皆月蒼葉 2021/08/14 02:34

そもそもタイトルが意味分からんが――「三光インテック事件」についての解説各論①

 そもそも法律に詳しい人間でなければ「中労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」というタイトルの意味から分からない可能性ありますよね。というか実際にそういう感想を見た。まあそれはそう。何の暗号なんだ、ともなろうものですよ。本文中にも似たようなものが出てくるので、一応ここで解説しておきます。分からなくても通読には何の影響もないです!

 さて、あのよく分からん文字の羅列。あれは裁判の判決だとかを表すための書式なんですよ。裁判って、めちゃくちゃ有名な事件であれば「たぬき・むじな事件判決」とか「ゴナ事件判決」みたいな名前がつけられることもあるんですけど、普通はそんな名前はつきません。せいぜいが「東京高裁昭和61年(ネ)第814号」みたいなすこぶる分かりづらい事件番号や、「出版等差止請求控訴事件」みたいなフワッとした事件名しかないんですよ。

 なので、特定の判決について言及したいときは、その判決が出された日で言い表すというルールが存在します。例えば先ほどの「東京高裁昭和61年(ネ)第814号出版等差止請求事件」は、1986年2月26日に判決が出されています。この場合は、「東京高判昭和61年2月26日」と表記します。最初の3文字は「東京高等裁判所で出された」という意味で、次の「判」は判決を意味します。裁判所は判決以外にも「決定」なるものを出す場合もあるので、その場合は「東京高決」となります。あとは判決日ですね。なんか知らんけど和暦で書くルールになってます。判決日については「昭61.2.26」のように略記することも多いです。

 ちなみに、例えば大阪地方裁判所で出された判決は「大阪地判」で始まりますし、名古屋地方裁判所岡崎支部で出された判決は「名古屋地岡崎支判」で始まります。最高裁判所で出された判決だけは少し特殊で、どの部屋で出された判決かまで表記することがあります。その場合、大法廷で出された判決は「最大判」、第三小法廷で出された判決は「最三小判」で始まります。ただ、そこまでこだわらずに「最判」とだけ書くこともあります。また、地裁や高裁は戦前からありましたが、最高裁は戦前にはなく、代わりに大審院という機関がありました。大審院の判決は「大判」、大審院連合部(最高裁大法廷と同じようなもの)での判決は「大連判」で始まります。

 このルールは裁判所での判決や決定だけに留まりません。例えば公正取引委員会が出す「命令」や、特許庁が出す「審決」、国税不服審判所が出す「裁決」などの準司法手続もすべて同じ。ただし、裁判所の判決は「判」と略記されていたのに対し、命令は「命令」、審決は「審決」と、省略はせずに表記するようです。なので、「公取委命令」や「特許庁審決」、「国税不服審判所裁決」といった感じですね。

 今回の小説は、令和36年10月16日に出された中央労働委員会の命令です。この場合、「中労委命令」とかで始まりそうなものですが、なぜか労働委員会の命令については「命令」とまでは書かないことが多いみたいです。なので、「中労委令36.10.16」となります。

 続いて事件名です。先ほど、よほど有名な裁判でもない限り分かりやすい事件名はつかないと書きましたが、実はこれには例外があって、労働関係の裁判はほぼ確実に事件名がつきます。理由はよく分からないんですが、十中八九会社名が事件名となるようです。例えば男性社員の過労自殺について会社に責任があるとされた「電通事件」とか、内部通報したことを理由に左遷したことが違法とされた「オリンパス事件」など。今回の小説は三光インテックという架空の会社が一方の当事者なので、「三光インテック事件」となるわけですね。

 さて、最後の「判レビ1357.82」で戸惑った人が割といたようです。これはどの判例雑誌に載っている判決かを示すための表記なんです。判決文は普通は裁判所まで行かないと読めないんですが、それをわざわざ取り寄せて掲載してくれる雑誌がいくつかあって、それらを「判例雑誌」と呼びます。有名なものだと『判例時報』や『判例タイムズ』、特定分野に的を絞ったものとして『金融商事判例』や『労働判例』などがあります。また、こうした雑誌は民間企業が出版している非公式なものですが、それとは別に裁判所が発行しているオフィシャルな判例集もあります。『最高裁判所民事判例集』や『最高裁判所刑事判例集』などです。こうした判例雑誌や判例集は、略称で記載されることがほとんどです。『判例時報』なら「判時」、『判例タイムズ』は「判タ」または「判タイ」、『金融商事判例』は「金判」、『労働判例』は「労判」。『最高裁判所民事判例集』『最高裁判所刑事判例集』はそれぞれ「民集」「刑集」と略します。

 で、最後の数字は、何号の何ページにその判決が掲載されているかです。判例雑誌は「○○年○月号」といった名前で出されていることも多いですが、その表記は原則使わず、通算号(巻がある場合は巻号)で記載します。ここは他の分野の学術雑誌でも同じですよね。今回の小説は『判例レビュー』という架空の判例雑誌の1357号82ページに載った命令という体裁なので、『判例レビュー』を略して「判レビ」、そのあとに「1357.82」となるわけです。

 いや、「判例レビューって雑誌の1357号82ページに載った、三光インテック事件についての中央労働委員会の令和36年10月16日付の命令って意味だよ」で済むことに何行費やしとるねん。

参考

たぬき・むじな事件(大判大14.6.9):栃木県の猟師であるAさんが、ムジナ(タヌキの別名)2匹を洞窟に追い込んで狩猟したところ、この行為がタヌキの狩猟を禁じる狩猟法に違反しているとして、逮捕されてしまった事件です。Aさんは狩猟法でタヌキの狩猟が禁止されていることは知っていましたが、ムジナはタヌキとは別の生物だと思い込んでいたのです。大審院は、タヌキとムジナが同じ動物だということは広く国民に知れ渡っている事実ではなく、むしろAさん同様に別の生物だと思い込んでいる人も少なくない以上、罪を○す意志はAさんにはなかったとして、Aさんに無罪を言い渡しました。「○○することは禁止」という法律を知らずに○○しても罪は罪ですが(違法性の錯誤)、××も○○に含まれるという事実を知らずに××した場合、罪とはならない(事実の錯誤)という概念の代表的な判例です。変な名前の事件の代表格ですが、刑法ではハチャメチャに有名な重要判例なんですよ。

ゴナ事件(最一小判平12.9.7):写植機メーカーである写研は、1975年に極太モダンゴシック体「ゴナ」を発売しました。その後、ライバル会社のモリサワが1990年に「新ゴシック体」を発売しましたが、これがゴナと酷似したデザインであったため、写研がモリサワを著作権侵害で訴えたところ、モリサワも負けじと「ゴナこそモリサワのツデイという書体の著作権を侵害している」と写研を訴え返した事件です。しかし、最高裁は、そもそも書体はよほどの独創性を持ち、かつ文字自体が美術鑑賞できるレベルの美的特性を持たない限り著作物にならないとして、両者の訴えを退けました。やすやすと書体に著作権を認めてしまうと、小説や論文を出版する時にいちいち書体制作者の許諾を得なければならなくなるなど問題が多い、というのがその理由だと最高裁は述べています。ちなみに、書体の著作権を争う裁判はその後もしばしば起こされていますが(最近だと東京地判平31.2.28判時2429.66)、裁判所は概ねこの判例を引用して著作物性を否定しています。

東京高判昭61.2.26:いわゆる「太陽風交点事件」。SF作家である堀晃が、短編集『太陽風交点』の単行本を早川書房から出版した2年後に、徳間書店との間で同書の文庫版を出版する契約を結んだところ、早川書房が文庫判出版の差し止めを求めた事件です。早川書房は、出版業界の慣例として、文庫判の出版までは単行本の出版社が出版権や出版許諾権を持つと主張していましたが、一審の東京地裁は、早川書房と堀晃との契約は口約束でしかなく、出版権について明示的な文書は交わされていないと指摘して、早川書房の訴えを退けました。二審の東京高裁も、地裁判決に加えて、そもそも早川書房が主張するような慣例自体あるという証拠がないとして、同じく早川書房の訴えを退けています。契約はちゃんと書面で交わそうね、という話なんですが、ツイッターとかを見ていると、出版業界ではいまだに書面を交わさない契約も横行しているようですね。怖いですね。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索