いらにか 2023/06/12 01:31

【学びの咀嚼】ひざうら先生の配信を視聴した感想②【そろそろ絵師に真剣に怒られる日】

【学びの咀嚼】ひざうら先生の配信を視聴した感想①【そろそろ絵師に真剣に怒られる日】の続きを書く。

https://youtu.be/iYXzBfHUZYE

前の記事の繰り返しになるが、
あと論評なんてものは後出しジャンケンでしか無いと思っている。
つまり、平等な状態ではないのでその点を理解してこの記事は読んでもらいたい。

あと、方針以降の話については言及しません。

本編

論点0 :人間よりAIのほうが優秀?

これは優劣の定義によるし、AIも人間も単一の個体を指していないので比較が難しい。
論外とまでは言わないが、前提条件によって結論にばらつきが生まれるはずなので不毛だとは思う。

あと些細なことかもしれないが、人間絵師とAI絵師の比較において、AI絵師という言葉にAI単体と使用者のどちらか(又は両方)を指すような使い方をしている気がして、少し論点がぶれている気がした。

人間絵師とAI絵師を比較する表現において、リンゴとサッカーを例として提示していたがこれは少し不適切かなと思った。
人間絵師もAI絵師も人であり、違いは道具(及び創作過程)でしかない。

なので、私としては人間絵師とAI絵師の比較なら下記の説明が的を射ていると思う。

「刀を持った人間とアサルトライフルを持った人間のどちらが強い?」
→間合いや熟練度という前提(ケース)に依存する問題なので、一概には言えない。
→論外ではなく、前提の不備。前提を含めれば論ずることができる。

ただ、道具の側面で両者を比較するときに人間絵師側の道具を何とするかを決めなければこの議論はカオスになる。

AI+人間=AI絵師(絵師)
(スキル等の道具的な何か)+人間’=人間絵師(絵師)

とするならば、絵師という区分で同列な両者は比較してもいいが、構成する単要素をとってAIと人間’を同列視するのは不適切だと思う。
AI絵師において人間が補っているであろう創作性(思想)に関して、AIと人間’を比較する論点はズレているとしか私は思えない。

よって、論点がズレているような比較事項においては、論外だと考える。
ひざうらデルタ氏の結論と同じかもしれないが、私の主張の仔細について同じ意見であるかどうかは不明なため、ここではひざうらデルタ氏と同じ意見であるという発言は控えることにする。

結論は一緒だが、論理まで一緒かどうかはわからないし、勝手に決めつけることはできない。

論点1:AIの絵は人間の絵と何が違う?

挙げられているのはあくまで現状で大衆に出回っているAI(主にStable Diffusion)の特徴である。これは事実であり、私も同じ所感を持っている。
ただし、完成という水準・基準は人によって様々であるため人間による手入れなしで完成させることは不可能という論に私は共感できなかった
→発生している案件は「完成していない絵を直せと言っている」ではないのか


少なくとも私がtext2imgで創作して公表している絵は自分の思想表現を完遂しているので完成したと見なしている。それが美術的またはその他の価値観によって、未熟である(=完成していない)と思われようが完成した作品だ。
※「人間による手入れ」には人間による選別という意味を含まないものと私は解釈しているが、間違っているのなら指摘が欲しい。


ただし、ここでひざうらデルタ氏が主張したいのは、AIイラストを完成していない絵として発生している修正案件が多発していることから、AIの生成する絵には完成品と言えないものが多く顕在されるということではないのだろうか。

その観点で言えば、ひざうらデルタ氏の主張には一理ある。
現にコンテストで優秀賞を取り話題になった「Theatere D'opera Spatial」も制作の仕上げにおいてPhotoshopによる修正・加工が人の手でなされている。
高い水準を求める職人のような視点では、人間による手入れなしではその水準の完成品を生み出すことは現状できないかもしれない。
つまり、ひざうらデルタ氏が「完成品に限定する」とした条件を既存のイラストレーターがプロフェッショナルの視点からみた完成品の水準を前提とし、AIイラストがその水準にまだ到達していないと評価している のならば、ひざうらデルタ氏の主張には共感できる。



話を論点に戻すが、AIの絵は人間の絵と何が違うかについてひざうらデルタ氏が列挙した事実は間違いではないし、そこが両者の差や違いになっていると思う。
ただし、AIのイラスト生成は発展途上の最中にある技術であり、AIはソリューション(課題解決)の一つの道具である。
そして技術はときに気持ち悪いほどに進化する。
あれができない、これができないという現状インポッシブルに思える課題は、将来的に解決される恐れがある。
現にLoRaやControlNetのような品質向上のソリューションが次々に生まれ、AIイラストの品質を底上げし始めている。
なのでこれらの事実も時間とともに変異する可能性が高い。


私にとっては、AIの絵も人間の絵のどちらも絵であることに代わりはない。
AIっぽさという表現も、使っているモデルが同じなら類似するだろうし、ひざうらデルタ氏が列挙したようなStableDiffusionの特性が集合知的にAI絵(AIっぽい絵)として認識されているだけだと思う。


両者は製作の過程が異なる。
一般的に製作者や製作過程に対する印象や評価が製作物に現れるのは避けられないと私は考えているが、議論においては明確に区分して話す必要があると思う。

※誤解しないでほしいが、ひざうらデルタ氏の発言が間違っていると主張したいわけではなく、いち視聴者として私の感想を述べているに過ぎない。


論点2:AI絵師は何も苦労していない?

これは私も否である。

だが、

もちろん、個人が努力して獲得した能力や成果は労われるべきだ。
労を費やしたのだから。

だが、絵は苦労を伴わないといけないものなのか?



論点3:AI絵師は人間絵師と同じ?

AI+人間=AI絵師(絵師)
(スキル等の道具的な何か)+人間’=人間絵師(絵師)

前述したが、人間と人間’で求められる役割や能力も異なると思うので、同一のものとして語って問題無い場合と語ってはいけない場合があると思っている。

あと製作工程も違うので、ひざうらデルタ氏が述べているように創作過程自体の楽しさも異なる。

論点4:職人気質の問題?

職人気質とか日本の文化特性の影響も否定はできないが、それを差し置いてまず言いたいのは気軽に呟けるSNSで、各々が異なる言葉の重みを持ちながら発言していることを推察しながら、文字数が制限された状態で対象の省略が許されるような圧縮言語の日本語を使って議論するリスクを考えてから使って欲しい。
冗談やネタみたいな発言も蔓延るTwitterで、健全な議論は難しいと僕は思っている
(できないわけではく、難しいという話)


あと、保守は大事。
ただ文化の良し悪しは時代によっても変化するので、時には破壊されるのが文化であると私は思っている。
私は保守(Keep)よりも保存(Save)派なので、変革に多少寛容な思想があるが、それでも文化の保護は重要だと考えている。その文化を守っている人たちの意見を汲み取ることも重要である。

論点5:イラストレーターが仕事を失う?

これは一時期問題にもなったバレエのエンタメ性と文化性の議論にも通じるところがあると思う。

人間のイラストにしか無い価値はあると思うが、AI絵にしかない価値もある。人間の絵のほうが価値が尊いものだという意味でもしこの言葉を使っていたのなら、私はそれに賛同できない。

それと、人間のイラストの価値を知ってくれるかどうか次第と触れているが、私は皆が価値を理解したところでお金を出すのかは疑問である。
人間が作ったものには温かみがあって、機械はそうじゃないみたいな観念を生み出すだけじゃないのだろうか。

この論点の問題の本質的なところは絵の品質ではなく、人間絵とAI絵の生成コスト(学習コストを除く)の差が著しいにも関わらず、両者が競合関係にあって不健全な競争を強いられていることだと私は思う。
シェアを奪われているというとは競争で負けていていることなのだから、その競争の内容が不健全(不正)なのかが議論されるべきだと思う。

AIイラストのアオリを受けても仕事を失わないイラストレーターはいるだろうし、その人達は自分のイラストの魅力で顧客をしっかり掴んでいるから人間絵師はみんなそうすればいいじゃん。
という視点でこの問題は論じてはいけない。

不当な競争を強いられているという現状について考えるべきだと思う。
その結果、法整備による規制や税による抑制が必要になるかもしれないと私は考えている。

※税による抑制とは嗜好品のようなものにかける税の効果を指している。たばこ税を増税すれば喫煙者の抑制効果はあるが、根絶が目的ではないので一定数残ることが許容される。つまり許容される範囲に収めるのが税による抑制である。関税に代表されるように不当な競争を抑止する仕組みの一つ。

論点6:AI生成は人間絵師への発注にも役立つ?


これは人によるはずだ。
詳細に要求定義書を書いてくれるのを喜ぶ人もいれば、自由裁量が多いほうを好む人もいるはずだ。

絵が描けないために自分の思想表現を代行してほしい発注者の場合、自分の思想表現を伝達するしかない。
私は思想伝達の表現幅が増えることは良いことだと考えている。
それが副次的に引き起こす問題(オリジナルの発想の可能性を狭める)は分けて考えるべきだし、その副次的作用が無視できないのならその伝達手段をやめることも選べるはずだ。
(IT断食がまさにその例だと思う)

クリエイターの感覚がズレているからこそ新しいものを作り出せるという意見には共感できるが、ズレているからこそ顧客が表現したいことから外れるリスクも有る。
だからこそ、複数人での創作において思想の言語化とそれに対するイメージの共有は重要だと私は考えている。
もちろんオリジナルの発想の可能性を狭めてしまう可能性は否定できない。


そもそも、そう主張する人がどこまで本気で人間絵師に依頼する気があるのか?

この点については極端に言えば、上記のようなリスクを許容できない人は人間絵師に発注しなくなると思う。やりたいことが明確でイメージがあるのに、それができない人に発注するのはどうなのか。
それで、イメージと違うものが出来上がったら、発注者に問題が問われる。

それと、画像で要求を伝えられるのは、イメージボードを渡されるのと同じだと思うのだが違うのだろうか。それがAI絵だった場合にのみ否定される理由があるのか。
この点は広く意見を聞いてみたいと素直に思った。


率直な感想として、呪文やAIイラストを発注に使用することのメリットデメリットを議論して、その性質を理解した上で各々が取捨選択すればいいのではないか。
毒なのか薬なのかはケースバイケースでしかないから、この論点の結論を急がないほうがいいと思う。

まぁ配信で言っていたことは理解できるので、ひざうらデルタ氏の主張が間違っていると思わない。意見として貴重な提言だと思うし、様々な立場の人の意見を知ることが議論にとって重要だと思う。
(大抵の場合はそれを区分けして整理したりまとめないので、一過性の討論になりがちだが)


論点7:イラストって芸術?仕事?

芸術であり仕事でもある。

ただ、このスライドは何が論点なのか?みたいな印象があり、聴いていて個々の話は理解できるが、全体を通じて「何を論じたいのか」が少し曖昧に感じた。


論点8:反発したって意味ない?

意味がないということはないはずだ。
反発が何かしらの結果に結びつかないことはよくあることだ。
だが、結果に結びつかなかったとしても、その行動に意味がなかったはずがない。
諦めムードを押し付けるなという主張も共感できる。

ただ、諦めた人(又は諦める行為)をひそかな加担とするのはどうかと思う。
味方が減ったことで、リタイアした味方は敵に加担したと(そういう側面があることは理解できるが)認定してはいけないと私は思っている。
これはいじめを傍観しているようなケースとは問題の性質が違う。

私の主観になるかもしれないが、ここでひさうらデルタ氏は「諦めるから不可避になる。だからあきらめムードなんかで諦めないで欲しい」という意見を述べたかったのだと解釈している。


中間整理


ここは整理なので特に言及しない。


論点9:学習と著作権の大問題

ここは色々と言いたいことがるので章を小分けにする。

AI学習は比喩表現でしかないのか?

人の学習とAIの学習はプロセスが異なる。これは事実だ。
だが、AI学習というのは教師データからパターンを学習し、それを統計的手法などを用いながら目的の出力をするために行う。

学習とは(人に限らず)入力(又は経験)を取り込み出力(又は行動)に活かす行為であり、その行為に該当するため、AI学習は比喩表現ではないと私は考えている。
そして学習という言葉を用いることに何ら不適切な要素はないと考えている。

ちなみに、著作権には学習権というものが存在しない。
人は公表権によって公開された著作物から(何かしらを)享受して自己の文化活動(又は創作活動)に活かす学習行為を制限されていない。
ただ近年のAIの発達を見ていると、私は著作物から学習する権利(または制限する権利)について学習権として考える必要があると思っている。

著作権というもの

まず著作権の法律は社会の実情を鑑みながら改善され続けている制度であることを理解してもらいたい。調べればわかるが、直近の令和4年にも改正がされている。

なので、著作権という概念は絶対ではないという主張は共感できる。
本質的なという観点で、著作者の権利を十分に守れているのかどうかを時代に合わせて議論し続けていいく必要はある。そういう制度である。なので、法はあとからやってくるという意見も共感できる。というか事実だ。

ただ、現行の法に照らし合わせなければ「何が足りていないのか」「何を修正すべきなのか」がわからない。

それと著作権は著作者が他人の行為を制限できる権利だけでなく、著作物を利用する側の人間の権利も守るためにもある。
著作権は著作物と著作者と利用者(その他関係者)それぞれの権利を公平にするための制度なので、著作者だけの意見で整備していい法律でもないことを理解してもらいたい。

私は利用者の立場として、著作権で認められている範囲(情報解析)においてAIの学習行為をすることは何ら問題ではないと思っているし、AIの学習行為に制限をかけるのならば正当な理由を持って議論して法改正をしなければいけないと考えている。
単にAIが脅威だからという理由だけで、制限をかけられるのには納得できない。
先にも述べたが、学習に制限をかけるのならば学習の権利について十分に議論すべきというのが私の主張である。
あと学習データに対してクリエイティブ・コモンズのような制度を設けるのは悪くないと思うが、AI学習を制限したところでAIの出力が及ぼす影響は対して変わらないと思う。
ソリューションは、厳しい制限下でも環境に適応してくることがる。
Stable Diffusion然り、RoLa然り、ControlNet然り。
学習に制限がかかっても制限下で成長してくるので、AIの出力が及ぼす影響は対して変わらないと思う(成長の抑制にはなるかも知れないが)。




あと最終的にはリスペクトと言っていたが、僕はモラルだと思っている。

法の範囲内だろうが、他人が嫌がることは嫌悪される対象行為だ。
AIに関する一連の騒動も大半がモラルのない嫌悪される行為が発端でしかないと私は思っている。
もちろん、AIイラストが比較的新しい文化でありモラルの形成が未熟である点は否めない。
私の主観になるが、旧Crypkoの時代に形成されていった特定の著作物を意図的に模倣するような行為は避けたほうがよいという価値観が浸透したように、これからモラルの形成が始まるのだと思う。そのモラル形成には創作者である既存のイラストレーターの提言と協力が不可欠だと私は思う。



終わり:AIイラストの法とモラルに関する私の結論

AIイラストにおける様々な問題は、AIというものが人間社会に参画してきたことの弊害であり、黎明期によくある秩序の揺るぎが主な原因だと考えている。

学習データの著作権については、学習における著作者の権利というものを考えていかなければならないと思っている。それを意思表示の形式にするのか、はたまた新しい制度ができるのかは自分の庭だけでなく他コミュニティの動向も慎重に追う必要がある。

AI絵師については、言葉を変えろという意見しかない。
既存の絵師という言葉がもつ文化と衝突している気がするので、私は穏便に済ませるなら変えた方がいいと思っている。


AIで既存の著作物を模倣するのは、ケースによっては依拠性が認められるケースもあり得るので絶対に安全ではないからオススメはしない。
ただしこの点はAIに限らず、善意の第三者たりえるかどうかが争点になる。
早い話がAIだろうが手書きだろうが、許諾のない二次創作はリスクが高いし著作者よっては不快に思うから不要な争いを避けるならやらないほうがいい。


黎明期でありAIイラストに関わる人達に十分なモラル形成ができていると思えないので、引き続き新しい問題は生まれてくると思う。
AI絵師をめぐる問題は誤解を紐解いて対立が緊張緩和(デタント)に向かってほしいが、権利がぶつかっている箇所については妥協点を模索するしかないと私は思っている。


謝辞

最後に、この場を借りてひざうらデルタ先生に謝辞を述べたい。
混沌としたAIイラストにまつわる状況において、啓蒙となる良い配信でした。
これを契機に視聴者がAI絵師について考え、私達の脅威は何なのか、その脅威に対して私たちは何を守りたいのか、そのために何ができるのかを問うきっかけになればと思います。
そして私自身にとっても、問題を整理するよい機会になりました。

ひざうらデルタ先生、本当にありがとうございました。






繰り返しになりますが、私には特定の人を貶める意図はありません。
記事で書いた内容は私の率直な意見であり、賛同できない意見だけをとって敵対していると認識してほしくありません。
もし私の意見について何かあれば、批評してください。

(おわり)

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