いらにか 2023/06/11 04:12

【学びの咀嚼】ひざうら先生の配信を視聴した感想①【そろそろ絵師に真剣に怒られる日】

この記事は、ひざうらデルタ先生(別名:伏見ひゅれえ)が【AIイラスト】そろそろ絵師が真剣に怒る日 というタイトルでAI関連の配信をしました。
これを視聴した私は率直な感想を書こうと思った。

はじめに

この記事でひざうらさんの主張を貶める意図はない。
だが、意図はなくとも結果として貶められたと享受する可能性は否定できない。

なので、もし貶めていると思われる表現があった場合に誰でも構わないので報告をください。
言葉が足りていないなら補いますし、不適切な表現があれば己の未熟さを悔い改めて修正します。
ただし、譲れない部分は僕の思想であり主張なので修正はしません。
了承しなくていいので、そこは留意してください。



あと論評なんてものは後出しジャンケンでしか無いと思っている。
つまり、平等な状態ではないのでその点を理解してこの記事は読んでもらいたい。

※本来、学びの咀嚼はフォロー枠に限定した公開だが、視聴を限定するのは今回の議論を著しく妨げると判断したので今回はフリーの公開とする。



本編

前提の前提

私は2019年頃からAIによる画像生成の界隈をみてきた。
MakeGirlsMoeやCryptoKittiesやCrypkoなどの技術面にワクワクしながら、当時から法令としての著作権に敏感だったので、AIの生成した画像が著作権とどう向き合うのかを当時から考えてきた。

当時のCrypkoはサービス内で生成されたキャラクター画像同士を交配させて新しいキャラクターを生成する仕組みだった。
そんな中、β版のCrypkoで初音ミクに酷似したキャラクター画像が生まれ、高値で取引される事例が起きた。
これは議論になり(Crpkoだけの寄与ではないが)その後、「依拠性がなく偶発的に生成された画像(キャラクター)であっても、既存の知的財産権で保護されている画像(キャラクター)と酷似した場合には知的財産権の侵害として認められる可能性がある」という解釈が広まった。
※上記は主に商標権のような産業財産権の侵害を指している。著作権では侵害の5要件の一つである依拠性がなければ侵害要件を満たさないが、例えば「博麗霊夢に似たキャラクターを生成しよう」という意思があり生成した場合、その創作は原著作物(博麗霊夢)に依拠しているとみなされる場合がある。もちろん5要件をすべて満たせば著作権侵害にあたる。

2023年6月11日現在において、文化庁からは下記のような解釈が発表されている。



引用元:https://www8.cao.go.jp/cstp/ai/ai_team/3kai/shiryo.pdf

しかし、Stable Diffusionの登場によりAIによるtext2img(テキストから画像を生成するもの)の利用が爆発的に増えたことで一部SNS(主にTwitter)においてtext2imgの生成した画像の投稿が増えた。
それらの画像において一部の画像が著作権侵害の恐れがあったりと、法規を逸脱しているか否かに限らず、一部の人たちから大きな反感を受けることになった。
また、当時の著作権法が定める範囲において許可された機械学習への利用においても疑問視する声や議論が起こった。
加えて、text2imgにおけるプロンプトはこれまでの一般的なイラスト―レーションにおける「手で描く」という行為ではなく「指示・記述」という行為であるが、「描いた」という言葉に絵画を生み出した意図を含めているケースにおいて、「AIで描いた」のような言葉の使用が見受けられ、それらの表現が既存の手で描く工程を含んでいないために「描いたと言えるのか」のような疑問や反感・反論も起こっている。
(追補:書くという言葉が今では手書きに限らずキータイプするケースにおいても広く一般的に使われていると私は感じているが、活版印刷やタイプライターが登場した際には書くという言葉の変質が起きたはずで今回の描くと似たような事象(疑問や反感の意見)があったのではないかと推測できる。ただし、私はこのような変質を肯定する意図はなく、場合によっては言葉の持つ価値観・文化の破壊に繋がる恐れがあるため慎重になるべきだと考えている)


結果として、様々な疑問や懸念事項、問題を多くの人が提起するに至り、様々な議論を呼び起こした。
私の所感だが、Twitterの文字数制限と日本語の言語特性とも言える圧縮言語の欠陥によって所謂AIイラストの議論の多くは不健全な環境下で行われ、AIイラストに対して投げかけられている懸念事項も多岐に渡って論点の多様化(及び前提を省略することによる論点の曖昧さ)を引き起こし、結果として対立構造やモヤモヤとした負の感情(相手へのネガティブ感情)が発生していると考えている。

そんな中で、ひざうらデルタ氏がAIイラストに関する議論についてYoutubeで配信を行った。

https://www.youtube.com/watch?v=iYXzBfHUZYE


この配信の中で取り上げていた論点について、私の感想としてコメントしたいと思う。


趣旨と前提

https://youtu.be/iYXzBfHUZYE?t=624



まず、ひざうらデルタ氏はこれから話すことの主旨について触れ、対立を煽るのではなく双方の誤解を解いて緊張緩和に向かいたいとしている。


次に、ひざうらデルタ氏は注意事項として、これから話すことはあくまで個人の感想ではないことと特定の層を批判する意図はあることを明示した。

このスライドで、論理的な根拠がある主張は個人の感想ではないとすることに私は違和感しかなかった。
論理的な根拠があろうが無かろうが、個人が主張する意見・思想の弁論は個人の感想に含まれるはずだ。感想とは当人が体験を通じて感じた思想(何をどう思うか)ではないのか。
そして、主張とは「誰が」を明確にすべき事項ではないのか
誰がを明確にしなければ当人が置かれた環境も踏まえてその主張の正当性を検証・考察・議論できないはずだ。
みんなが思っている」のみんなが具体的に誰なのか明示しなければ、そのみんなの立場も踏まえた議論は視点が曖昧になためにできないと私は思っている。
※追補:集団の総意を主張するためには(民主主義なら)合意プロセスが必要で、署名の連名などがこれにあたるはずだと私は考えている。

このような書き方になると揚げ足取りのように思われるかもしれないが、この点は非常に重要だと私が考えているので配信で「早い話がひざうらさんの論理的な主張ってことで理解した?」とチャットで質問をした。

21分30秒付近から

ひざうらさんの回答としては、論理的な主張には誰のという形容詞をつけることができるのかどうかという哲学上の根本的な問題があり、この場で答えを出すのは時間がかかるのでやらないが、この一通りの話の最後まで聞いた上で個人のものなのかどうかを是非一緒に考えていただきたいということだった。
この回答に関して2つほどコメントがある。

  1. 論理的な主張における’誰が’は所有格であり、最後まで視聴した私としては一部の所有格が明示された主張を除いても内容の多くが膝裏デルタ氏の主張であると感じたこと。
**誰の**を**形容詞と表現した**は所有状況の形容もニュアンス的に指すことができて私に意味的に通じたので間違いではないと思うが、正しくは所有格なので読者は誰のを所有格として読んで欲しい。

最後まで聞いた私としては、一部の所有格が明示された主張を除いて、多くは**ひざうらデルタ氏の主張であると思っている**。ただし、ひざうらデルタ氏**のみの主張**と誤解しないで欲しい。「お前だけの意見だろ」とかそういう意味でもない。
配信を視聴すればわかるが、第三者の意見・主張に対してひざうらデルタ氏が賛同して自身の主張として話しているケースも見受けられる。私は当人が自身の主張として表明したものは、第三者からの影響や受け売りであろうが当人が(共有的に)所有している主張だと思っている。
なので、配信を最後まで視聴して上記の結論に至った。
  1. 論理的な主張に所有をつけることが哲学上の問題になる理由がわからない
これは私自身の不学もあると思うので、単に理解力が不足しているだけかもしれない。
なので少し自己の解釈を紐解いておく。
まず、**論理(思考の道筋)は理論(体系化された知識)ではない**。理論はことわりを説明するために体系化された知識のはずだ(間違っていたら訂正してほしい)。
論より証拠という言葉は、説明よりも事実提示という意味のはずだ。
そして、**論理とは論を組み立てた筋のことで**、**論理的とは論の筋が通っていること**ではないのか。

理論的な主張の場合、理論がいわゆる公然の事実ならば所有を付ける必要がないことにも納得できる。
万有引力(理論)は現代において公然の事実なので、理論を主張したニュートンを明示する必要性はないと考えられる。
しかし、万有引力に体系化される以前では、リンゴが木から落ちる現象をニュートンは説明に筋を通して話したはずだ。だから、ニュートンの主張(説明)のように扱われたはずだ。
(読み返してここで誤解が生まれていそうだなと思ったので補足するが、私は**主張とは「誰が」を明確にすべき事項ではないのか**の**べき(推奨)** について話している。明確にしなかれば**ならない(禁止)** という主張ではないので誤解していた人は紐解いて欲しい)

話が長くなってしまったが、要するにこれから話す内容において、ひざうらデルタ氏が論理的にまとめた意見・主張という表現では問題だったのかが知りたかった。
ひざうらデルタ氏がその表現ではNGだと主張するならば、NGであることの論理的な理由があるか否かに関わらず、私はひざうらデルタ氏の意思を尊重するし、私とは相容れない価値観を持っているのだと思うだけだ。

意見・主張というのは人間が置かれた環境下や体験を通じて得た思想である。
意見や主張は筋が通っているか否かで説得力は増すが、筋が通っているからといって公然の理論として振る舞ってはいけないと私は思っている。
例えるなら、ヒトラーの論理的な主張(イデオロギー)を指すナチズムが、公然の理論として旧ドイツ全国民の思想とみなされてはいけない。
誤解を避けるためにも論理的な主張には'誰の'という所有の明示をつけるべきだと私は思っている。



このスライドは事実の説明がほとんどで、特に言及することはない。


定義の説明。
配信中盤までAI絵師をtext2imgが前提として扱っていたようなので、質問してimg2imgの区分に含まれるのかを質問した。

https://youtu.be/iYXzBfHUZYE?t=3232

ここは分けて考えるべきだよねということで、自分で書いたイラストを入力として用いるようなimg2imgはAI絵師に含めないことを説明してくれた。
明確にしていただけたのでとても助かった。

ちなみに、私はAI絵師やAI Artという言葉が適切ではないと思っているため極力使わないようにしはじめた(以前はai artを使っていたがやめた)。
これは絵師やArtという言葉に対して各々が持っている既存の価値観に干渉して反感を買う可能性があるからだ。極端に言えばその言葉が持っていた文化の破壊とも取れる。

このあたりは先日書いた記事「【透かし】AIが創作に寄与した画像に透かしを入れたかった【With AI&I】」にも通じるかもしれない。
AI生成物が条件によっては著作物に該当しない(思想を表現したものと言えない)可能性があるのにAIという言葉に芸術であるArtや芸術作家である絵師をつけるのは誤解を生みかねないので適切ではないと思っている。
私としてはAIと一緒に作りましたくらいの表現が欲しかったのだ。


長くなるので続きは後日書きます

各論点についてもコメントしていこうと思ったが、予想以上に書くのに時間がかかってしまったので続きは後日書くことにする。
(現在06/11 04:05)

繰り返しになるが、論評なんてものは後出しジャンケンでしか無いと思っている。
つまり、平等な状態ではないのでその点を理解してもらいたい。
揚げ足を取りたいわけでもなく、私はこういう意見を持っているという表明にすぎない。

そして今回は言葉の側面について長々と私の主張を書いたのだが、私が議論において言葉を重視していることを理解していただきたい。

私達人間は言葉を通じて多くの意見や主張をお互いに交わす。
しかし、言葉とは意見や主張を表現するための暗号でもある。
解凍される環境など様々な要因で、自分の意図とは違う解釈をされかねない。
日本語は圧縮言語の特性が強いので、対象を省略したり曖昧にする文化がある。
誤解とまでは行かなくとも、発言者の感情や印象が正しく伝わらないことが簡単に起きる。

そして議論は(暗黙的なものも含む)前提が崩れると秩序を失う。
秩序なき議論は、言葉のドッチボールだ。健全ではないと私は思う。

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