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色々がんばります。よろしくお願いします。の記事 (196)

SHA 2018/05/03 01:26

【電子レンジと似たような原理で…】怪力線(怪力光線)

●怪力線(怪力光線)

珍兵器と言えば!
大日本帝国陸軍の研究所である登戸研究所だ!
この研究所は、中国向けに45億円もの偽札を作ったり、缶詰爆弾や風船爆弾、レールガンもとぎ、を作ったりしているトンデモビックリ研究所!
敗戦後は陸軍省の命令により…登戸研究所の資料は、そのほとんどが処分された。
…こんな感じで「実態が不明・SFな兵器を構想している」こともあり、どこまでホントか分からない兵器や逸話があるのだ!

そんな登戸研究所が作ったのが怪力線!
これは!まさかのマイクロ波兵器!
研究所では「紫外線を上空に照射して空気を電離させ、雷を誘導する」という実験を行っていた。
しかし、戦場における「電力源不足・携帯性なし」などの理由で計画が中止された。

それでも研究を続けて、考案されたのがマイクロ波兵器!
数メートルの距離から小動物を殺傷する実験には成功したけど、未完成に終わった…。
ちなみに実験の標的はウサギや芋で、サンプルは後で開発者がおいしくいただきました(実話らしい)。

この怪力線は、後に「電子レンジの開発に役立った」とか「日本の電子レンジの元になった」とか…ウソかホントか分からない話がある。
ちなみに、電子レンジ自体は1945年にアメリカのパーシー・スペンサーが開発・発明したよ。

マイクロ波を放出して敵にダメージを与える…中々イメージが出来ないと思うけど…現在でもこのような「指向性エネルギー兵器」は開発・研究がなされている。
マイクロ波、電波、レーザー、音響などを使って敵にダメージを与えたり、対象物を破壊したりするのだ。
まあ、電子レンジのマイクロ波で食品を温められるのなら…敵も熱くしちゃうことが出来るはずだよね。



・イラク「日本さん、その怪力線の資料を見せてくれません?」
・イスラエル「私にも見せろ。」
・インド「私も!」
・日本「………平和利用ですよね?」
・イラク&イスラエル&インド「・・・・・・・・・。」


・日本「これで↓我慢して♥」
『リアルチート野郎(日本2)』
http://stylish1history.b.dlsite.net/archives/30311403.html

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SHA 2018/05/03 01:10

【電子レンジと似たような原理で…】怪力線(怪力光線)


怪力線(怪力光線)






珍兵器と言えば!
大日本帝国陸軍の研究所である登戸研究所だ!



この研究所は、中国向けに45億円もの偽札を作ったり、缶詰爆弾や風船爆弾、レールガンもとぎ、を作ったりしているトンデモビックリ研究所!



敗戦後は陸軍省の命令により…登戸研究所の資料は、そのほとんどが処分された。



…こんな感じで「実態が不明・SFな兵器を構想している」こともあり、どこまでホントか分からない兵器や逸話があるのだ!






そんな登戸研究所が作ったのが怪力線!



これは!まさかのマイクロ波兵器!



研究所では「紫外線を上空に照射して空気を電離させ、雷を誘導する」という実験を行っていた。



しかし、戦場における「電力源不足・携帯性なし」などの理由で計画が中止された。






それでも研究を続けて、考案されたのがマイクロ波兵器!



数メートルの距離から小動物を殺傷する実験には成功したけど、未完成に終わった…。



ちなみに実験の標的はウサギや芋で、サンプルは後で開発者がおいしくいただきました(実話らしい)。






この怪力線は、後に「電子レンジの開発に役立った」とか「日本の電子レンジの元になった」とか…ウソかホントか分からない話がある。



ちなみに、電子レンジ自体は1945年にアメリカのパーシー・スペンサーが開発・発明したよ。

マイクロ波を放出して敵にダメージを与える…中々イメージが出来ないと思うけど…現在でもこのような「指向性エネルギー兵器」は開発・研究がなされている。
マイクロ波、電波、レーザー、音響などを使って敵にダメージを与えたり、対象物を破壊したりするのだ。
まあ、電子レンジのマイクロ波で食品を温められるのなら…敵も熱くしちゃうことが出来るはずだよね。



・イラク「日本さん、その怪力線の資料を見せてくれません?」
・イスラエル「私にも見せろ。」
・インド「私も!」
・日本「………平和利用ですよね?」
・イラク&イスラエル&インド「・・・・・・・・・。」



・日本「これで↓我慢して♥」


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SHA 2018/04/24 00:10

イタリア「地雷と火炎瓶しかねぇww」




イタリア軍列伝…補給拠点から数100キロ離れた砂漠で水を大量に使ってパスタを茹でた結果⇒水が無くなって降伏。






・イギリス「ドイツのお荷物、パスタ野郎、糞雑魚ナメクジ軍隊、それがイタリア軍。」



・イタリア「↑あやまれぇい!」






ネット上でも「イタリア軍=弱い、ヘタレ、パスタ野郎」で有名。



しかし!
今回は「イタリア軍のくせに強いやんけ!」な人たちを紹介します。


1 フォルゴーレ空挺旅団




フォルゴーレ空挺旅団はイタリア陸軍が編成する空挺作戦を主目的とした旅団。



簡単に言うと空からピューッと行くイタリアの部隊だよ。



フォルゴーレとはイタリア語で稲妻、雷鳴を意味する。



1941年9月1日、第二次世界大戦の最中に編成されるよ。




そして!
彼らの真価は北アフリカの砂漠戦、エル・アラメインの戦いで発揮される!







あのドイツの名将で有名なエルヴィン・ロンメルが連合国に圧されていた・・・。
しかし、今までドイツ軍にお荷物扱いされてきたヘタリア軍の恐ろしさを奴らは味わうのだった!





・ロンメル「あれ?このイタリア軍強い?」









兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶と地雷だけという絶望的な状況にもかかわらず、大胆な肉薄攻撃によって連合軍の戦車部隊に損害をあたえる!

・連合軍「敵は少数だぁw突っ込めェww」

・フォルゴーレ空挺旅団「クソ!戦車はどうした!」
・イタリア兵A「ないです。」
・フォルゴーレ「ロケットランチャーは!?」
・イタリア兵A「地雷と火炎瓶しかねぇww」
・フォルゴーレ「じゃもう、それで。」

・フォルゴーレ「死ねー!」
・連合軍「ぎゃあああww」





そんなこんなで連合軍の本格的な攻勢を2度に渡って退けているよ。



イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる損害を知ったチャーチルは「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛したそうな。



アメリカのタイム紙も「彼らは良い意味で同盟国の予想を裏切る戦いを見せた…特に南部戦域では「フォルゴーレ師団の兵士が爆薬を抱いて英軍の戦車に肉薄した」と称賛しているよ。








2サヴォイア騎兵連隊(第3竜騎兵連隊「サヴォイア」)



東部戦線に派遣されたイタリア陸軍部隊「イタリア・ロシア戦域軍」で活躍した騎兵連隊。



サーベル突撃によって、サブマシンガンやライフルで武装したソ連の歩兵を蹴散らしたこともある。



欧州戦線で最後の騎兵突撃を成功させたとも言われている。













3山岳スキー大隊『モンテ・チェルビーノ』



雪中迷彩を身にまとった彼らは、モンテ・チェルビーノ!



雪中迷彩はフィンランド軍も有名だけど、イタリアも強いよ。



スキーで山岳を縦横無尽に駆け巡り、ソ連軍から「白い悪魔」呼ばれた。







君もパスタ…もといイタリア軍に入らないか!?












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SHA 2018/04/17 04:00

【「神の子殺し」の濡れ衣 】アントニオ・サリエリ


アントニオ・サリエリ





1750年8月18日 - 1825年5月7日








アントニオ・サリエリは18、19世紀のイタリアの作曲家。



18世紀の後半から末にかけて、アメリカ独立革命・フランス革命といったドンパチ賑やかなイベントが起きている時代で活躍。



日本では、田沼意次が老中になったりしている時代ですね。



サリエリは幼少のころからチェンバロ、声楽、ヴァイオリンといった音楽教育を受けて育つ。



だが、両親を早い内に亡くし、他の子供達と共に惨めな境遇に陥る。



その後…彼はヴェネツィアに住み、1766年に宮廷音楽家フローリアン・レオポルト・ガスマンとともにウィーンの宮廷へと招かれた。

サリエリの肖像画














宮廷楽長






そこでサリエリは音楽家としての才能を存分に発揮する。





1788年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世より「宮廷楽長」に任命され、亡くなる直前の1824年までその地位にあった。




この宮廷楽長は音楽家として最高の地位・名誉であったが、クソ忙しい役職でもあった…



1 諸侯たちの娯楽・宴席のための作曲・指揮



2 宮廷楽団の運営



3 楽団員の生活の管理



4 諸侯の子女の音楽教師



などなど…色んな仕事があったのである。




1817年、サリエリは「ウィーン楽友協会音楽院」の指導者に就任。



この音楽院は後に「ウィーン国立音楽大学」と改称され、現在でも多数の世界的指揮者を輩出している。




また、「ニューイヤーコンサート」で有名なウィーン楽友協会の黄金ホールの設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わる。




さらに、あのベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。



弟子からは一切謝礼を取らず、才能ある・生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。




またまた、職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。




この音楽に関する多才さこそ、サリエリの素晴らしさであろう。




だが、後世において彼の偉業は「神の子・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」の影に隠れることになる。





神の子とサリエリ

サリエリが使えていた皇帝ヨーゼフ2世は文化発展にも気を配り、多くのイタリア人が占めていた音楽の分野にドイツ音楽を意識してモーツァルトを宮廷音楽家として雇っていた。



サリエリとモーツァルトが具体的にいつ、どのように出会ったかは不明だが…



これでまでのイメージでは、この偉大な2人の作曲家は不仲で有名であった。






確かにモーツァルト自身も…



・モーツァルト「ウィーンで僕が高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をしてるからだ!」







と語っていた(らしい)。




他にもモーツァルトの天才に怖れをなしたサリエリらのイタリア音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減した…という噂もある。



そして、戯曲『アマデウス』(1979年)とその映画版(1984年)では、サリエリが「天才へ嫉妬した凡庸な作曲家」という風に描かれ、彼が「モーツァルトを毒殺した」ということになっている。





だが、これらの話も最近では「証拠がない・憶測である」という可能性がかなり強い。

モーツァルトの肖像画












「2人は不仲じゃねーよ」とする根拠




1 プラハの聖ヴィートゥス大聖堂の重要な祝賀行事の数々で、サリエリは自分の作品を一切使わず、中にはモーツァルトの作品を多数使用している。




2 サリエリはヴィーン劇場にモーツァルトを招待しており…



モーツァルトは、その時の模様を妻コンスタンツェへの手紙で伝えていた。



その手紙には「敵対心や憎悪でなく、ただ自分の作品を感嘆の言葉で祝福してくれたサリエリへの賛辞と感謝と親愛の心」がこもっていた。





3 モーツァルト、サリエリ、コルネッティの3人で共作もしている。



それは『オフィーリアの健康回復に寄せて』という曲で、「短期間声を失っていた女性歌手ナンシー・ストレースが舞台へ戻ってきたことを歓迎するため」に作られたものである。



この曲は、映画『アマデウス』のような「モーツァルトとサリエリが不仲だったという風説を否定するもの」として注目されている。



「本当に不仲なら一緒に歓迎の曲なんか作らんやろ!」という理屈ですね。



ちなみに「コルネッティ」は学者の間でも「誰だコイツ」状態な無名の作曲家。










「至高の神よ、サリエリを憐れみたまえ」

モーツァルト死後…



ウィーンの新聞は「彼は毒殺されたのではないか」と報じた。



1820年ごろになると、ウィーンでは、「“イタリアの作曲家ロッシーニを担ぐイタリア派”と“ドイツ民族のドイツ音楽を宣言するドイツ派”の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行。



サリエリはロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた。



また、弟子のモシェレスに自らの無実を訴えたが…かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果に。



これらの噂・誹謗中傷により、サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうともした。




その後…1825年5月7日、74歳で死去…亡くなるまで噂に苦しんだという




時が経ち、当時の「サリエリがモーツァルトを毒殺した」などの噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られた。



これらの作品によって、モーツァルトの影に隠れたサリエリの知名度は上昇した…だが、「サリエリがモーツァルトを…アマデウスを毒殺した」というイメージも広がってしまう。




そして2018年…Fate/GOにおいて「復讐者」として、再び名が知れ渡る事になる。

アントニオ・サリエリの「レクイエム」
https://www.youtube.com/embed/AO7xz7qTrlI







アントニオ・サリエリの故郷は・・・
パスタ大好きイタリア!










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SHA 2018/04/13 00:36

モーツァルト「あーしんど…でも曲作らなきゃ…。」

・モーツァルト「あーしんど…でも曲作らなきゃ…。」

あのモーツァルトが体調を崩しながら作った曲…それが『レクイエム ニ短調
K.626』。



特に“怒りの日”と呼ばれる部分が有名。



CMや映画、ゲームなどでも使用される。
https://www.youtube.com/embed/Opwq0C0hjOg
モーツァルト《レクイエム》「怒りの日」カラヤン指揮/ベルリンフィル
(OperaTaiyaku オペラ対訳プロジェクト)





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●謎の依頼主

オペラ「魔笛」の完成も近づいた1791年7月…見知らぬ男がモーツァルトを訪ねた。



その男は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていった。



『魔笛』の初演後、レクイエムの作曲に取りかかるが、モーツァルトは体調を崩しがちに…





そして彼は台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテに「僕は自分のレクイエムを書いているんだ…」というような手紙を送る。



そんな手紙を書いたりしてるせいで、「モーツァルトは灰色の服を着た使者に催促され、自身のレクイエムを作曲しているのだ!」という伝説が当時から現在まで広まることになる。



だが、最近の研究で「匿名の依頼者」がフランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵という田舎の領主であること、使者が伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープという人物であることが明らかになった。





ヴァルゼック伯爵が1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトにレクイエムを作曲させたというのが真相だった。



●著作権的にはグレー

モーツァルト死後、貧乏のまま残された妻コンスタンツェは収入を得る手段としてこのレクイエムを完成させようとした。



弟子たちによって完成したレクイエムの楽譜は、依頼人のヴァルゼック伯爵に引き渡され、コンスタンツェは作曲料の残りを得た。



そしてヴァルゼック伯爵は、レクイエムを自分の作品として、ウィーンのノイクロスター教会において自身の指揮で演奏。



このヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家で、「有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表する」という著作権的にグレーな行為を行っていた。



一方、コンスタンツェは手元に残した写譜から亡夫の作品としてレクイエムを出版…これに対して、ヴァルゼック伯爵は「俺の作品や!」とコンスタンツェに抗議した、という説がある…。

そんなモヤモヤするエピソードもあるけど、ともかくこのレクイエムは今も名曲として人々に語り継がれている。









「怒りの日」と言えば――
クラウザー、ギルデンスタン、ハイドリヒ、ロト7、ペルソナ
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