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日本軍の記事(6)

SHA 2022年06月28日 16:37

「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」

これは日本海軍の撃墜王「岩本徹三」さんに関するYoutube動画の台本です

誕生から珊瑚海海戦までを解説しています


1916年6月、岩本徹三は樺太で生まれます
父親は東京の警視庁勤務でしたが、危険な外地への勤務を志願
陸軍守備隊陣地に囲まれた樺太国境に勤務していました
小学生の頃、父親が北海道札幌市の署長に転勤し、スキーで登校することもあったそうです
13歳のときには、父親が警察を退職して父の故郷である島根県益田へ移ります
農林学校に転入した岩本は、学校のクラブ活動ではラッパ隊に入部していました
読書と園芸が趣味の一方で、体を動かすことを好み
地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝う事もありました
一本気の頑固な正義感の持ち主でもあり、教師を困らせてしまう事もありました

1935年に農林学校を卒業後、岩本は父親から
「都会から戻らないつもりの長男や、亡くなった次男の代わりに、家に残ってほしい」と諭されました
ですがこの父親の意思に反して、大学受験と偽り、海軍の志願兵も試験を受験
見事に合格し、岩本は航空科を選択
その後、海兵団に入団する際に
「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と両親に告げています

海兵団とは、日本海軍の教育機関のような部隊の事
軍港の警備防衛、下士官・新兵の艦船部隊への補充や
新兵、下士官などに教育を施していました
1934年6月1日、広島県の呉海兵団に四等航空兵として入団
2年後には操縦練習生として、茨城県の霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
練習生の岩本は射撃の成績が抜群で、努力家でした
消灯のあとでも教本を持ち外に出て、街灯の光で遅くまで勉強したこともありました
この当時は磯崎千利(いそざき ちとし)などから教えを受けています

磯崎千利は後の岩本と同じ、エースパイロット
日中戦争・支那事変の時には、すでに撃墜王として武名をはせていた岩本徹三とは異なり
戦線を通じて大きな空戦に恵まれることはありませんでした
1943年6月16日、ソロモン諸島上空で初撃墜を記録
以降は航空隊分隊長としてブイン、ラバウルにおける空中戦で多大な戦果を挙げ
初陣以来5年目にしてようやく武運に恵まれました
そんな磯崎から教えを受けた岩本は、
中国との日中戦争に伴い1938年2月に第十三航空隊へ配属されます
同航空隊の田中国義によると「あの頃はすごいパイロットがそろっていた。」
「この頃の古い人たちはそれぞれ操縦もうまく名人ぞろいだった」と回想しています
田中がすごいパイロットとして挙げていたのが…
岩本徹三、黒岩利雄、赤松貞明、武藤金義などでした

黒岩利雄は荒っぽい戦法から「悪童」と評されたエース
同じくエースの坂井三郎の著書では「訓練で黒岩に簡単に負かされたこと」を記しています
また対談において巧かった戦闘機搭乗員の筆頭に黒岩を挙げています
1944年8月26日、輸送任務でマレー半島沖を飛行中に行方不明となっています
赤松貞明は、後輩の結婚式に遅れて全裸で乱入し歌って踊るタイプのエース
これだけ聞くとただの変人のようですが、パイロットとしての腕は一流でした
大戦後半に敵機75機の大編隊に、わずか1機で突っ込み、その中の1機を確実に撃墜して包囲網を破り
無事飛行場に帰ってくるというぶっ飛んだことをしています
その一方でチームプレイを重視する優れた隊長でもありました

武藤金義は、日中戦争で中国側のエース楽以琴を撃墜した事もあるエースパイロット
大戦後半にはオレンジ塗装の局地戦闘機「紫電改」単機でアメリカ軍機に挑み
敵を集団から一機ずつ誘い出して撃墜する様から、空の宮本武蔵と呼ばれました
そんな化け物ぞろいの航空隊において、岩本の初陣となる南昌空襲に出撃
ソ連製のI-15 4機、I-16 1機撃墜という目覚しい戦果をあげました
1938年4月30日、他の航空隊と共同で九六式艦上戦闘機27機による漢口空襲を実行
この日中戦争において岩本は半年の間に日本軍最多数撃墜数14機を公認されています

1940年4月には整備中だった空母「龍驤」を使っての訓練に参加
訓練内容は離艦・着艦、夜間訓練、編隊空戦の連携
洋上航法、夜間航法、無線を使った母艦との通信連絡および電波航法による帰投などを行いました
三等航空兵として乗艦した前田勲によれば、龍驤は勤務状況が激しく厳しい艦であり
「赤鬼、青鬼でさえ龍驤と聞いただけで後ずさりする」と噂されていたという
1939年4月当時に龍驤の機関科に配属されていた上村嵐も
「猛烈な夜間の発着艦訓練により、毎月殉職者を出していた」と語っています
また、岩本が所属した第一航空艦隊は、日米開戦に実行する真珠湾攻撃のために極秘で準備されていました
そのため1941年10月4日、
岩本たち下級搭乗員は真珠湾攻撃について知らされないまま、九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合
そして連日に渡る激しい訓練が開始されます
岩本の回想録によると「太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく…」
「この時期の訓練で体得した技術を、洋上や夜間の操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた」
という描写が記述されています

そしてその真珠湾攻撃の際には空母「瑞鶴」戦闘機隊員でした
戦闘では艦隊の上空護衛任務に就き、岩本自身の戦果はありません
1942年5月の珊瑚海海戦では、瑞鶴の上空護衛として参加
岩本小隊3機は高度7500メートルで、30キロメートル先のアメリカ攻撃隊を発見
優位な高度からウォーレス・C・ショート大尉率いる17機を攻撃
アメリカ軍急降下爆撃機による攻撃を妨害しました
その際にショート大尉は「急降下前、急降下中、引き起こし後、いたるところで零戦の妨害にあった」と報告
この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、
上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中のF4Fワイルドキャット戦闘機隊を発見
これに対して攻撃を加え、岩本は1機を撃墜
この戦闘後岩本隊は、敵の攻撃を避けるためスコールへ退避していた激しくゆれる空母瑞鶴に着艦し、補給を行いました

その後、アメリカ軍による第二次攻撃への迎撃のため、他の小隊と共に発艦
岩本隊は高度6500メートルまで上昇したあと
空母レキシントンからのF4F戦闘機に護衛されたSBD爆撃機を捕捉
このうち岩本らは、空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった敵爆撃機に攻撃を加えます
岩本は追撃に熱中する列機に対し中止を命じ
後続するはずの敵雷撃機の攻撃を予想して、スコールの雨雲の上の指揮官機に集まるよう信号を送ります
その頃には瑞鶴がスコールに退避しており、無事を確認しましたが
空母「翔鶴」が敵爆撃で飛行機の発着が不能になったことに岩本は気がつきます
そして岩本の予想通り、雷撃機TBDデバステーターが出現したため、これを攻撃
デバステーターは魚雷を投下したものの、遠距離だったので瑞鶴、翔鶴の両空母に被害はありませんでした

「アメリカ軍の第二次攻撃隊は去った」と判断した岩本は瑞鶴に着艦
補給後、岩本は指揮官として7機を指揮し、再び上空に上ります
しばらくすると、アメリカ空母を攻撃した日本軍機が帰還しますが
岩本はその後も1時間ほど護衛についていました
結果として珊瑚海海戦での日本軍は、目的のポートモレスビー攻略を達成できず撤退
岩本らの部隊は1名の戦死もなく無傷でしたが
その他の攻撃隊では多くの搭乗員を失っていました
これに対し岩本は「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。」
「優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」
と心境を後につづっています

岩本さんの戦いはまだまだ続きますが、作者はココで力尽きました
反響があれば続きを作ろうと思っています

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SHA 2022年06月24日 17:00

「陸海軍全機特攻化」

1945年4月1日、日本軍で「陸海軍の全機特攻化」が決定。

同日、アメリカを含む連合国軍が沖縄本島に上陸を開始。

特別攻撃隊と迎え撃つアメリカ軍との間で激戦が繰り広げられる。

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SHA 2022年02月04日 07:24

【つらい】動画を作ると気分がへこむ【戦争】

悪い やっぱつれぇわ。

私は普段、歴史関係の動画を投稿しているのですが・・・

悪い やっぱ戦争ものはつれぇわ・・・


仕事や私生活で嫌な事があった状態で、悲惨な戦争とか事件のことを調べたりしていると、余計に落ち込んでしまう事が多いです。

また、コメントで私自身や、その他のものに対する暴言なども、やっぱつれぇわ・・・

例えば「B-29爆撃機」の様な動画を投稿すると、特定の国や人種などの暴言があって、嫌な思いをよくしています。

「B-29は日本を空襲した」という歴史があるので、どうしても怒りや憎しみがコメントに現れてしまうようです。

戦争モノあるある?

私の動画に限らず、その他の動画やネットニュース、SNSなどでも「戦争・歴史関連」の暴言を見てしまうと、やはり嫌な感じがします。

元々、デリケートなものを扱っているので、ある程度は仕方ないとは思うのですが・・・

私は歴史を調べるために、よくネットを利用しているので、そのような暴言をどうしても見てしまいます。


気分転換に別動画を…いや、でも…

別の動画を作れば済む話なのですが・・・

私のチャンネルで人気だったり、需要がありそうなのは、どうしても「戦争もの」になってしまいます。

ですので、「再生数・人気・需要」を優先すると、「戦争もの」を投稿せざる得ない状況になっています。


まあでも、自分優先で

でも辛いのは嫌なので、なるべく自分の作りたい動画を作ろうと思います。

また必要があれば、動画の内容によっては、以前と同じようにYoutubeのコメント欄も非表示にする予定です。


急に呪術廻戦の話をしても驚かないでね♥


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SHA 2020年11月20日 18:54

日本はB-29爆撃機にどうやって対抗したのか?

※これはYoutubeに投稿した動画を記事にしたものです。


今回は「日本軍はB-29爆撃機にどうやって対抗したのか?」を解説してみるぜ。
昔から名前だけは知っていたけど、詳しい事は分からなかったから…今回調べてみたぜ。
いつものように、歴史好きなド素人の解説だから、間違っている可能性があります。

「B-29 スーパーフォートレス」は、アメリカ軍の大型戦略爆撃機。
1942年9月、初飛行に成功。
B-29による日本本土への空襲が開始されるのは、1944年後半とされている。

「日本軍によるB-29迎撃」

「レーダーを使おう!」

日本軍のレーダー開発は、アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要参戦国と比較すると、大きく遅れていた。
それでも陸軍は「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功。
1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の海岸線や離島に設置され、早期警戒網を構築。
一方で日本海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は、前線のラバウルやウェーク島が優先される。
日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は、海軍基地や軍港周辺に限られた。
レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく…
隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置する、など無駄が多かった。
それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には…
関東、中京、阪神の太平洋側と九州は、全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。

しかし、日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や、護衛戦闘機の有無などまで探知することはできなかった。
また、「方向は大ざっぱにわかる」といった原始的なものであった。
そのため、レーダーを補うために、哨戒艇や目視監視哨戒といった「人の目」に頼るしかなかった。
しばしば、これら人の目による第一報が、レーダーよりも正確な情報となっていたという。

その他、探知だけではなく「火器管制レーダー」も配備を進めていた。
大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍の「GL Mk.IIレーダー」をコピーしたり…
ドイツから地上設置型の対空レーダーである「ウルツブルグレーダー」の技術供与を受けたりした。
ちなみにこの写真は、ドイツより日本に技術供与された「ウルツブルグレーダーのD型」。
このウルツブルグレーダーを元に、「タチ1号」などの電波標定機を開発し、本土防空戦に投入している。

B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲とサーチライトの照準を、射撃管制レーダーに頼るようになった。
各高射砲陣地には「タチ1号」などが設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになる。
6基から12基で1群を編成するサーチライト陣地にも、レーダー、または聴音機が設置される。
レーダーや聴音機に制御されたサーチライトがB-29を照射すると、その他のサーチライトも目標のB-29を照らすようになっていた。
ちなみに、今でている写真は、1942年のイギリス海外領「ジブラルタル」におけるサーチライト

一方のアメリカ軍は

一方のアメリカ軍は「日本軍の射撃管制レーダーが、イギリス製のものを元に開発していること」をつかむ。
これに対し、B-29に電波妨害装置「ジャミング装置」を装備した。
そしてB-29に搭乗し、ジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン(ワタリガラス)」と呼んだ。
ところが…東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると…
B-29は、多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となり、機体個別のジャミングでは対応できなくなる。
そこで、アメリカ軍はB-29数機を、電子戦を重視して設計・装備した「電子戦機(ECM機)」に改造。
この電子戦機に、専門的にジャミングを行わせることとした。

その電子戦機のB-29には、18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載された。
機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれた。
この「ヤマアラシ」は、1回の作戦ごとに10機以上が最初に目標に到着。
その後、ジャミング装置を操作する士官「レイヴン」の操作で、電波妨害を行う。
この電波妨害で、サーチライトや高射砲を撹乱、聴音機に対しては、エンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺くなど…
爆撃を援護し、最後まで目標に留まった。

「戦闘機で対抗」

1945年1月まで、日本軍戦闘機による「B-29への迎撃」は、執拗に行われたとされる。
特に二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」、そして「雷電」はB-29にとって危険な存在だった。
爆撃後…背後から襲いかかられ、一度に10数機が被撃墜・不時着することもしばしばあった。
B-29搭乗員に恐れられたのが、日本海軍のクラスター爆弾の一種「三号爆弾」。
B-29パイロットは、炸裂後の爆煙の形状から、白リン弾と誤認。
三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると、凄まじい効果があった…と回想している。
第三三二海軍航空隊に所属し、零戦52型でB-29を迎撃した「中島又雄」中尉によれば…
「三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいた」という。
また、撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を、集中して攻撃できる…という効果もあった。

しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は…
当初、高高度の精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に、とても苦労していた。
本土防空戦で主力機の1機となった「二式戦闘機・鍾馗」の場合も…
武装や防弾鋼板、燃料タンクの防弾ゴムなど、不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同じ水準の10,500mまでしか上昇できなかった。
また…一瞬のうちに接敵するため、照準が困難であり…
一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため、急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標になってしまう。
うまく離脱できても、高高度でのB-29と、鍾馗の速度差から再度の攻撃は難しかった。

B-29の来襲機数が増加する1945年3月以降は…
日本軍は、沖縄での航空作戦に戦力の過半数を投入していた。
これにより、本土防空戦への日本軍の戦闘機投入数は、B-29の増加数には見合わないものだった。
また、1945年4月以降に攻略した硫黄島から「P-51 マスタング戦闘機」が日本本土に向けて飛来すると…
本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになり、迎撃回数はさらに減少していった

「エース・パイロット」

対B-29の本土防空戦は、陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の「対B-29エース・パイロット」が誕生した。
特に九州において「二式複座戦闘機・屠龍」で戦った飛行第4戦隊と…
首都圏にて「三式戦闘機・飛燕」などで戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。
しかし、撃墜数の申告は、敵側の損害記録と突き合わせると…過大であることも多かった。

また、九州では、陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させている。
高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられ…
陸軍の「震天制空隊」など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せて、B-29の迎撃に投入された。

高射砲はいいぞぉ…

戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から、対B-29戦の主力は高射砲となる。
日本の高射砲戦力の主力を担っていた「八八式七糎野戦高射砲」などでは、射高不足であり、B-29をなかなか捉えることが出来なかった。
しかし…作戦変更により、B-29の爆撃高度が下がると、高射砲でも捉える事が出来て、B-29の損害は増大。
アメリカ軍の狙いは、爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと…
エンジン負荷軽減で、燃料を節約し多くの爆弾を積めること…
高高度よりも、爆撃が正確に命中すること…
高高度爆撃では、晴れた日を待つ必要があったが…爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できた。
そして、「高射機関砲が少ない日本では、爆撃高度を下げても損失率は上がらない」と見積もった。

その一方、首都防空担当の高射第1師団にいた「新井健之」大尉は…
「高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。」3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。
また、東京大空襲を指揮し、日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた「カーチス・ルメイ空軍大将」も…
高射砲に対してはかなり警戒していた


…っとまあ、日本軍とB-29の戦いについて、ざっと調べてみたが…
アメリカ軍の作戦変更で、B-29の爆撃高度が下がったこともあって、それなりに対抗できていたが…
ドイツに比べると防空システムは弱い…っていう印象だったな


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SHA 2018年08月01日 07:10

「零戦1機」で75機の敵に突っ込む・・・?

赤松貞明(あかまつ さだあき)

1910年7月30日 - 1980年2月22日

「松ちゃん」のあだ名をもつ海軍のパイロット。

赤松さんはお酒が好きで、豪快な性格で有名だよ。

よく外出しては、酔って暴れて上司が引き取りに行った。

他にも、後輩の結婚式会場に全裸で乱入したかと思えば、そのまま歌って踊る!

すると、若い後輩教員たちも歌いだす!

結果、親族の皆さんに怒られるのでした!


1 チームプレイの大切さ

1937年12月――

赤松さんは、日中戦争中の上海で編成された「第十三航空隊」に配属される。

徐々に撃墜数を伸ばしたが、優勢な敵機群に1対1の単機空戦で挑んでしまう。

その結果、自分の指揮官が撃墜されてしまう。

これ以来、赤松さんは「編隊空戦の訓練の必要性」を痛感した。

部下に対しても「米軍機への深追いを強く戒め、
強がって敵編隊の先頭にかかることなく、端の弱い奴から叩いていく」
ように強調していたよ。


・カナダ「なるほど…苦い失敗を経てチームプレイの大切さを学んだわけだね。」

・日本「…っと思うじゃん?」


2 75対1

1945年5月29日。

横浜市が「B-29爆撃機」の 500機編隊による大空襲をうけた。

同じ日、横浜市街上空に「P-51ムスタング戦闘機」75機の大編隊がやって来た。

その75機に…赤松さんはなんと「零戦1機」で空戦を挑んだ。

そして彼は1機を確実に撃墜して包囲網を破り、無事飛行場に帰還ッッ。


・カナダ「チームプレイはどうした!?」

・日本「これが赤松さんのチームプレイです!」

・イギリス「さすがに正面から突っ込んだわけじゃないだろ?上から奇襲みたいな感じで…」

・日本「そうですね…詳細は分かりませんが…恐らく、奇襲的な感じだと思います。」


撃墜数は本人の自伝では「350機ほど」と語っているが、
実際には「単独で27機」だとされている。

戦後は、海軍時代の友人と金を出し合って購入した小型機に乗って飛び、
漁業組合の仕事などをしていた。


・アメリカ「皆は敵機の大編隊に挑むときは、ちゃんとチームで挑もうね☆」


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