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結局、何をしたいのか?
考えると、感動を生み出したい、という結論に至る。
しかし、感動とは個人がそれぞれ感じるものなので、本当に、ふわふわとしている。
漠然としている。
究極の目標であり、人生の長い時間をかけて生み出していくものと捉えることができる。
つまり、続けていくという生き様そのものが感動を生み出すということ。
(それは気づいたら、そうなっていた、といったものだとは思う)
で、じゃあ、何をするのか?具体的に何をするのか?
もう何をやってもダメなんじゃないか。
そう感じてしまって、日常すべてを創作につなげようとしていた意識が消えた。
見るもの聞くもの、匂いや感触、出来事、見た夢のこと・・・あれこれ。
無意味に感じてしまっている。
突き詰めればもともと意味はないけど、創作の存在によって、確かに意味づいていた。
もう、自分がする必要はないし、する気力もない。
そうなってくると、本格的にどうしようもない。
さて、そうなってくると、違う何かを見つけないと。
ものづくりに関係ないことでもいいし、旅行とかなんかそういうのでもいい気がする。
ただやはり、完全なる受け手、にはなりたくない思いもある。
何かしら、受動でなく、能動の方に
発信する側の人間になりたい。
というか、何をしないまま、のんびりと暮らしていく、という人生が理想に思えない。
時間をただひたすらに消費していく、よくある老後のような悠々自適な生活。
もったいない。と感じてしまう。
身体が絶えず「生産性」を求める。
今まで、ずっとそうしてきたから。
そして、今、思い返す
こうした、澱んだ、あるいはグダグダした精神状態は、
創作意欲のあった当時にも確かに存在していた。
というか、むしろ、多かった。
それをうまく創作に、昇華させていたところはある。
それが持ち味だった側面はあった。
ただ、自己満足を一方的に見せつけるような行為は、相手にとって不快である、といった現実があり、年を重ねたこともあって、まあ、なかなか丸出しにできないようにはなった。
だけど、今だからこそ、その衝動的でグロテスクな感情を思い返すべきときだと感じる瞬間が、たまにある。
理性を得て、本能を失った
今までの経験から、自分の理想の状態を実現するための計画を企てるようになった。反省を活かして、成長している実感はある。
しかし、勢いを失った。
完璧な「遠足の予定」を立てても、当日の朝に起きらんない。
外に出るのがしんどい。そんな感じ。
まごうことなきクソジジイである。
100%はまず出ない。
でも、1~3%出ている。
チョロチョロと弱火が、ちょろちょろと出ている。
本試合にはまだ出られないが、家のなかで点滴打ちながら自主練している感じ。
企画も少なくとも3つは出て、ふわふわしている。
・想像しても面白いと感じないが一定の評価を得られそうなもの。考えるとストレスが溜まる。
・かなり自分の趣味に近いが、製作期間や必要な作業を考えるとストレスが溜まるもの1
・かなり自分の趣味に近いが、製作期間や必要な作業を考えるとストレスが溜まるもの2
火打石でパチパチやっている。
やってればいつか種火になるだろうという、ゆとりゆとった状態。
ただ再起不能まではいってない。
ぼんやりクラブは終わらない。
創作サークル ぼんやりクラブ
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