いらにか 2024/01/06 14:35

【雑記】芸術じゃない芸術の話【学びの咀嚼】

著作権法について学習している時から、芸術という言葉は非常に厄介だなと思っていた
芸術は「思想(美しさ、感性等)を人が表現する活動とその活動から生まれた作品」という意味に位置づけできる。
要するに人が生み出した思想の塊が芸術であり、芸術作品と言ってもよいだろう


しかし、私たちは人が生み出したもの以外からも芸術性のようなものを享受する機会があるように思う。
自然が生み出した雄大な富士山の姿。
ウユニ塩湖の景色。
満天の星空。
ブロッコリーのフラクタル構造。


人工的でないものからも、芸術に通じる何かを私たちは享受するが、芸術性に替わって、人工的でないそれらを的確に表す言葉が未定義だと私は思った
(もしくは私が不学で適切な言葉があるのかもしれない)

「自然が生み出した芸術」と言ってしまえば万人には通じるだろうが、それはWord to Vector的な意味合成で、

芸術 - 人工的 + 天然(自然)

の式から得られるニュアンスでしかない。


仮に、狭義の芸術を人による創作物とし、広義には感動するものを指すと位置づけても芸術の意味解釈的範囲を広げただけに過ぎず、狭義の芸術以外の芸術には依然として名前が無いままだ。これを暫定的に狭義外の芸術と呼ぶことにする。


狭義の芸術と狭義外の芸術は、人によって両者を同列で評価したり、違うものとして評価したりと個人差があるはずだ。
同じ人でもケースバイケースでこの価値観がスイッチしたりするかもしれない。
綺麗や美しいという言葉は評価の結論であり、至ったゴール地点を指す。
狭義の芸術という入口だろうが、他の入り口だろうが、その先は同じ場所に通じているかもしれない。
感情という結論で言えば喜怒哀楽のどれかに帰結するだろう。
もっと単純なら、好き or 嫌いのどちらかに帰結するかもしれない。


話を本筋の戻すが、
人が創作したものは芸術であり、芸術性を語ることができるだろう。
しかし、狭義外の芸術にも芸術性のようなものがあり、そこに適切な名前がなく、その性質を説明するために芸術の名を借りているせいで混乱してしまう状況がある。AIの生成物が芸術なのか否かみたいな議論のディスコミュニケーションもこの混乱が一因だと勝手に推測している。
本来なら芸術という言葉のスコープは人工物に限るはずなのに、スコープ外の人工的でないものから芸術に似た感動を得たとき、我々は芸術の概念を使って言葉にしてしまう。
飛躍する例えかもしれないが、斧を知らずナイフを知っている人に「木を切るナイフ」と斧を説明することに近いかもしれない。
または、タコみたいな姿の火星人がいたとして、明らかに人類とは違う生命体なのにの概念に当てはめて火星人と呼んでいることに似ていると思う。


Contemporary Artを現代美術と定義してしまったように、こと芸術分野においては混乱を招くような言葉が多すぎる。
芸術自体が明確に意味を定義したりするのが難しい概念であるという側面もあるだろうが、いずれにせよ、価値観や定義などが人によって独自実装されているのに同じプロトコルとみなしてコミュニケーションに使っていたら、そりゃぁコミュニケーショントラブル起きるでしょという話。


芸術の前提議論として、(狭義の)芸術自体が自然の模倣でしかないとか、哲学的な議論はあると思うがその話はまた別の機会に考える。
僕はしばらく、狭義の芸術じゃない芸術(人の介在しない芸術領域)について色々考えたいなと思った。


参考文献
https://www.rs.tus.ac.jp/makita/stellung/stell_phi_kunst_j.html
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/427954/090400006/

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