SHA 2018/03/16 04:36

【頭が胴体に…】李書文

▶李書文(り しょぶん)

今回は1920世紀に活躍した中国の武術家「李書文」を紹介します。



「少年」李書文

李書文は中国の貧しい農民の子として生まれた。
彼の生まれた滄州市(そうしゅう-し)は「武術の郷」として名高く、まだ少年であった李書文も武術を身に付けていった。



彼はそこで八極拳と劈掛掌(ひかしょう)を学ぶ。

【説明しよう!劈掛掌とは!?】
他の武術のように真っ直ぐに構えず、「上体を前後左右に大きく動かしつつ曲線的な歩法で、連続的に相手の攻撃をかわして攻撃する点」が特徴の中国武術である!
主な使い手は『FAIRY TAIL』のバッカス、『鉄拳』のリン・シャオユウ、
DEAD OR ALIVE』のエレナなどである!



才能か、努力の成果か、環境によるものか、師の教えの良さか…彼は急速に実力をつけた。その実力は、師匠や兄弟子までも一目置くほど。
だが…ひょっとすると、同時に恐れも抱いていたのかもしれない。
なぜなら李書文は、練習であろうと誰であろうと、常に本気で戦い対戦相手に怪我をさせ、殺傷してしまうこともあったからだ。




●李書文伝説ッッその1

得意技・猛虎硬爬山(もうこ こうはざん)の鍛錬においてッ
重さ100kg以上の石製ローラーを2m余りの段差がある畑の上階へ投げ上げていたと伝えられるッ




教師として



軍人・袁世凱
彼は当時、なんやかんやで中華民国大総統になっていた。
そんな袁世凱は天津で軍事訓練をする際、近隣の有名な武術家を教師として招いた。
その時に呼ばれたのが、李書文である。
彼は武術家団体「天津中華武士会(てんしんちゅうかぶしかい)」にも参加し、他の武術家たちと交流を深める。
この教師としての経験、多くの人間との交流が、李書文をさらに強くさせたのかもしれない。




●李書文伝説ッッその2



北京での武術家との試合にてッ 牽制の突きだけで相手を打ち殺してしまうッッ
格闘ゲームで例えるなら!弱パンチだけでKOしてしまうほどの強さ!(多分ね)
こうして、李書文は逮捕されぬよう慌てて故郷の滄州へ帰ったと言われているッ!


▶閃電手との出会い

数多くの伝説・逸話を持つ李書文。
だが、彼が中華武士会で交流した武術家たちも彼に負けず劣らずの実力者であった。
その1人張占魁(ちょう せんかい)
李書文が小柄でやせていたのに対し…張占魅は大柄であり、その恵まれた体格から繰り出される大技から「閃電手(シャンディ・ショウ)」あだ名される。

武術は、形意拳(けいいけん)・八卦掌(はっけしょう)を学んでいた。
この2つの武術は共に「套路(とうろ)」と呼ばれる中国武術の練習法が存在しており…(太極拳などにもある)
これは攻撃・防御方法、立ち方、歩き方などを総合的に盛り込んだ一連の動作のこと…なのだが…
李書文はこの套路を重視せず、「動作が大きく、見た目だけで実戦向きでない技法」として認めなかった。



また、形意拳には「槍を中心に棍棒、剣、刀、暗器などの豊富な武器術」が存在したが…李書文の場合は槍術を重視し、他の武器術を軽視する傾向があった。
これは、後に弟子にも説いた「多くの技を身に付けるより、1つの優れた技を極めよ」という彼の思想からくるものであろう。
李書文が張占魁と交流したことでこのような考えに至ったのか、会う前からその考えがあったのかは分からないが…
張占魁との交流によって、李書文がさらに成長した事は間違いないだろう。



やっぱり、意見や考えが違う人ともちゃんと交流した方が良いんですね~


▶群雄割拠



19166月、「袁世凱」死す。
彼の部下たちは、相次いで政権につき、いわゆる「北京政府」として対外的には中華民国の正式政府として存続していた。
ところがである!
いずれの政権も中国大陸全体をまとめる力を持ちえず、「各軍閥の群雄割拠時代 (
1916年~1928年ぐらい) 」に突入したのである!
「戦国時代・近代中国ver」みたいなものだぜ!
いやちょっと違うか
?まあいいや!
というわけで、中国における実力者になる為に、各軍閥は軍事力を必要としていた。
そんな軍閥の将軍に高く評価されていた李書文は、軍事・武術教練の教師として各地に呼ばれる。
将軍たちの野心や利権にまみれながら、彼はさらに強くなっていった。


●李書文伝説ッッその3



山東省において「鉄頭王」という武術家と試合をすることになったッ
その際に李書文は「最初に3回殴って良いよ、その後に俺が1回だけ打つから」と言い放ったッ!
そして!
李書文の脳天への一撃で…ッ
「鉄頭王」の頭は胴体にめり込み…亡くなった。

・ロシア「…八極拳ってすごい。」
・アメリカ「警察仕事しろ。」
・中国「武術家同士の試合はお互い命懸けだから…その辺は…まあ、うん…アルヨ。」


▶李書文お爺さん

さ~て、豪快で苛烈な伝説を持つ李書文さん!
そんな彼は…晩年…子供たちに武術を教えていたよ。
そして、近所の子供たちからは「把式爺爺(バーシーイェイェ)、武術家のお爺さん」とあだ名されていたそうな。
この感じだと、それなりに子供たちに好かれてたっぽいね。
さらに、弟子の教育にも力を入れ…李書文の弟子たちは後に「ラストエンペラー・愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)」や「中国共産党のヤベー奴・毛沢東」や「国民党のヤベー奴・蒋介石」などのボディーガードを務めたよ。

▶達人、逝去

1934年6月、武術家「李書文」 天津にて逝去、享年70。
死因は毒殺説と病死説がある。
弟子の1人は「毒殺である」と確信し、犯人を探した。
一方、李書文の家族は「病死、脳出血である」と述べている。








「ドーモ。リショブン=サン。リアルチートです」






















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