投稿記事

無料プランの記事 (255)

ナントカ堂 2023/02/18 00:12

明代商人③ 輔国中尉友槐

 明も後期になると次第に宗室が困窮していき、中には商売をして生計を立てようとする者もいました。


明永寿府輔国中尉友槐公墓誌銘(温恭毅集巻十一)

 大輔国中尉は秦愍王の七代目の子孫、洪武帝の八代目の子孫である。
 (中略)輔国は裕福にして行いも良い人物であった。分家すると禄が少なかったが、県官が宗族への禄の支給に困っていたため「一人前の男が衣食を頼って県官を悩ますべきではない」と言い、元手を得て一族の貧者を呉・越・燕・晋に商売に向かわせた。商売に失敗した者には寛大に返済を求めず、異郷で亡くなった者には葬儀費用を出したため、人々は益々慕って商売に尽力し、百人以上の一族がその下で働いて多大な利益を得た。その金を使って妻の袁氏の父母とその子のために立派な墓を建て、李程と孟賢の葬儀も行い貧困のため結婚できない者を多く援助した。
 輔国は風格があり毎朝起きると天地と家廟を拝礼した。親に孝行で友や弟には親切、我が子には遊び惚けないよう教育し、自制心を持って細々とした生活を送った。しかし商売の付き合いに際しては時として大いに飲み肝胆相照らした。亡くなる前になおも数百金出して親戚に与えた。施すことを好む性格は終生変わらなかった。(中略)輔国中尉としての封禄は三百石のみであったが、巨万の富を得、親戚に施し頼られた。(後略)

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2023/02/03 22:55

明代商人② 潘紹宗

 元代には海外と貿易を行って富を蓄えた商人たちも、明代になると海禁政策により倭寇に転じる者もいる中で、一部は内地の水運に転じたようです。


潘紹宗小君墓誌銘(『平橋稿』巻十四)

 (前略)潘九宰は元により海道万戸に任じられた。その家では巨大船舶を三隻建造し、その大規模なものは一万石、中規模のものは八千石、小規模のもので六千石を積むことができた。毎年、万戸として得られる港湾税を用いて朝鮮まで行って交易を行い、多くの富を蓄えた。
 九宰と紹宗の父の祥卿とは仲が良く、祥卿の家もまた旧家であった。九宰が老いて子が無かったことを憐れに思った祥卿は、紹宗をその後継ぎとした。
 紹宗は体が大きく酒を嗜み施すことを好んだ。延祥寺を造営する際に米四千斛を寄進し、貧民が死んで棺が買えない場合には棺を与えた。三十年以上身を慎んで生き、公務を務めて過誤は無かった。
 永楽壬辰(1412)、湖湘を遡上し采石を過ぎたところで強風に遭い、船は壊れて紹宗は体を壊し、進めなくなって家に帰った。門まで迎えに出た妻は、紹宗の変わり果てた姿を見て抱き着き、泣きながら家に入れて何人もの医者に見せたが良くならなかった。妻は毎夜、香を焚いて神に祈ったが、遂には亡くなった。(後略)

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2023/01/29 17:39

明代商人① 王瑤

 『明代人物伝』の販促として、内容を少し。
 今回は兵部尚書の王崇古の先祖の王瑤の墓誌銘から。


 公は蒲州の善士で商人を生業とした。財産を蓄えるに際しては道義を守り、輸送に携わる際には常に書籍を携帯した。郷里の者に恵みを与え友を愛し、士大夫に謙譲した。唐の儒者は、墨家を標榜して行動は儒者である者を論じたが、公は世間では商人を名乗っていたが行動は儒者であった。その行いはここでは語り尽くせない。
(中略)
 公の諱は瑤、字は文允。号は素菴、姓は王氏、山西の蒲州の宣化坊の人である。先祖は龍門の出で、後に栄河に移った。元末に始祖の仲文が河中府掾となり、戈孺人を娶って、洪武の初めに蒲州に籍を置いた。
 仲文の子が彦純、彦純の子が秉信で、これが高祖父である。曽祖父は景厳、祖父の栄は高齢まで生き栄誉を賜った。父の声は敬斉と号し、貢士として鄧州訓導に就けられ、魯山教諭に昇進し徴仕郎・中書舎人を追贈された。その妻の張氏は孺人を追贈された。その末子が王瑤である。
 王瑤は幼い頃から大人びて、子供たちと入り混じって争うことはせず、父から孝経・四書を教えられると忽ちその概要を覚えた。王瑤は何回か科挙を受けたが合格せず家運が次第に傾いたためようやく商売を始めることにした。
 弘治丙辰(1496)、王瑤は他の鄧州の若者同様に収入が少なく自活困難であった。このため王瑤は鄧・裕・襄・陜の一帯で交易を行い、次第に豊かになっていった。
 乙丑(1505)、王瑤は魯山に移り、その地で産する竹・木・麻・漆から良質な物を選んで加工した。今に至るまで地元の人々は同じやり方をしている。
 正徳年間に父が致仕して帰郷すると資産が次第に減っていった。王瑤は張掖・酒泉間で交易を行い、更には仲間の商人たちと酒泉兵憲の陳公の元に行った。このとき河西では突如として戦が起こり、近隣の砦を守る者は余所者の入城を拒んだ。人々がどうしてよいか分からない中、王瑤は落ち着いて荷物を置くと、城壁の前で自分たちの周りを馬で囲い、弓を執り刀を持って自衛した。城壁からこれを見た陳公は王瑤らを城内に招き入れて言った。
 「敵が近くまで迫っているのに汝らは何故整然としていたのか。」
 王瑤は言った。
 「いずれにせよ死ぬのであれば、力を尽くして戦うのみ。首を差し出して刎ねられるのを待つことなどできません。」
 陳公は頼もしく思った。ここで王瑤は布や絹を出して兵士や下吏への労いとした。陳公はこれを恩義に感じた。
 王瑤は陳公に付き従って酒泉まで至ると、哈密の将兵が外敵と結んで乱を起こした。陳公は孤立して共に作戦を立てる者も無く、王瑤や他の商人を集めてこう誓った。
 「今や私は汝らが頼りだ。この変事に当たっては私は自らの軍を指揮するので、貴公は商人たちを率い昼夜武装して防衛し、一部隊長として働いてほしい。」
 陳公は反乱者を全て討ち取ると、再び塩を運んで淮・浙・蘇・湖間を往来し、数年のうちに再び裕福となった。その後は父母に孝養を尽くして晩年は楽しく暮らし、嘉靖壬午に父が没すると、格式以上の堂を立てた。
(以下、隠居生活のため略)

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2023/01/14 23:54

ダルガチ

 ウィキペディアの「ダルガチ」の項に
「このダルガチ(達魯花赤)に任命されるのはほとんどモンゴル人、稀に西域人や女真人で、漢人が任命されることはなかった」
とあって、そこに「要出典」とあるのに2009年5月から放置状態のようですが、ダルガチで調べると上位に来る山川出版のサイトにも
「少数の色目人(しきもくじん)(西域人)以外は全部モンゴル人が任命された。」
と書いてあるんですよね
 ウィキの「史弼 (元)」の項にも揚州路総管府ダルガチになったとありますし、ウィキに訳の無い漢人で『元史』に立伝されている人物だけを見ても、張雄飛(巻163)、張禧(巻165)、孟徳(巻166)、張庭珍(巻167)、劉好礼(巻167)、賈昔剌(巻169)、謝仲温(巻169)、張炤(巻170)らがダルガチに任命されています。
 ただし、入試は事実を答えるのではなくて教科書の通りに答えるものなので、出題された場合にはちゃんと「漢人は任命されなかった」と書いてください

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

ナントカ堂 2023/01/04 01:13

沈万三

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 新年初めの投稿は、『明代人物伝』より、『罪惟録』列伝巻三十二の「沈万三」の訳です。


  沈富、字は仲栄、行輩は三、沈秀はその俗称、沈郎は官職による呼称である。
 弟の沈万四は名を貴、字を仲華といった。
 もとは湖州の南潯の人で、元末に父の沈祐が蘇の長洲の東蔡村に移り住んだ。良い方法を見つけて水路の詰まりを直し富を築いたが、財産を重視することは無かった。子の沈漢傑は周荘に移り住み、後に沈万三も南京に移った。今の会同館はその旧宅である。
 洪武の初め、沈兄弟は富民として税一万石と白金五千を徴収され、軍営の建物六百五十棟を建てるよう命じられ、更には洪武門から水西門までの城壁を築くよう命じられた。沈万三はその上で兵士を労う費用まで出すことを申し出た。帝は「ここまで言うことを聞き続けるとは、その富が謀叛に使われては恐ろしい」と考えて殺そうとした。しかし皇后が反対したため取り止めた。
 その後、沈万三を告発する者が群を成して帝のもとにやって来たため、帝は沈万三を雲南に、弟の沈万四を湖州に流した。
 しばらく経って沈漢傑の子の沈玠が、民間の有力者であったため規定により戸部茶曹員外郎に任じられたが、官職は拝命して俸禄は辞退した。帝はその器量を認め重んじた。
 これ以前のこと。呉人の陸道元は江南で一番の富豪で、沈万三はその下で財産を預かり商売をしていた。陸道元は甫里書院山長となると、道士になる道を選び、託していた財産を二人の商人に与えた。一人は姓は葛で名は不明、もう一人が沈万三である。陸道元が喜捨した邸宅は竹林寺と名付けられた。道士の服を身に付けて師に就き、宗静と改名して陳湖のほとりに住んだ。陸道元はこれより良く人生を終えた。このことは楊循吉の『蘇談』に載っている。
 沈万三の遺宅は周荘にあり、建物はボロボロだがまだ残っており。敷地は甚だ広く大きな松があり、これが沈万三の植えたものだと言われており、子の沈漢傑もここに住んだ。沈万四の家は黄墩にあり代々伝わっている。両家の子孫は今でも裕福に暮らしている。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

5 6 7 8 9 10 11

限定特典から探す

記事のタグから探す

月別アーカイブ

記事を検索