SHA 2018/04/17 04:00

【「神の子殺し」の濡れ衣 】アントニオ・サリエリ


アントニオ・サリエリ





1750年8月18日 - 1825年5月7日








アントニオ・サリエリは18、19世紀のイタリアの作曲家。



18世紀の後半から末にかけて、アメリカ独立革命・フランス革命といったドンパチ賑やかなイベントが起きている時代で活躍。



日本では、田沼意次が老中になったりしている時代ですね。



サリエリは幼少のころからチェンバロ、声楽、ヴァイオリンといった音楽教育を受けて育つ。



だが、両親を早い内に亡くし、他の子供達と共に惨めな境遇に陥る。



その後…彼はヴェネツィアに住み、1766年に宮廷音楽家フローリアン・レオポルト・ガスマンとともにウィーンの宮廷へと招かれた。

サリエリの肖像画














宮廷楽長






そこでサリエリは音楽家としての才能を存分に発揮する。





1788年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世より「宮廷楽長」に任命され、亡くなる直前の1824年までその地位にあった。




この宮廷楽長は音楽家として最高の地位・名誉であったが、クソ忙しい役職でもあった…



1 諸侯たちの娯楽・宴席のための作曲・指揮



2 宮廷楽団の運営



3 楽団員の生活の管理



4 諸侯の子女の音楽教師



などなど…色んな仕事があったのである。




1817年、サリエリは「ウィーン楽友協会音楽院」の指導者に就任。



この音楽院は後に「ウィーン国立音楽大学」と改称され、現在でも多数の世界的指揮者を輩出している。




また、「ニューイヤーコンサート」で有名なウィーン楽友協会の黄金ホールの設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わる。




さらに、あのベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。



弟子からは一切謝礼を取らず、才能ある・生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。




またまた、職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。




この音楽に関する多才さこそ、サリエリの素晴らしさであろう。




だが、後世において彼の偉業は「神の子・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」の影に隠れることになる。





神の子とサリエリ

サリエリが使えていた皇帝ヨーゼフ2世は文化発展にも気を配り、多くのイタリア人が占めていた音楽の分野にドイツ音楽を意識してモーツァルトを宮廷音楽家として雇っていた。



サリエリとモーツァルトが具体的にいつ、どのように出会ったかは不明だが…



これでまでのイメージでは、この偉大な2人の作曲家は不仲で有名であった。






確かにモーツァルト自身も…



・モーツァルト「ウィーンで僕が高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をしてるからだ!」







と語っていた(らしい)。




他にもモーツァルトの天才に怖れをなしたサリエリらのイタリア音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減した…という噂もある。



そして、戯曲『アマデウス』(1979年)とその映画版(1984年)では、サリエリが「天才へ嫉妬した凡庸な作曲家」という風に描かれ、彼が「モーツァルトを毒殺した」ということになっている。





だが、これらの話も最近では「証拠がない・憶測である」という可能性がかなり強い。

モーツァルトの肖像画












「2人は不仲じゃねーよ」とする根拠




1 プラハの聖ヴィートゥス大聖堂の重要な祝賀行事の数々で、サリエリは自分の作品を一切使わず、中にはモーツァルトの作品を多数使用している。




2 サリエリはヴィーン劇場にモーツァルトを招待しており…



モーツァルトは、その時の模様を妻コンスタンツェへの手紙で伝えていた。



その手紙には「敵対心や憎悪でなく、ただ自分の作品を感嘆の言葉で祝福してくれたサリエリへの賛辞と感謝と親愛の心」がこもっていた。





3 モーツァルト、サリエリ、コルネッティの3人で共作もしている。



それは『オフィーリアの健康回復に寄せて』という曲で、「短期間声を失っていた女性歌手ナンシー・ストレースが舞台へ戻ってきたことを歓迎するため」に作られたものである。



この曲は、映画『アマデウス』のような「モーツァルトとサリエリが不仲だったという風説を否定するもの」として注目されている。



「本当に不仲なら一緒に歓迎の曲なんか作らんやろ!」という理屈ですね。



ちなみに「コルネッティ」は学者の間でも「誰だコイツ」状態な無名の作曲家。










「至高の神よ、サリエリを憐れみたまえ」

モーツァルト死後…



ウィーンの新聞は「彼は毒殺されたのではないか」と報じた。



1820年ごろになると、ウィーンでは、「“イタリアの作曲家ロッシーニを担ぐイタリア派”と“ドイツ民族のドイツ音楽を宣言するドイツ派”の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行。



サリエリはロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた。



また、弟子のモシェレスに自らの無実を訴えたが…かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果に。



これらの噂・誹謗中傷により、サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうともした。




その後…1825年5月7日、74歳で死去…亡くなるまで噂に苦しんだという




時が経ち、当時の「サリエリがモーツァルトを毒殺した」などの噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られた。



これらの作品によって、モーツァルトの影に隠れたサリエリの知名度は上昇した…だが、「サリエリがモーツァルトを…アマデウスを毒殺した」というイメージも広がってしまう。




そして2018年…Fate/GOにおいて「復讐者」として、再び名が知れ渡る事になる。

アントニオ・サリエリの「レクイエム」
https://www.youtube.com/embed/AO7xz7qTrlI







アントニオ・サリエリの故郷は・・・
パスタ大好きイタリア!










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