才能について思うこと

ゲームの才能というものも、ある

ハッキリいってしまえば、努力ではどうにもならないこともある。
これは大人になってしまえば見えてくるところだけれど、

その現実を「盾」にして自分を守ることとは別問題だとも思う。

才能がないから、下手でも、がんばらなくても仕方ないでしょ?
というのは、がんばっている人に対しても失礼だと
オヤカタは思っている。

だから、手首や肘にブロック注射しても対戦をするのだ。
もう、二度と昔のようには動かせなくってもね。
気迫だけは一人前で居続けたいと思ってるんだ。


ただ、おかしいなと思うこともある

ゲームが上手い人のなかには、相当に努力している人もいるだろう。
で、そんな人のなかには、下手な人を努力不足だといって
徹底的にやり込めようとする人間がいるんだな。


オヤカタはこれが本当にイヤでね。


将棋の世界を見て欲しい。
藤井さんがすごい成績を出している。
その3倍以上長い時間を生き、将棋に打ち込んでいたプロたちは、
果たして努力不足だったのだろうか?

努力の量は勝っていても、才能で負けているのかもしれない。

渡辺さんは羽生さんに勝てなかったのは怠けていたからだろうか?

大谷翔平選手がシーズンを怪我で休んでもホームラン王になったのは、
世界中の野球選手が休んでる大谷選手より練習を
サボってきたからなんだろうか?


違うだろう、おそらくは、だけどね。

でも、ここまでならいいんだ。
もっとがんばれというだけだからさ。
「厳しい人だな」と思うだけで、ちょっとイヤだなと感じる程度だ。
ただ、ここから先、人間性の否定に踏み込んだりする人も
少なくないんだよね。

それもまあ、オヤカタは仕方ないと思う部分もあるんだけど、

「だったらお前は世界一で何人にも金輪際負けないくらいなんだろうな?」

とも思うわけなんだよね。
そこまで厳しくやるなら、誰にも負けないし、
負けたら努力不足だと潔く認めないとおかしいよな。


概して安易に努力不足だと切り捨てて、
人間性がダメだから下手なのだ、
生き物として劣等だ……なんていうのは、
総じて本物の天才とぶつかったことがない人だ。
そして、明らかに天才と思しき人とぶつかると、
適当な言い訳をして逃げを打つ。

いままで他人にあんなに厳しかったのに、
自分が責められる段階になったら……。
老いだの、環境だの、敵対しないように工作をはじめたりだの……
たくさん見てきた。


ゲームってのはさ、やっぱり自分と向き合う部分を大切に
したほうがいいんじゃないかと思うんだよね。

誰かと競うのもいいけれど、過去の自分を超えていく、
何者も傷つけない達成感、成長の実感。

それが味わえるのがゲームの魅力だと思うんだ。

自分の正当性を見せつけたいとか、
他人を叩き潰したいとか、
逃げに走って盤外戦術で勝とうとするとかさ、

全部ゲームじゃなくてもできることだ。


修行僧のように、自分をみつめて自分を超える。
しかも肉体的な苦行なしに。
さらには非肉体的な成長は目に見えなくて悩むところだけど、
ゲームならそれも結果が目に見える(スコアなどで)。


こんなにいいものはないよ。

オヤカタはゲームコミュニティってのは、
そういう修行僧みてーな連中の集まりになるのが最終形態だと踏んでてさ。

人生の到達点と呼べるゲームを探しているんだよね。
上海なり、パズルボブルなり、ね。


もしみんなも知っていたらぜひ教えて欲しい。
人生最後のゲームになるかもしれない、
この先何十年も付き合えるであろうアーケードゲームを。

それらが集まれば、きっと豊かなゲーセン文化が再興すると思うんだよね。
かつてとはまた違う形でね。

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