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2021年 11月の記事 (1)

ナントカ堂 2021/11/28 14:31

馮守信

 以前に『宋史』と『東都事略』の違いについて述べましたが、『東都事略』に伝があって『宋史』に伝が無い人物もいます。それが 馮守信です。
 『宋史』では「志第十七 五行二下」に「瀛州で二つ穂のついた稲が生じた。知州の馮守信がこれを報告した。」としか出てこない馮守信ですが、『東都事略』巻四十二に以下の伝が収められています。


 馮守信、字は中孚。滑州の白馬の人である。
 太平興国の初め(976)に募集に応じて軍籍に入った。太原遠征に従軍し、先頭に立って城壁を登り多くの敵を討った。
 真宗の時代に至り軍功により天武都虞候に昇進した。真宗が大名まで出陣すると御龍直都虞候に昇進し、更に北に進軍する真宗に従った。衛南に到着して陣を敷くと、真宗は尋ねた。
 「契丹が我が領内に攻め入った。汝らはどのように力を尽くすのか。」
 馮守信は言った。
 「臣らは宿衛に詰めて常に死を賭して戦う覚悟を決めています。今、主上が親征するまでに至ったのは、将帥の失態によるものです。」
 真宗はその忠誠心を嘉し、天武軍都指揮使の地位を与えた。その後、累進して萊州団練使となった。
 馮守信は元は農家の家の子で一兵卒から身を起こした。このため民間の苦境をよく知り、政治を行うと弊害を無くした。
 滄州に異動となり、まもなく選ばれて龍神衛四廂都指揮使・英州防禦使となり、定州知州となって赴任し、高陽関・瀛州知州に異動となった。
 滑州城の西で黄河が決壊すると、直ちに馮守信が滑州の政務を執るよう命じられた。
 歩軍副都指揮使・容州観察使を加えられ、威虜軍節度使を領し、六十六歳で卒去すると、太尉を追贈され、勤威と諡された。


 短いように思われるかもしれませんが、全体的に『東都事略』は『宋史』と比べて記事が少なめなので、ごく標準的な分量です。
王安石の『王臨川集』巻八十八の神道碑にはこのように記されています。


 馮氏の家は滑州の白馬にある。先祖は元はどこに居たのか分からないが、魯公は「先祖は始平に居た」と言い、これは漢代の杜陵で、楚相の馮唐の子孫である。
 公の諱は守信、字は中孚。子供の頃から立派な風貌で、慷慨して大志を抱いており、この頃から既に人々から只者では無いと見られていた。加冠の儀を済ませると、地元の人に就いて学び、「三礼」を習得したとして地元から推挙された。
 太平興国の初めに民間から兵を取ると、公はこれに応募した。担当官は、公が儒者であるため兵役を免除しようとすると、公は言った。
「私の代わりに父や兄に負担を掛けるのは、儒者の成すべきことではない。」
 結局、兵となり、才と武を認められて宿衛に配属された。
 太宗が河東に遠征すると、公は奮起して白刃をものともせず、いくつもの首級を挙げて行在に献じた。太宗はこれを頼もしく思い労った。その後、功を重ねて昇進し、弓箭直副指揮使に至った。
 真宗が二度河北に親征すると、公は二回とも主将を任され、先に戦場に向かい契丹を防いだ。公の首級と捕虜の数は諸将のなかで最多であり、天武軍都指揮使・封州刺史に昇進して、御前忠佐馬歩軍都軍頭に充てられた。
 公は戦場に在っても、たびたび『孝経』と『論語』を人々に講義し、人々から儒者として尊敬された。ここに至り、真宗は公を召し、『孝経』の中から一節を選んで講義するよう命じた。公は「天子」の一章を選んで講義し、こう言った。
 「天子から士に至るまで、学問をしなくてはなりません。学問をするには必ずしも師は必要ではありません。『孝経』と『論語』は共に、孔子が弟子に教えたことの要点が記されています。臣は全てを知り尽くしているわけではありませんが、陛下に仕えるに当たり、一日たりとも孔子の道を忘れたことはありません。」
 真宗は長時間感嘆した。
 その後、封州刺史から幾つもの官職を経て捧日四廂都指揮使・英州防禦使・瀛州知州兼高陽関都部署となり、瀛州から都に召されて、歩軍司公事を領した。
 このころ滑州で黄河が決壊した。真宗はこれに頭を悩まし、誰を現地に向かわせるべきかを尋ねると、公は自ら名乗り出て言った。
「私は黄河沿岸で育ちました。よく黄河の利害を知っています。」
 そこで真宗は公を、侍衛親軍歩軍副都指揮使・容州観察使・滑州知州兼修河都部署とした。
 黄河は荒れ狂い、堤防も崩れていた。公は堤防の上に座ると平然と指示を出し、一日にして崩れた箇所を塞いだ。真宗から直筆の書で褒められ、都に戻ると以前同様に歩軍を領した。
 その後、天禧五年に威塞軍節度使に昇進し、同年八月二日、公は六十六歳で在職のまま薨去した。真宗は慟哭し、朝政を二日間停止して、太尉を追贈し、銭三百万を賜った。敕により宣慶使・蒋州団練使の韓守英と礼部郎中・直集賢院の石中立が官費で葬儀を取り仕切った。同年九月二十四日、開封の祥符県の黃溝郷の大里の原に埋葬された。
 公の曽祖父の倫と祖父の筠は共に仕官しなかった。父の蘊は左屯衛大将軍を追贈された。先夫人の劉氏は玉城県君、後夫人の張氏は清河郡夫人となった。
 男子は十三人、文懿は左侍禁、文吉・文握・文徳・文慶・文顕・文質・文貴・文鋭は共に右班殿直、文燦と文竣は右侍禁、文鬱と文雅はこれ以前に卒去した。
(後略)


 おそらくは農民出の軍人なのに民政が得意なことに加え、新法党の王安石が称賛したため、旧法党の流れを汲む士大夫が主流の『宋史』編纂の際に削られたのでしょう。

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