陳裕宗
ウィキペディアの「陳裕宗」の項に
「紹豊17年(1357年)の明宗の死後は実権を握るも、酒色に耽り奢侈を好むなどして国政を乱した。」
とありますが、『大越史記全書』にはそこに至る経緯をこう記します。
己卯十一年八月十五日夜、上皇の子の陳暭が西湖に舟を浮かべて、溺れて魚簗に引っかかり助かった。上皇が医師の鄒庚に治療を命じると、鄒庚は「鍼を用いれば蘇生しますが、性的不能になるかもしれません。」と言った。鍼で治すと、果たしてその言葉の通りになった。これより鄒庚は人々から鄒神医と呼ばれ、累進して冠服侯・宣徽院大使兼太医使となった。
辛卯十一年七月、鄒庚に罪があり死罪に相当したが、免れた。
このころ帝が性的不能であったため、鄒庚が薬を進めた。その時こう言った。
「男の子を殺して肝を取り、陽起石と混ぜて服用し、母を同じくする女と姦淫を行えば効果があるでしょう。」
帝は納得し、嫡姉の天寧公主と通じると、果たして効果があった。
鄒庚はこれより益々気に入られ、日夜後宮にて薬を扱い近侍し、遂には宮女と通じた。事が発覚すると、上皇は死罪に処そうとしたが、薬で帝を治療した功により免じた。
丙午九年六月、帝は小舟に乗って米所郷にある少尉の陳吾郎の家に行き、三更になってから帰った。褚家江に至ると盗賊に遭い、宝璽と宝剣を失った。これより自らの命運が短いことを知り、益々逸楽に耽った。