明代商人① 王瑤
『明代人物伝』の販促として、内容を少し。
今回は兵部尚書の王崇古の先祖の王瑤の墓誌銘から。
公は蒲州の善士で商人を生業とした。財産を蓄えるに際しては道義を守り、輸送に携わる際には常に書籍を携帯した。郷里の者に恵みを与え友を愛し、士大夫に謙譲した。唐の儒者は、墨家を標榜して行動は儒者である者を論じたが、公は世間では商人を名乗っていたが行動は儒者であった。その行いはここでは語り尽くせない。
(中略)
公の諱は瑤、字は文允。号は素菴、姓は王氏、山西の蒲州の宣化坊の人である。先祖は龍門の出で、後に栄河に移った。元末に始祖の仲文が河中府掾となり、戈孺人を娶って、洪武の初めに蒲州に籍を置いた。
仲文の子が彦純、彦純の子が秉信で、これが高祖父である。曽祖父は景厳、祖父の栄は高齢まで生き栄誉を賜った。父の声は敬斉と号し、貢士として鄧州訓導に就けられ、魯山教諭に昇進し徴仕郎・中書舎人を追贈された。その妻の張氏は孺人を追贈された。その末子が王瑤である。
王瑤は幼い頃から大人びて、子供たちと入り混じって争うことはせず、父から孝経・四書を教えられると忽ちその概要を覚えた。王瑤は何回か科挙を受けたが合格せず家運が次第に傾いたためようやく商売を始めることにした。
弘治丙辰(1496)、王瑤は他の鄧州の若者同様に収入が少なく自活困難であった。このため王瑤は鄧・裕・襄・陜の一帯で交易を行い、次第に豊かになっていった。
乙丑(1505)、王瑤は魯山に移り、その地で産する竹・木・麻・漆から良質な物を選んで加工した。今に至るまで地元の人々は同じやり方をしている。
正徳年間に父が致仕して帰郷すると資産が次第に減っていった。王瑤は張掖・酒泉間で交易を行い、更には仲間の商人たちと酒泉兵憲の陳公の元に行った。このとき河西では突如として戦が起こり、近隣の砦を守る者は余所者の入城を拒んだ。人々がどうしてよいか分からない中、王瑤は落ち着いて荷物を置くと、城壁の前で自分たちの周りを馬で囲い、弓を執り刀を持って自衛した。城壁からこれを見た陳公は王瑤らを城内に招き入れて言った。
「敵が近くまで迫っているのに汝らは何故整然としていたのか。」
王瑤は言った。
「いずれにせよ死ぬのであれば、力を尽くして戦うのみ。首を差し出して刎ねられるのを待つことなどできません。」
陳公は頼もしく思った。ここで王瑤は布や絹を出して兵士や下吏への労いとした。陳公はこれを恩義に感じた。
王瑤は陳公に付き従って酒泉まで至ると、哈密の将兵が外敵と結んで乱を起こした。陳公は孤立して共に作戦を立てる者も無く、王瑤や他の商人を集めてこう誓った。
「今や私は汝らが頼りだ。この変事に当たっては私は自らの軍を指揮するので、貴公は商人たちを率い昼夜武装して防衛し、一部隊長として働いてほしい。」
陳公は反乱者を全て討ち取ると、再び塩を運んで淮・浙・蘇・湖間を往来し、数年のうちに再び裕福となった。その後は父母に孝養を尽くして晩年は楽しく暮らし、嘉靖壬午に父が没すると、格式以上の堂を立てた。
(以下、隠居生活のため略)