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SHA

SHA 2020年11月20日 18:54

日本はB-29爆撃機にどうやって対抗したのか?

※これはYoutubeに投稿した動画を記事にしたものです。


今回は「日本軍はB-29爆撃機にどうやって対抗したのか?」を解説してみるぜ。
昔から名前だけは知っていたけど、詳しい事は分からなかったから…今回調べてみたぜ。
いつものように、歴史好きなド素人の解説だから、間違っている可能性があります。

「B-29 スーパーフォートレス」は、アメリカ軍の大型戦略爆撃機。
1942年9月、初飛行に成功。
B-29による日本本土への空襲が開始されるのは、1944年後半とされている。

「日本軍によるB-29迎撃」

「レーダーを使おう!」

日本軍のレーダー開発は、アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要参戦国と比較すると、大きく遅れていた。
それでも陸軍は「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功。
1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の海岸線や離島に設置され、早期警戒網を構築。
一方で日本海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は、前線のラバウルやウェーク島が優先される。
日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は、海軍基地や軍港周辺に限られた。
レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく…
隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置する、など無駄が多かった。
それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には…
関東、中京、阪神の太平洋側と九州は、全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。

しかし、日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や、護衛戦闘機の有無などまで探知することはできなかった。
また、「方向は大ざっぱにわかる」といった原始的なものであった。
そのため、レーダーを補うために、哨戒艇や目視監視哨戒といった「人の目」に頼るしかなかった。
しばしば、これら人の目による第一報が、レーダーよりも正確な情報となっていたという。

その他、探知だけではなく「火器管制レーダー」も配備を進めていた。
大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍の「GL Mk.IIレーダー」をコピーしたり…
ドイツから地上設置型の対空レーダーである「ウルツブルグレーダー」の技術供与を受けたりした。
ちなみにこの写真は、ドイツより日本に技術供与された「ウルツブルグレーダーのD型」。
このウルツブルグレーダーを元に、「タチ1号」などの電波標定機を開発し、本土防空戦に投入している。

B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲とサーチライトの照準を、射撃管制レーダーに頼るようになった。
各高射砲陣地には「タチ1号」などが設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになる。
6基から12基で1群を編成するサーチライト陣地にも、レーダー、または聴音機が設置される。
レーダーや聴音機に制御されたサーチライトがB-29を照射すると、その他のサーチライトも目標のB-29を照らすようになっていた。
ちなみに、今でている写真は、1942年のイギリス海外領「ジブラルタル」におけるサーチライト

一方のアメリカ軍は

一方のアメリカ軍は「日本軍の射撃管制レーダーが、イギリス製のものを元に開発していること」をつかむ。
これに対し、B-29に電波妨害装置「ジャミング装置」を装備した。
そしてB-29に搭乗し、ジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン(ワタリガラス)」と呼んだ。
ところが…東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると…
B-29は、多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となり、機体個別のジャミングでは対応できなくなる。
そこで、アメリカ軍はB-29数機を、電子戦を重視して設計・装備した「電子戦機(ECM機)」に改造。
この電子戦機に、専門的にジャミングを行わせることとした。

その電子戦機のB-29には、18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載された。
機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれた。
この「ヤマアラシ」は、1回の作戦ごとに10機以上が最初に目標に到着。
その後、ジャミング装置を操作する士官「レイヴン」の操作で、電波妨害を行う。
この電波妨害で、サーチライトや高射砲を撹乱、聴音機に対しては、エンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺くなど…
爆撃を援護し、最後まで目標に留まった。

「戦闘機で対抗」

1945年1月まで、日本軍戦闘機による「B-29への迎撃」は、執拗に行われたとされる。
特に二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」、そして「雷電」はB-29にとって危険な存在だった。
爆撃後…背後から襲いかかられ、一度に10数機が被撃墜・不時着することもしばしばあった。
B-29搭乗員に恐れられたのが、日本海軍のクラスター爆弾の一種「三号爆弾」。
B-29パイロットは、炸裂後の爆煙の形状から、白リン弾と誤認。
三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると、凄まじい効果があった…と回想している。
第三三二海軍航空隊に所属し、零戦52型でB-29を迎撃した「中島又雄」中尉によれば…
「三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいた」という。
また、撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を、集中して攻撃できる…という効果もあった。

しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は…
当初、高高度の精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に、とても苦労していた。
本土防空戦で主力機の1機となった「二式戦闘機・鍾馗」の場合も…
武装や防弾鋼板、燃料タンクの防弾ゴムなど、不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同じ水準の10,500mまでしか上昇できなかった。
また…一瞬のうちに接敵するため、照準が困難であり…
一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため、急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標になってしまう。
うまく離脱できても、高高度でのB-29と、鍾馗の速度差から再度の攻撃は難しかった。

B-29の来襲機数が増加する1945年3月以降は…
日本軍は、沖縄での航空作戦に戦力の過半数を投入していた。
これにより、本土防空戦への日本軍の戦闘機投入数は、B-29の増加数には見合わないものだった。
また、1945年4月以降に攻略した硫黄島から「P-51 マスタング戦闘機」が日本本土に向けて飛来すると…
本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになり、迎撃回数はさらに減少していった

「エース・パイロット」

対B-29の本土防空戦は、陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の「対B-29エース・パイロット」が誕生した。
特に九州において「二式複座戦闘機・屠龍」で戦った飛行第4戦隊と…
首都圏にて「三式戦闘機・飛燕」などで戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。
しかし、撃墜数の申告は、敵側の損害記録と突き合わせると…過大であることも多かった。

また、九州では、陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させている。
高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられ…
陸軍の「震天制空隊」など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せて、B-29の迎撃に投入された。

高射砲はいいぞぉ…

戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から、対B-29戦の主力は高射砲となる。
日本の高射砲戦力の主力を担っていた「八八式七糎野戦高射砲」などでは、射高不足であり、B-29をなかなか捉えることが出来なかった。
しかし…作戦変更により、B-29の爆撃高度が下がると、高射砲でも捉える事が出来て、B-29の損害は増大。
アメリカ軍の狙いは、爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと…
エンジン負荷軽減で、燃料を節約し多くの爆弾を積めること…
高高度よりも、爆撃が正確に命中すること…
高高度爆撃では、晴れた日を待つ必要があったが…爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できた。
そして、「高射機関砲が少ない日本では、爆撃高度を下げても損失率は上がらない」と見積もった。

その一方、首都防空担当の高射第1師団にいた「新井健之」大尉は…
「高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。」3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。
また、東京大空襲を指揮し、日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた「カーチス・ルメイ空軍大将」も…
高射砲に対してはかなり警戒していた


…っとまあ、日本軍とB-29の戦いについて、ざっと調べてみたが…
アメリカ軍の作戦変更で、B-29の爆撃高度が下がったこともあって、それなりに対抗できていたが…
ドイツに比べると防空システムは弱い…っていう印象だったな


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SHA

SHA 2020年04月14日 20:01

日本が母港の米空母ロナルド・レーガン

レーガン大統領

「ロナルド・レーガン」は、ニミッツ級航空母艦の9番艦で、2003年7月12日に就役。
レーガン元米大統領の妻であるナンシー・レーガンによって命名された。
ニミッツ級に命名された他の人物と違って、レーガン元大統領は、その任期中に最高司令官であった以外に、海軍との関係はなかった。
けど、レーガン政権下では…ソ連に対抗して「軍艦いっぱい作ろうぜ計画・600隻艦隊構想」もやっているから…完全に海軍と無関係ってわけじゃないと思うよ…
ちなみに…この計画によって、1987年には594隻もの軍艦を保有していた。

日本が母港

このレーガンの母港は、神奈川県の「横須賀海軍施設」であり、アメリカ国外では、唯一空母の母港として機能している。
これまでに横須賀を「事実上の母港」としてきた空母は、全部で5隻存在する。
「ミッドウェイ(1973年 - 1991年)」、「インディペンデンス(1991年 - 1998年)」、「キティホーク(1998年 - 2008年)」、「ジョージ・ワシントン(2008年 - 2015年)」、そして、ロナルド・レーガン。
横須賀に配備する空母に関しては…対日感情に配慮し、「第二次世界大戦で活躍したアメリカ海軍将校の名前は避けるなど」の措置が取られている。

横須賀って何だよ

横須賀は1903年以降、大日本帝国海軍により「横須賀海軍工廠」として利用され…海軍軍法会議所や横須賀鎮守府などの施設が置かれた。
日本の敗戦後の1945年9月2日…日本を占領下に置いた連合国軍の1国であるアメリカ海軍に接収され、これらの施設はアメリカ海軍が使用した。
連合国軍による占領終了後…
1952年4月28日に発効した「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧安保条約)」の批准を受けて、アメリカ海軍がそのまま利用。
生活・娯楽施設などを拡充させ、現在に至っているよ。
2019年12月18日 横須賀・アメリカ海軍「第7艦隊」の管理内

ミサイル付き

レーガンはニミッツ級として初めて、近接防御システムに、「CIWSファランクス(後に装備)」に代わって、「RAM(RIM-116)」を2基装備している。
「RAM」とは、アメリカとドイツが共同開発した近接防空ミサイル。
技術や基本設計は、既存のミサイルから流用されている部分が多いため、1978年にさっそく最初の試射が行われた。
レーガンのような空母以外にも、駆逐艦や揚陸艦などに装備されている。

台風や地震

2008年6月にフィリピンに上陸した「平成20年台風第6号・フンシェン」。
レーガンは、この台風の被害に遭った地域へ、救援活動を行った。
「ヘリコプターSH-60 シーホーク」や「輸送機C-2 グレイハウンド」を使って、米・真水などの物資を災害地域に届けた。

2011年3月11日の東日本大震災後…他7隻の艦船と共に、支援活動「トモダチ作戦」開始…関東〜東北沖に出動。
米韓合同演習のために西太平洋を航行中であったロナルド・レーガン空母打撃群は、震災2日後の3月13日には、海上自衛隊との震災対応に関する作戦会議を実施。
レーガン空母打撃群は、自軍の艦載ヘリコプターと、自衛隊のヘリコプターのための洋上給油拠点として運用された。
さらに、レーガンの将兵からは、毛布やセーターなど1,000着以上の寄付が行われている。

感染者

2020年3月…横須賀海軍施設に、停泊中のロナルド・レーガンにおいて…乗組員2人が、新型コロナウィルスに感染している事が判明した。
横須賀市の公式ホームページによると、「日本に勤務する初の米軍関係者のコロナウィルス感染者」と、書かれている。
また、その感染者は3月26日現在、基地内で隔離中であり…患者の症状から、アメリカ国内で感染したもの、と見られている。
その他…「空母ニミッツ、セアドア・ルーズベルト、カール・ヴィンソン」、「強襲揚陸艦ボクサー、エセックス」などでも感染が確認された。

アメリカ以外では、フランス海軍の「空母シャルル・ド・ゴール」でも、感染が判明。
2020年4月、大西洋上で行動中…1760人のスタッフのうち、50人の陽性患者が存在することが分かった。
その中の3人が、フランス南東部「トゥーロン」の病院まで空輸された。
4月12日には、シャルル・ド・ゴールがトゥーロンに停泊…14日間の検疫を行う予定となっている。

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世界大戦はヤバい人がいっぱいだった。https://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ150529.html



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SHA

SHA 2020年04月10日 23:02

戦艦大和・最後の艦長「有賀幸作」

有賀幸作

「有賀幸作(あるが こうさく)」は、「戦艦大和」最後の艦長として有名。
彼は長野県の朝日村、今の辰野町に金物商・村長「有賀作太郎」の長男として生まれた。
父の作太郎は、日露戦争の旅順攻囲戦に参加しており、二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かっていた。
そんな父だが、息子の軍人志願には反対だった。
しかし…父の思いとは裏腹に、有賀幸作は海軍兵学校に入り、1917年11月24日に卒業。
同期には、大和の艦長を務めた後に第2艦隊参謀長となる「森下信衛」、「大和」最後の戦いとなる「坊の岬沖海戦」で、第二水雷戦隊司令官を務めた「古村啓蔵」などがいる。

実家の平野屋金物店は、有賀の相続放棄後、弟の次郎が継ぐはずであったが…父、弟の次郎、三男の正次、妹のふさへが相次いで病死。
そのため、名義上は有賀が家督を継ぎ、金物店店主となっていたが、実際は母親が一人で切り盛りしており、大和沈没時期には閉店していた。

そんな有賀は「初代神風型駆逐艦・水無月」から経歴をスタートさせ、水雷戦隊の指揮官として経験を重ねる。
1922年には、「戦艦・長門」の四番砲台長に任命されたが、規則のうるさい戦艦勤務に戸惑うこともあったそうな…

軍人としての覚悟

1924年1月27日…宮坂好子と結婚、10月に長男の正幸が誕生。
有賀は家族思いの人物であり、帰宅すると女中にまで土産を配った。
さらに、有名料理店や遊園地、観光地を巡るなど、家族団欒につとめていた。
一方で、潜水艦事故で沈んだ第六潜水艇と「艇長の佐久間勉」の遺書を見学した時には、息子に軍人としての覚悟を語った…という。

完全に余談になっちゃうが…「佐久間勉」は海軍軍人で、第六潜水艇隊の艇長だった。
1910年4月15日、第六潜水艇が訓練中に事故が発生…乗組員14名全員が殉職。
殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も、潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。
佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中…遺書を書いた。
内容は、明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死の謝罪、事故が潜水艇発展の妨げにならないことの願い、事故原因の分析を記した。

この、佐久間が記した遺書は、39ページにも及ぶ長いものだった。
沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された佐久間の遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。
その佐久間が亡くなった「第六潜水艇」を有賀が見学し…その時に感じた軍人としての覚悟を、息子に語った。
そして…後に有賀も、佐久間とは少し違うが…艦長として大和と運命を共にすることになる。

水虫

1938年12月、有賀は掃海艇6隻からなる第一掃海隊司令に任命され、日中戦争に加わった。
掃海任務だけでなく、上陸支援や中国軍掃討任務もこなしたため、中国側から懸賞金をかけられ、その値段が徐々に上がっていったという一幕もある。
1941年6月18日には、第四駆逐隊司令に任ぜられ、最新の「陽炎型駆逐艦4隻(嵐、萩風、野分、舞風)」を指揮下においた。
その後…有賀は遺書を書いた…この遺書を、妻の好子が読むのは、1945年9月20日に、有賀の戦死内報が届いた時とされる。

太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として「近藤信竹」海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し、「マレー作戦」を支援。
マレー作戦とは、日本軍が実施した、南方作戦内のイギリス領マレー方面の作戦。
1941年12月8日朝、「駆逐艦・野分」に命じてノルウェー船を拿捕。
日本軍のシンガポール占領の後、ジャワ海に進出。
3月1日、有賀指揮下の「駆逐艦・嵐と野分」は、商船3隻(4000t、3000t、3000t)、油槽船2隻(1500t)を撃沈し、商船ビントエーハン号(1000t)を拿捕。

さらにイギリスの「駆逐艦ストロングホールド」、アメリカの「砲艦アッシュビル」を沈めた。
インドネシアのジャワ攻略戦の際、「駆逐艦・嵐」が、逃走する駆逐艦ストロングホールドを追撃。
距離10kmで、嵐の砲術長と水雷長が「撃たせてくれ」と懇願。
しかし…有賀は指揮所で「足が痒くてかなわん。薬を塗ってくれ」と衛生兵に水虫の治療をさせ、発砲を許さなかった。
距離6000mになってから、大声で射撃を命じ、駆逐艦ストロングホールドを撃沈した。

有賀は極度の水虫にかかっており、艦内でも草履を履いていた。
見事なハゲ頭の上に、ヘビースモーカーだったため、部下から「エントツ男」というあだ名もつけられていた。

戦上手

3月4日には、「重巡洋艦・愛宕」と共同で「オーストラリア護衛艦ヤーライ」と、油槽船1隻を撃沈し、「オランダ商船チャーシローア」を拿捕。
有賀は、机上の理論より、実戦での経験を大切にする…当時としては数少ない軍人の1人であった。
さらに…第四駆逐隊で有賀の部下だった者は、戦後の戦友会で「戦があれほど上手い人はいなかった」「困った顔を見たことがない。安心できた」「部下を可愛がり、怒ったことはなかった」など、戦争が終わってからも高く評価されている。

元「重巡洋艦・鳥海」高射長は、忍耐力と決断力がある点で、キスカ島撤退作戦で有名な「木村昌福少将」と似ていると評した。
また、有賀があまりにも前線に出るため、心配した連合艦隊司令長官「山本五十六」が「有賀を殺すな」と言ったという。

教頭は嫌だ

そんな戦上手と言われる有賀は、ミッドウェー海戦に参加。
ミッドウェー海戦では、大破炎上した「空母・赤城」を指揮下の「駆逐艦・野分、嵐」の魚雷によって、沈没処分するという悲劇を味わった。
有賀は「初めて撃った魚雷が赤城に対するものだった」ことを嘆き続けたという。

1943年3月1日、「重巡洋艦・鳥海」の艦長となり、南方に進出。
アメリカ軍機から10回近く襲撃されたが、高射砲長との息のあった連携で鳥海は被弾しなかった。
1944年4月21日、デング熱にかかり、日本へ帰還。
帰国後は、横須賀の水雷学校で教頭をしていた。
しかし、実戦畑を歩いてきた有賀にとっては…机上の学問を教える教頭の職は、本意ではなかったとされる。

「大和」艦長

1944年11月6日、遂に…戦艦「大和」の第5代の艦長を命じられた。
これは有賀にとって、久しぶりの海上勤務である上に、帝国海軍の象徴とも言える「大和の艦長」になったことは、非常に嬉しい事だった。
この事を、彼は長男の正幸宛に手紙で送った。
戦艦大和は、秘匿艦であり…本来ならば「ウ五五六」と暗号で記述するべきだったにも関わらず、手紙で「大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を書いていた。
さらに、手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書いてあり、これを読んだ息子・正幸は、有賀が死を覚悟したことを悟ったという。

その戦艦大和において、有賀の豪放磊落な性格は、大和乗組員に好意を持って受け入れられたという。
連日の訓練で常に先頭に立ち、防寒コートも手袋着用せずに艦橋に立つ有賀の姿は、畏敬の念で見られた。
一方で、海軍兵学校同期生の古村啓蔵は、有賀が「燃料不足で主砲の訓練さえできない」と弱音を吐くのを見て驚いたという。

最期の戦いへ

1945年…戦艦大和の海上特攻を含む「天号作戦」が開始される。
その際…大和やその他の艦に乗艦していた傷病者と古参兵、兵学校卒業直後の少尉候補生計53名が、第二艦隊司令長官「伊藤整一」中将の命令により、退艦命令が出される。
しかし『戦艦大和の主』を自称していた第二主砲砲塔長・奥田少佐は、これを激しく拒否。
奥田少佐は「大和が死にに行くのなら、ワシが付いて行って最後を見てやらねばならぬ」と激怒し、艦橋に居た有賀の所に怒鳴り込んで行った。

有賀は、怒り狂う奥田少佐に対し…明治天皇の陸海軍への言葉・詔勅「軍人勅諭」を例に出しながら説得。
有賀の説得に、奥田少佐も折れ…退艦命令を受け入れる。
この時…有賀・奥田両名は涙を流し、その姿に艦橋に居た将校・兵士も思わずもらい泣きをしたという。

4月7日…沖縄へ海上特攻隊として向かった大和の部隊と、アメリカ空母艦載機部隊の間で「坊ノ岬沖海戦」が発生。
300機以上の艦載機の攻撃を受け、大和は撃沈。
艦長の有賀も、沈没した大和と運命を共にした。
彼の最期は、諸説あるが…「大和の対空指揮所にあった羅針儀にしがみ付き、そのまま沈んだ」…とする説が有力になっている。
墓所は、有賀の故郷である長野県辰野町見宗寺。
近くの法性神社には、「戦う大和と有賀艦長の肖像レリーフ」で飾られた自然石の記念碑が建立されている。




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