李元桂
前回、曹頔について書きましたが、同じ『高麗史』巻百三十一の叛逆五には金鏞という人物の伝があります。詳しくは「高麗時代の「叛逆伝」研究 Ⅴ」をご覧いただくとして、簡単に言うと、クーデタを起こして恭愍王殺害を図るも、誤認して宦官を殺し、鎮圧されて処刑された人物です。これが恭愍王十二年(1363)のこと。
その二年前に没した李子春の墓誌(『牧隐文稿』巻十五所収)には、李子春の長男の李元桂は、賛成事の金鏞の娘を妻としているとあります。
一般には、李子春の子は長男が李元桂、次男が李成桂。李元桂は母の身分が低くて庶子とされ、李成桂が嫡子として跡を継いだ、とされていますが、高麗時代の歴史書は徹底した焚書が行われており不明な点が多いです。
もともとは李元桂もそれほど地位が低くは無く、高官の婿となるような人物であったものの、義父が謀叛人となったため地位が低下し、朝鮮建国の同年に没したため(一説には簒奪を諌めて自害)、初めから地位の低い人物とされたのではないでしょうか。