。
 後周の顕徳年間(954~960)、太祖が世宗の南征に従軍し、十八里灘の砦を攻撃中に軍船に包囲された。敵の一人が鎧を着て盾を持ち鼓を打ち鳴らしながら騒ぎ立てて前に出た。兵たちが敢えてこれに当たろうとしない中、太祖は張瓊に射るよう命じた。張瓊は一発で斃し、南唐軍は退いた。

 寿春攻撃の際、太祖は皮船に乗って城の壕に入った。そこへ突如、城壁の上から車弩が放たれた。矢の大きさは屋根の垂木ほどもあった。張瓊は急ぎ身を挺して太祖を覆い、矢は張瓊の股を貫いた。一旦死んだようになったが息を吹き返し、鏃は髀骨まで刺さって堅く抜けなかった。張瓊は杯に酒を満たして飲むと、骨が破れて鏃が出た。血が数升流れたが平然としていた。太祖はこれを頼もしく思い、即位すると禁軍の総大将に抜擢した。その後、累進して内外馬歩軍都軍頭となり、愛州刺史を領した。

 太宗が殿前都虞候から開封尹になると、太祖は言った。
 「殿前の衛士は狼虎のごとき者たちで普通の人間ではない。張瓊でなければ統率できない。」
 即座に張瓊を代わりの都虞候とし、嘉州防禦使に昇進させた。

 張瓊は生来粗暴で、多方面で軋轢を生んだ。このころ史珪と石漢卿が重用されていたが、張瓊は二人を「占いの老婆のようなもの」と軽侮していた。二人は深く怨み、「張瓊は勝手に官馬に乗り、滅ぼした李の下僕だった者たちを自分のものにし、部曲を百人以上抱えて権勢を振るい、禁軍の兵はみな恐れています。」と告発し、更に「太宗が殿前都虞候だった時の事を誹謗している」と讒言した。

 建隆四年(963)秋、郊祀が行われるに当たり、都を平穏な状況にしておきたいと考えた太祖は、張瓊を呼び出して訴えの件を問い質した。張瓊は認めなかったため、太祖は怒り、打つよう命じた。石漢卿は即座に鉄棒を振るうと乱打した。張瓊が気絶したので引きずり出し、太祖は御史に調査を命じた。張瓊は免れないことを知り、明徳門まで行くと、帯を解いて母に遺品として贈った。判決が下り、都城の西の井亭で自害するよう命じられた。まもなく太祖は、張瓊の家には財産は無く、下僕も三人しかいないことを知り、大いに後悔した。そして石漢卿を責めて言った。
 「汝は張瓊が下僕を百人有していると言ったが、それはどこにいるのか。」
 石漢卿は言った。
 「張瓊の下僕は一人で百人力です。」
 太祖は遺族を優遇し、子がまだ幼かったため、兄の張進を龍捷副指揮使とした。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事のタグから探す

限定特典から探す

記事を検索