身も蓋もないゲーム普及論

ゲームの普及を考える人は多い。

ゲーセンを盛り上げたいという人も少なからずいる。

そこで思うことを端的に申し上げたい。

ゲームのおもしろさはそのゲームそのものの魅力ともうひとつ。
プレイヤーの魅力だ。

ゲームのおもしろさはこちらでどうこうできるものではないから
傍に置くとして、プレイヤーの魅力はどうか。


対戦ゲームがおもしろいと思うのは、
対戦相手がおもしろいからだったりする。
それが心の底から信頼し、許しあっている友なら勝敗など
とり取るにたらない、詮なきことだろう。
反対に嫌いな相手や知らない相手なら、
勝てなければ腹が立つこともあるのかもしれない。


プレイヤーのおもしろさというのは、
ひょうきんだとかそういうはなしではない。
ある人が、別の人にとっては侮蔑の対象になるように、
人間は誰もが一律に好き嫌いの線引きができるものではない。

オヤカタはカレーが大好きだけれども
(もう食べられなくなって久しいが)、
親族はカレーが大嫌いだ。
同じように育ってもこれなのだから別の家庭なら、さもありなん。


すべての人に好かれる人がいないように、
すべての普及、布教が一律で成功するわけがない。


ここをどうも理解できない人が懸命に普及活動をすることで、
いままで以上にそのゲームを嫌う人を増やしていたりもするのだ。

これはとても悲しいことだろう。


いろんな人がいろんな形で普及すればいい。
体育会系だったり、露悪的な空気だったりだけではなく、
和気藹々とやってもいいし、ピリッと一本張り詰めた空気があってもいい。


最近、普及活動を一本化させようといろんなグループを攻撃したり、
否定的なことをいう人が目についてきたから書いておく。

その普及方法が受け入れられず消えていった潜在プレイヤーが
暗数として相当いたかもしれない。
そのときにほかのグループがあれば救われたかもしれない。

組織の拡大統一は大切だが、こと普及に関してはそうではなかろう。
もっと草の根的で、努力ばかりで泥に塗れて。
華々しいことなどなにもない世界なのが当然だと思う。
そこに自身の派閥の伸長や経済的野心が透けて見えれば、
プレイヤーはまたいで通る。当たり前のことだ。


繰り返しになるけれど、
ゲームの楽しさは誰とやるかに大きく左右される。
誰にも好かれる人はいない。
オヤカタ自身、キモに銘じておきたいと思う。

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