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2023年 03月の記事 (3)

ナントカ堂 2023/03/23 12:00

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    Hirai ID01368337
    『大越史記全書』、購入させていただきました。

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ナントカ堂 2023/03/20 00:34

陳裕宗

 ウィキペディアの「陳裕宗」の項に

 「紹豊17年(1357年)の明宗の死後は実権を握るも、酒色に耽り奢侈を好むなどして国政を乱した。」

とありますが、『大越史記全書』にはそこに至る経緯をこう記します。


 己卯十一年八月十五日夜、上皇の子の陳暭が西湖に舟を浮かべて、溺れて魚簗に引っかかり助かった。上皇が医師の鄒庚に治療を命じると、鄒庚は「鍼を用いれば蘇生しますが、性的不能になるかもしれません。」と言った。鍼で治すと、果たしてその言葉の通りになった。これより鄒庚は人々から鄒神医と呼ばれ、累進して冠服侯・宣徽院大使兼太医使となった。


 辛卯十一年七月、鄒庚に罪があり死罪に相当したが、免れた。
 このころ帝が性的不能であったため、鄒庚が薬を進めた。その時こう言った。
 「男の子を殺して肝を取り、陽起石と混ぜて服用し、母を同じくする女と姦淫を行えば効果があるでしょう。」
 帝は納得し、嫡姉の天寧公主と通じると、果たして効果があった。
 鄒庚はこれより益々気に入られ、日夜後宮にて薬を扱い近侍し、遂には宮女と通じた。事が発覚すると、上皇は死罪に処そうとしたが、薬で帝を治療した功により免じた。


 丙午九年六月、帝は小舟に乗って米所郷にある少尉の陳吾郎の家に行き、三更になってから帰った。褚家江に至ると盗賊に遭い、宝璽と宝剣を失った。これより自らの命運が短いことを知り、益々逸楽に耽った。

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ナントカ堂 2023/03/13 00:27

陳国康(陳興道の異母弟)

 陳国康について、日本語で検索してめぼしい記事が無いので、ここに簡単に記します。
 (以下全て『大越史記全書』の記述に拠る)

 まず生まれですが、陳興道が1228年の生まれ。陳国康は、李氏莹が強引に陳柳と引き離されて太宗の皇后にされたときに、陳国康を妊娠していたので1237年生まれ。

 1261年の「陳光啓を太尉とした。」としたとの記事に続いて、帝の兄の陳国康が年長であったが、凡庸であったため陳光啓を任じたとあります。

 その後は演州を領地として貰ったようで、1269年の記事に「靖国大王の陳国康が演州に邸宅を建てた。廊廡が周囲を廻り、壮麗さが過剰で会った。帝はこれを聞くと、人を遣わし見に行かせた。陳国康は恐れ、仏像を造ってここに安置した。」とあります。

 1285年には庶子の陳鍵が部下と家族を連れて元に降っていますが、陳国康はあまりお咎めを受けなかったようで、1297年の死亡記事には
「陳国康は以前に演州を統治し、州の女のうち容姿に優れた者を選んで姫妾としていた。このため次子の陳恵義や陳国貞らは演州の女の所生であった。その後の演州知州は全て陳国康の子孫を充て、その子孫が絶えてから、州の人を知州とするようになった。」
とあり、世襲が認められています。

 上記の陳鍵については『大越史記全書』よりも『安南志略』の方が詳しく、巻十三にこのような伝があります。

 陳鍵は太国王の孫、靖国王の子で、本国では彰憲上侯に封ぜられた。立派な風貌で、兵書を読んで騎射を得意とした。父に代わって静海軍節度使を領し、太師・昭明王の娘の瓊徽を娶り、その間に墨侯が生まれた。
 至元甲申に世子の子の佐天王と仲違いし、老荘の道を学ぶとして仁睦郷に隠棲した。
 同年冬、鎮南王の大軍が侵攻すると、世子は戦って敗れ、更には右丞の唆都が占城から侵攻した。世子は動揺して策が無く、陳鍵を復帰させると、兵を指揮させて唆都を防がせた。
 兵は弱く援軍も無く、世子の生死も不明となり、陳鍵は黎崱らに言った。
 「世子に呼び出され、参内もしないままに軍を率いることとなった。世子は危機が迫っているのに状況を理解せず、このままでは国が亡ぶ。」
 翌年正月、黎崱ら数万の人々を率い、武器を献じて鎮南王に降った。鎮南王はその行動を嘉し、褒美として襲衣と鞍轡を与えた。
 四月に明里や昔班らに伴われて大都に向かうと、支凌まで来たところで安南国人に攻囲された。陳鍵は明里らと共に包囲を破ったが、更に前方で敵が待ち構えていて物資を全て奪われた。
 陳鍵は謙虚にして雅量あり、部下に温情を以って接したため、民から慕われていたが、不幸にも道半ばにして亡くなり、朝廷に仕えることができず、死して追贈を受けることも無かった。
 国から出る時、国母の母の黎氏も同行していたが、国人に捕らえられて殺された。痛ましいことである。ただその父母は世子の兄だったため難を免れた。

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