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2023年 02月の記事 (2)

ナントカ堂 2023/02/18 00:12

明代商人③ 輔国中尉友槐

 明も後期になると次第に宗室が困窮していき、中には商売をして生計を立てようとする者もいました。


明永寿府輔国中尉友槐公墓誌銘(温恭毅集巻十一)

 大輔国中尉は秦愍王の七代目の子孫、洪武帝の八代目の子孫である。
 (中略)輔国は裕福にして行いも良い人物であった。分家すると禄が少なかったが、県官が宗族への禄の支給に困っていたため「一人前の男が衣食を頼って県官を悩ますべきではない」と言い、元手を得て一族の貧者を呉・越・燕・晋に商売に向かわせた。商売に失敗した者には寛大に返済を求めず、異郷で亡くなった者には葬儀費用を出したため、人々は益々慕って商売に尽力し、百人以上の一族がその下で働いて多大な利益を得た。その金を使って妻の袁氏の父母とその子のために立派な墓を建て、李程と孟賢の葬儀も行い貧困のため結婚できない者を多く援助した。
 輔国は風格があり毎朝起きると天地と家廟を拝礼した。親に孝行で友や弟には親切、我が子には遊び惚けないよう教育し、自制心を持って細々とした生活を送った。しかし商売の付き合いに際しては時として大いに飲み肝胆相照らした。亡くなる前になおも数百金出して親戚に与えた。施すことを好む性格は終生変わらなかった。(中略)輔国中尉としての封禄は三百石のみであったが、巨万の富を得、親戚に施し頼られた。(後略)

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ナントカ堂 2023/02/03 22:55

明代商人② 潘紹宗

 元代には海外と貿易を行って富を蓄えた商人たちも、明代になると海禁政策により倭寇に転じる者もいる中で、一部は内地の水運に転じたようです。


潘紹宗小君墓誌銘(『平橋稿』巻十四)

 (前略)潘九宰は元により海道万戸に任じられた。その家では巨大船舶を三隻建造し、その大規模なものは一万石、中規模のものは八千石、小規模のもので六千石を積むことができた。毎年、万戸として得られる港湾税を用いて朝鮮まで行って交易を行い、多くの富を蓄えた。
 九宰と紹宗の父の祥卿とは仲が良く、祥卿の家もまた旧家であった。九宰が老いて子が無かったことを憐れに思った祥卿は、紹宗をその後継ぎとした。
 紹宗は体が大きく酒を嗜み施すことを好んだ。延祥寺を造営する際に米四千斛を寄進し、貧民が死んで棺が買えない場合には棺を与えた。三十年以上身を慎んで生き、公務を務めて過誤は無かった。
 永楽壬辰(1412)、湖湘を遡上し采石を過ぎたところで強風に遭い、船は壊れて紹宗は体を壊し、進めなくなって家に帰った。門まで迎えに出た妻は、紹宗の変わり果てた姿を見て抱き着き、泣きながら家に入れて何人もの医者に見せたが良くならなかった。妻は毎夜、香を焚いて神に祈ったが、遂には亡くなった。(後略)

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