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【無料公開】白昼夢の青写真 CASEー0原作小説『世界と呼ばれた少女』2

 家のドアを開けて、まずは僕が家の中に入った。
「……ただいま」
「おかえり」
 お母さんがベッドに横になったまま僕の方を振り向いたあと、世凪が家の中をのぞきこんだ。
「こんにちは!」
「……こんにち、は?」
 お母さんは目を丸くして世凪と僕を交互に見つめた。
「世凪っていいます!」
「……あぁ!!」
 お母さんが大きな声を出して、世凪が目を丸くした。
「あなたが、世凪ちゃん」
「はい! こんにちは! あっ……、こんばんは!」
 世凪が少し早口にそう言った。お母さんは楽しそうに吹き出した。
「こんばんは」
「おじゃましていいですかっ」
「もちろんっ! おばさんも世凪ちゃんとお話してみたかったの」
 世凪は僕の方に、キョトンとした顔を向けた。

 下層の土を掘って開けた大きな穴に、ぼこぼこしたトタンを張り付けた部屋。それが僕とお母さんの住んでいる家だ。ベッドと食卓、キッチンと洗面台しかない。窓の外にはトウモロコシ畑がひろがり、その向こうに反対側の土壁が見える。あそこにも僕たちと同じように土の家の中で生活している下層民がいる。
 僕と世凪はお母さんのベッド脇に並んだ。お母さんはまじまじと世凪を見つめた。
「うんっ」
 お母さんがうなずいた。世凪が救いを求めるように僕を見つめた。
「世凪ちゃん、とっても可愛い子だね。海斗の言ってたとおり」
 目を伏せていた僕は勢いよく顔をあげた。世凪がにんまりとした笑顔を僕に向けていた。
「そんなこと言ってないでしょ!」
「あれ、そうだっけ」
 お母さんがわざとらしく首をかしげる。
「言ってない!」
「でも、お母さんには伝わってたけど」
「嘘だよ!」
 世凪とお母さんが一緒になって笑った。
「この前から、海斗は世凪ちゃんの話ばっかりで」
「お母さん!」
 僕はお母さんの声に重ねるように叫んだ。
「……そんなことないよ……ないでしょ……!」
 お母さんが笑いながらまた口を開いた。
 僕は昨日まで学校に行ったことがなかった。下層民は毎日中層に行って労働をしないといけない。でもお母さんは立つことができない。先月、左肩も動かなくなり、昨日、左手の全てが動かなくなった。お母さんの体は段々動かなくなっている。左手が動かなくなったのは、僕が学校に行くと伝えてすぐのことだった。
 だから僕はお母さんの分も働いた。下層の子供たちが学校に行っている時間も中層の共有部で労働した。
 上層民のシャチは僕を見つけると、サボる親から生まれた子供は学校をサボるんだと笑いながら僕の頭をぶった。それを止めてくれたのが世凪だった。「下層民は、それが役割だから働いてるんだよ。上層民が下層民より偉いわけじゃないんだよ。あなたの親は、そんなことも教えてくれなかったの?」世凪は表情を消して、自分よりも背が高く体の分厚いシャチにそう言った。じわじわにじりよってシャチを黙らせ、シャチはすごすごと去っていった。それが、僕と世凪の出会った日のできごとだった。
 僕はクルマの壊れてしまった姿を思い出した。走り出したクルマがシャチの足下に当たったときの寒気をまた感じ、僕のクルマを高々と掲げそれを地面に叩きつけたシャチの姿と、そのときの悲しさが心に浮かんだ。
「……海斗」
 世凪は自分の鞄の中から走らなくなったクルマ取り出して僕に差し出した。僕はクルマを受け取り、その手元のクルマをうつむいたまま見つめた。
「それは……海斗が作ってた……クルマ?」
 お母さんの声が聞こえた。僕は黙ったままうつむいていた。
「お母さんに見せてくれるの?」
 僕はなにも言葉を返せなかった。かわりに世凪がお母さんを見上げて口を開いた。
「海斗のママ……、あのね。海斗の車、動いたんだけどね、壊れちゃったんだよ」
 僕はうつむいたままお母さんの顔を盗み見た。
 お母さんは僕のことを静かに見下ろしていた。僕はその視線から逃れるようにうつむいた。また僕の目から涙が溢れた。僕は声を振り絞った。
「……お母さんに見せてあげる前に、壊されちゃったんだ」
「壊された……?」
 涙だけが流れ続けた。足元に落ちた雫のあとを、僕はぼんやりと見つめていた。
「……そうだったんだね。学校で?」
 お母さんは穏やかに言った。僕はうなずいた。
「走ってる姿、見せたかったんだ……」
 僕がそうつぶやいてしばらく沈黙が続いた。
「……あのね」
 世凪の声がした。僕は顔をあげた。世凪がもじもじと、てなぐさみをしていた。
「海斗と、海斗のママ。……秘密、守ってくれる?」
 僕は世凪を見つめた。世凪の真剣な眼差しが、僕に注がれていた。僕はお母さんを見上げた。僕とお母さんの目があった。お母さんはベッドの木のフレームに背中をあずけたまま不思議そうな顔をしていた。きっと僕も同じだ。でも、僕たちはうなずいた。
「守るよ。ね、お母さん」
「うん」
 僕たちがそう言うと世凪はなにかを決心したようにうなずき、両手を差し出した。
「……じゃあ、手を出して」
 僕たちは手を出した。世凪は僕の左手とお母さんの右手を握った。
「二人も、手を繋いで」
 僕はお母さんの動かなくなった左手を握った。僕たち三人の中に小さな輪がうまれた。
「目、つむってね」
 お母さんと目を見合わせてから、僕たちは目を閉じた。
「……驚かないでね」
 世凪のその静かな言葉がゆっくり、体の内側までしみこむように届いたとき――屋上を走っているクルマの映像が見えていた。
「え――」
 クルマが走っていた。何日もゴミ捨て場に通い、上層民のゴミをかき集めて作ったやっと完成させたあのクルマだ。
 学校の屋上の滑らかな床をまっすぐ走る車。それはさっき僕の見た光景に似ていた。だが視点が違う。クルマを中心に映像の輪郭はどんどん鮮明になっていく。
 僕もそこにいた。笑っている。嬉しそうに飛び跳ねてクルマを追いかけていた。
「これだ……これだよっ……中層のモニターでみたのと同じだ!」
 映像の中の僕が喋っている。
「海斗うれしそう。学校きてよかったでしょ、海斗」
 世凪の声も聞こえた。
「うんっ!」
 僕がクルマを追いかけていく。
 そこで、その映像は終わった。
 視界が真っ白になり、朝目覚めるのと似た感覚を通り過ぎて、またいつもの部屋に戻ってきた。鮮明な夢を見ているような感覚だった。
「今の……、なに?」
 お母さんも目を丸くして世凪にたずねた。
「……わたしがさっき見た記憶みたいな、もの?」
 世凪がたどたどしく言った。
 僕も、お母さんも、なにも言えずにいた。初めての体験だった。力の抜けた口を、ただ開けていることしかできなかった。
「気付いたときには、わたし、これ、できて……。でも、怖がる人もいるから、やめなさいって、言われてて……」
「……誰に?」
 お母さんが世凪に聞いた。
「お父さん」
 もうこの世にはいない世凪のお父さん。世凪の名前を付けてくれた人だと言っていた。
「だから、秘密にしておきたくて……」
 もじもじと両手の指を絡ませながら、世凪はうつむいた。
「……すごい」
 僕がそう言うと、お母さんもうなずいた。
 世凪が顔をあげた。
「すごいよ! どういう仕組みなの?」
「え、シクミ? それはわたしにもわからないけど……」
「怖くなんてなかったよ、とっても素敵な力!」
 お母さんが世凪にそう言った。世凪は茫然とお母さんを見上げていた。
「ありがとうね、世凪ちゃん。おばさんにも喜んでる海斗の姿が見えた。……あのね。……すっごく嬉しかった!」
「いや、見て欲しいのはクルマで――」
 僕はそこで言葉を止めた。
 お母さんの目に、涙が浮かんでいたからだ。その涙はお母さんの瞳に膨らんで頬を流れていった。僕はその涙をぼんやり見つめた。
「……すっごく、嬉しかったよ、世凪ちゃん。ありがとね」
 お母さんは、まだ動くほうの手で世凪の両手を掴んでそう言った。
 世凪はきょとんとされるがままになっていたが、だんだんとその頬が紅くなり、世凪の目にも涙が浮かんだ。
 たぶん、お母さんのと同じ種類の涙だと、僕は思った。
 こくん、こくんと、世凪はうなずいていた。照れくさそうに笑ってからぐいと涙を拭い、世凪は僕とお母さんにいつもの満面の笑みを見せた。
「……喜んでもらえて、よかった! どういたしまして!」

 それからすぐに窓の外が暗くなった。
「世凪もご飯食べてく?」
 僕がそう言うと世凪の背筋がピンと伸びた。
「え、いいの?」
「うん、今日は――」
 そこで僕は、はたと思い出した。思わず僕は叫んだ。世凪がびくりと跳ね上がり、僕をじっと見つめている。僕は世凪の目を見つめ返しながらつぶやいた。
「配給……もらってない……、午後の労働も、いってない……」
 世凪がため息をついた。
「そうだよー? 海斗がずっと学校で車なおしてるからじゃん」
「どうしよう……」
「なにがあるの? あるものでつくろうよ。海斗のママ、台所、わたしも使っていい?」
 世凪がキッチンに向かいながらそう言うと、お母さんは世凪に笑顔を返した。
「もちろん。いつも海斗が作ってくれてるから、手伝ってあげて」
 世凪はキッチンの戸棚にある缶詰の保存食を吟味して、タコスという食べ物を作ってくれた。地上時代の食べ物らしい。三人で食事をして後片付けをすませ、世凪は帰り支度をした。
「世凪ちゃん、絶対またきてね。今度は今日のお礼に、おばさんが絵本読んであげる」
 世凪の目が輝いた。
「いつきていい!?」
「いつでも。おばさんずっとここにいるから」
「明日!?」
 世凪がそう言うとお母さんは笑った。
「もちろん、いいよ」
「やった!」
 喜ぶ世凪をお母さんは微笑んで見つめていた。

 僕は世凪と一緒に家の外に出た。
「本当に一人で大丈夫なの?」
「大丈夫! 月も見えてて明るいし!」
 世凪はそう言ってオゾンレンズを見上げた。丸い大きなレンズの中に小さな月が浮かんでいた。
「……今日は、ありがとう」
 顔をおろして、僕はそう言った。
「うん……?」
 世凪が僕を見つめながら首をかしげた。
「世凪がいてくれて、本当によかった。……ありがとう」
「いいんだよ、友達だもん!」
 世凪は楽しそうにそう言った。僕はうなずいた。世凪と友達になってよかった、そう思った。
「ねぇ、海斗」
 世凪が静かに言った。
「うん?」
「海斗のママ、ちょう素敵だった!」
「……うん」
 僕は力強くうなずいた。
「そうでしょ」
「海斗、わたしも、さ……」
 世凪はうつむいて、自分の手元に目を落としていた。
「わたしもママって呼んだら、怒る?」
「……」
 世凪が僕を上目遣いに見つめ、また目を伏せた。僕は微笑みながら首を振った。
「世凪なら、いいよ」
 世凪が勢いよく顔をあげる。
「お母さんも喜ぶと思う」
 そう言うと、世凪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ……、ママにもよろしく! また明日って」
「うん」
 世凪は手を振りトウモロコシ畑をかけていった。背の高いトウモロコシの合間をひょこひょこと走る世凪の背中を、僕は見えなくなるまで見送った。

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【無料公開】白昼夢の青写真 CASEー0原作小説『世界と呼ばれた少女』1



   プロローグ



 地下五〇〇メートルに作られた新宿の街に人の気配はない。乾いた土の道を歩いた。視線を上げていく。下層の中心にある円形のトウモロコシ畑、中層に立ち並ぶ小綺麗なコンクリートビル、上層の広々とした住宅街。何度も見上げた街並が視界に入ってきた。
 この街は様変わりした。住人の八割以上が生体保存カプセルで眠っている。だがオゾンレンズ越しの太陽だけは変わらなかった。子供のころから変わらない景色。丸い空にきらめく太陽。土埃がまいトウモロコシが揺れる音。五感に集中しながら私は下層を歩いた。[出雲/いずも]は私の少し後ろを静かについてきていた。いつものように無表情のまま、よく晴れた空のように澄んだ青い瞳をまっすぐ前に向けている。彼女の髪の毛も瞳と同じように青い。
「記憶を失った私はこの街を見てどう思うだろう。きっと地下に街があることには驚かないだろうな。出雲がアンドロイドだと知っても、私の経験記憶と照らし合わされて納得できると思う」
「そうですか」
「静かな街になった」
「そうですね」
「中層・上層の九五%、下層の七○%の人たちが仮想空間に移住済みだった。彼らは今、中層と上層の間で寝ている。ただ寝ている。夢も見ずに」
 空っぽになった下層の街を眺める。労働を終えた下層民の憩いの場だった市場。[世凪/よなぎ]と何度この場所を歩いただろう。
 無垢だった子供のときも――
 野心に燃えていた青年のときも――
 自分の役割に邁進し大人の入り口に差し掛かったときも――
 私たちはこの街の乾いた地面を踏みしめて歩き続けた。その一日一日を思い返す。忘却障害を患った私の完全な記憶が次から次へと蘇ってきた。この記憶も数時間後には全て忘れ去ることになる。
「海斗」
 出雲が立ち止まって私を呼んだ。私は振り返って出雲と向かい合った。
「今の世凪の脳にはβアミロイドが蓄積しています。気付いていたはず」
「あぁ」
 たとえ自我を回復させても世凪の記憶はすぐに崩壊していく、それが容易に予想できると出雲は言っている。
「世凪の自我が回復したとして、世凪はその日に海斗のことを忘れてしまうかもしれない。それでも、行動は変わらないんですか」
「どうしてそんなことを聞く」
「労力をかけて、同じ結果に辿り着く可能性が極めて高いからです」
 出雲を見つめたまま私は小さく笑った。
「出雲は、どうしてそれを今日まで黙っていたんだ?」
 出雲は口を閉じて黙っている。なにも答えない出雲に私はもう一度問いかけた。
「何故、今になって話す気になった?」
「わかりません」
「世凪に聞かせたくないと思ったんじゃないか」
 出雲は困っているように見えた。私の勘違いかもしれない。
「出雲はあの状態の世凪を世凪だと認識して、彼女を傷付けることを避けたんだ。世凪が出雲を家族だと思ったのと同じように。記憶がなくても自我がなくても、出雲は今の世凪を世凪だと思ってくれたんだろう」
「……わかりません」
「この計画がうまくいったあとで世凪がまたすぐに自我を失うとしても、もう一度世凪におかえりと言える。それだけでも充分価値があると思わないか」
「思います」
 出雲はすぐにそうこたえた。私はしばらく出雲を見つめた。出雲は下層の街並みを見つめていた。
「わたしも、もう一度世凪に会いたい。そう思っています」
「あぁ」
「うまくいきます。海斗の計画は」
「頼もしい限りだ」
「必ず完遂させます。そして、世凪におかえりなさいと言う」
 出雲は私を見上げた。瞳と同じ色の髪の毛が肩の上で揺れていた。
「……世凪が、眠りました」
 いつもの無機質な声で、出雲がそう言った。私は下層の街を眺めたままうなずいた。
「全てがうまくいったら、またここで会おう、出雲」
「わかりました。待ってます」

 そして私は自分の記憶を全て奪い去り、眠りについた。



   少年期



 日が暮れた。僕の影は色濃くなり、オゾンレンズ越しの丸い空は朱く染まっていた。
 僕は泣いていた。何時間も泣き続けながら、バラバラになった小さなクルマを修理していた。上層民の捨てた電動歯ブラシからとったモーターを動力にして少しずつ組み立てたクルマはバラバラになっている。もう自分がなんの部品を手に持っていて、なんの作業をしているのかわからなくなっていた。
 わかったこともいくつかある。
 モーターから車輪に回転を伝える歯車にはものすごく強い力がかかっていて、強度が必要なこと。
 だから、一度割れると新しいのに交換するしかないということ。
 でも、下層民の僕は新しい部品をもう手に入れられないということ。
 つまり、今の僕には、このクルマを直せないということ。
 長い時間泣いて気付いたこともある。
 泣き続けると、喉と頭が痛くなるということ。
 どんなに堪えようとしても、声は漏れてしまうということ。
 涙はなかなか枯れないということ。
「海斗……」
 世凪が小さな声で僕を呼んだ。
「もう、いこ……。帰ろうよ……。海斗のママも、心配してると思うよ……」
 嗚咽が漏れた。喉の根元から直接漏れ出ているような音だった。世凪の静かな呼吸が聞こえる。
「見せたかったんだ」
「え?」
「お母さんは、中層のモニターを、見にいけないから……」
 息が続かない。喉と頭が痛かった。
「うん……」
「走ってるクルマは……、かっこういいからっ……。見せてっ、あげたかったから……つくった……」
 また涙が地面に落ちた。コンクリートの地面にしみができた。僕は目を拭った。
「作ったのに……。走ったのに……」
「……うん」
「なのに……今の僕には、もう……」
 僕は目を強く閉じた。
「直せないんだ……」
 袖はもうびっしょりと濡れていた。
 世凪が僕の隣にきて足元のクルマを見下ろした。紺色のスカートが僕の視界の隅で揺らめいている。
「もう、動かないの?」
 僕はゆっくりうなずいた。
 世凪はしゃがみこんで壊れたクルマに手を伸ばした。世凪の肌は僕の肌よりも繊細に見えた。音もなくクルマをひろいあげた世凪は僕の顔を覗きこむようにして優しく微笑んだ。真っ白な髪を左右に結んだ世凪の顔が目の前にあった。こんなに近くで女の子の顔を見るのは初めてだった。世凪はクルマを持っていない方の手を僕の手に重ねて、そっと握った。
「帰ろ。……歩ける?」
 僕はうなずいた。
 
 世凪はずっと僕の手を握ってくれていた。
 僕は涙を拭きながら、世凪の少し後ろを歩いた。
「トウモロコシ、すごいね」
「……うん」
 エレベーターで下層に降りて、いつもの道を歩いた。地下をくりぬいて作った新宿の街。その底に円状に広がるトウモロコシ畑。下層の住宅はむきだしの外壁に埋め込まれるようにぎゅうぎゅうに敷き詰められている。いつもと同じあぜ道を通って、僕たちは下層の街に向かった。鼻をすすると粉塵が喉に入ってきて、僕は何度か咳き込んだ。
「海斗の家、こっち?」
「うん……」

 世凪の手は最初ひんやりと冷えていたが今はあたたかい。やわらかいてのひらが、僕の手をしっかり握っていた。
「海斗ならね――」
 前を向いたまま、世凪が言った。
「きっといつか、もっとすごいもの、作れるよ」
「……もっとすごいもの?」
「うん。なにか人を笑顔にするようなもの、海斗になら、絶対作れる!」
「……そうかな」
「遊馬先生に頼んでこれからは学校の工作室で、材料も揃えられる! 上層民のゴミなんかもう必要ないんだよ。変な言いがかり付けられるのは、今日でおしまいにしよ」
「……うん……」
「だから……、泣き止んで。海斗」
 世凪は消え入りそうな声でそう言った。
 僕はまた立ち止まってしまった。
 世凪の声には不安が滲んでいた。僕は世凪を不安にさせてしまったんだ。もう僕には自分の感情が、よくわからなくなってしまった。
 立ち止まって俯くと、クルマを壊された瞬間の光景が浮かんだ。
 上層民のシャチが僕を憎々しげに睨んだ目が浮かんだ。下層民のくせにうちのもの勝手に壊したんだな。シャチはそう怒鳴った。
 どうして僕は、こうもはっきりと過去のことを思い出してしまうんだろう。
 忘れよう忘れようと意識すればするほど、地面に叩きつけられたクルマが散らばる瞬間が脳裏に浮かび、そのときの感情が僕の胸の内を満たしていった。
「……海斗」
 うつむいたままみっともない声で泣きじゃくる僕に、世凪が近づいてくるのがわかった。
 僕の視線の先に世凪のつま先があった。背伸びをするようにゆっくりとかかとが浮いていき、僕の額にやわらかいなにかがあたった。そのあとにあたたかさを感じた。世凪のてのひらと同じあたたかさだった。
 世凪の香りが僕を包んだ。
 お母さんとは違う種類の、やさしいにおいだった。
 僕の心の中は世凪でいっぱいになった。世凪の唇を額に感じながら、僕の心を覆い尽くしていた悲しい気持ちがおいやられ、穏やかな気持ちが満ちていく。
 世凪はゆっくり離れていって、僕をまっすぐ見つめた。
「……泣き止んだ」
 僕はその姿を茫然と見つめた。世凪の前髪が風に揺れていた。真っ赤な瞳は幸せそうに細められている。この子となら友達になれるかもしれない、初めて会ったときにそう思わせてくれたあの笑顔を、世凪は今も浮かべていた。今日はあの日より、頬が少しだけ朱く染まっている。
 きっと、僕も同じようになっているんだろうと思った。頬が熱かったからだ。
 世凪は僕の手をとってもう一度歩き出した。オゾンレンズ越しの空の端が紺色に変わってきている。前を向くとトウモロコシ畑の途切れたところに、僕の家が見えてきていた。
「あ……」
「あれが海斗のおうち?」
「うん」
「わたしも一緒にいっていい?」
 世凪は歩きながら僕を振り返った。僕は黙ったままうなずいた。

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【無料公開】隔日連載小説α版『四五アフター・四五編』3

 地下ドームの光源はいまだに蝋燭の光だった。天井に四つ取り付けられ燭台で揺らめく光が半球状の内部を照らし出している。即席のタイムマシンは設置されたままになっていた。天井に乱雑に張り巡らされているビニール線と鏡。見た目からはこれが時間跳躍を可能にする装置とは判断できない。地質調査のためのものだと言われれば、そう見えないこともない。
「お二人もテンブリッジ大学の学生ですかっ? お若いですよねっ、留学生? アジアの人ですよねっ」
「いえ、この大学の学生ではありません。籍は日本の学校にありますが、調査でテンブリッジ大学にきています」四五が淡々とこたえた。
「あぁ、そうだったんですか」
 女性は目を丸くしてうなずいた。おれは二人を傍目に見ながらビニール線と鏡を回収していった。断線しないようにまとめてスーツケースに押し込め、蓋を閉める。四五に目配せを送る。
「では、わたしたちはこれで」
「はいっ、お疲れさまでしたっ」
 四五が先に地上に出る。下からスーツケースを手渡し、おれも地上に出た。そのあと女性も梯子をのぼってきた。この短い時間でも、この地下ドームから上がってくると地上の開放感を覚える。
「いいデータがとれてるといいですねっ、地質調査」
「え? あぁ、そうですね」我ながら気の抜けた声でこたえた。
「せっかくテンブリッジまできたんですからねっ」
「そう、そうですよ。なにか成果が出るといいよな、四五」
「そうですね。成果を出さないと、帰ることもできないですからね、わたしたちは」
 四五は遠い目をしながらそう言った。
「おぉっ、厳しい国からいらっしゃったんですね」
「いや、今はそうでもない……と思うんですけどね」
 いや、実際今の日本はどういう状況になっているのだろうか。おれたちの知っているのほほんと平和ボケした国のままなのだろうか。女性はにんまりと微笑んだままおれと四五を交互に見ていた。
「じゃあ、おれたちはこれで」
「はいっ、お気をつけて」
 スーツケースを持ち上げて小丘を降りていく。何度か振り返った。あの女性はずっと同じ場所から、同じ姿勢でおれたちの方を見つめていた。
「あの人、また地下に戻るのかな」
 四五に顔を寄せて小声で言った。
「どうだろう……。さっき見た限りでは、あの人のいう科学史の違和感の手がかりはなさそうだったけど。……このタイムマシン以外は」
 おれは手元のスーツケースを見下ろした。
「間一髪だったな……」
「まだ安心はできないよ。わたしたち、行く当てがないんだから」
 街のほうにつながる第三ブリッジに向かって歩きながら、どこに向かおうか考えた。丘が見えなくなる前にもう一度振り返ると、タートルネックセーターの女性はまだこっちを見ていた。
「まだ見てるぞ……」
「立ち止まらない方がいいね。一旦街の方に出よう」

 橋の石畳にスーツケースをおろし、取っ手を引き延ばした。もう誰の視線もない。おれたちは立ち止まって向かい合った。第三ブリッジから直接繋がっている裏門の左右には橙色の電灯がついている。蝋燭の火のように揺らめくことのない直線的な光が、うすぼんやりとした夜の中に四五の姿を照らし出している。四五はおれを見上げたままゆっくりとまばたきをしていた。
「アリスたちが寮にいるわけもないし、名簿を勝手に書き換えてくれたラビももういない」
「さすがに電子管理でしょう、この世界は」
「確かに……。いや、ラビなら電子管理でも平気で改竄しそうではあるが」
 四五が笑った。白い息が四五の口から漏れた。
「というか、そもそも迷うほどの選択肢がないな、おれたちには」
 四五がうなずく。

 カサブランカの前に立つと、中から賑やかな笑い声が漏れ聞こえてきた。懐かしさを感じ、自然と微笑みが浮かんだ。この扉を開けば、いつものように修一郎が飲んだくれていてイルザさんが呆れているんじゃないだろうか。だがその思い出は、今から三五九年も昔の光景だ。二人はもうこの世界にはいない。今カサブランカに立っているのは、二人の血を引く子孫だ。バックパックのベルトを肩に掛け直すと、中に入っている木箱が音を立てた。修一郎がおれたちに遺していた、三世紀の時を超えたタイムカプセルだ。修一郎はこの世界にもおれたちに微かなつながりを遺してくれた。四五がおれを見上げていた。四五の口元にも笑みが浮かんでいた。おれたちは小さくうなずきあって、カサブランカのドアを開けた。
「……あれ」
 カウンターの内側に立っている若い女店主がおれたちに目を留めた。どうも、とおれたちはその視線に会釈を返す。女店主はカウンターから出てきてくれた。
「昼間の二人! きてくれたんだね。うれしいな。ゆっくりしていってよ。カウンター空いてるから、座って座って」
 導かれるままおれと四五はカウンター席に並んで座った。
「なに呑む? ビール、ワイン、ウィスキー、ラムにジンにウォッカ。定番の銘柄だったらなんでもあるよ」
「お酒が増えてる……」
 四五が感心したように呟いた。確かに、あのときは店にいる全員が同じ種類の酒を延々と呑んでいた。ビールに近い見た目だったが、あのメニューはさすがにないんだろう。
「あの、実はおれたち……」
 店主が首をかしげる。
「あ、お酒弱いの? コーラにする?」
「コーラもあるんだ……」
 また四五がつぶやいた。
「いや、実は……。おれたち、お金がなくて……」
 店主は不思議そうに首をかしげた。
「お財布を、なくしてしまったんです」
 四五がそう言うと、店主が目を見開いた。
「えっ、二人、日本から来てるんでしょ? 大丈夫なの? パスポートは?」
 四五と顔を合わせる。どうやらこの世界にもパスポートはあるようだ。
「まるっと、手元になくて」
 とうとう店主の目はまん丸になった。
「呑んでる場合じゃないじゃんっ! 大使館いきなよっ! 日本大使館て――」
「ロンドンだな。歩いてはいけねぇぞ」
 隣に座っていた男性客がそう言った。立派なもみあげとあごひげが繋がっている、よく日焼けした初老の男性だった。髭も髪の毛も全て白髪で、顔の下半分はけむくじゃらなのに頭頂部はつるりと禿げ上がっている。男性ホルモンが豊富なのかもしれない。
「金がなきゃ車にも電車にも乗れねぇだろ」
「そうだ、そりゃそうだわ」
 男性客と店主が話しているのを四五と並んで眺めた。店主の慣れた態度から察するに、男性客は常連のように思えた。二人は過去に同じようにテンブリッジでパスポートをなくした観光客が結局どういう対応をとったのか記憶を辿っていた。
「あの、実はわたしたち、テンブリッジ大学に留学にきた学生で」
 四五が店主と常連の会話を遮って言った。
「――たぶん、大学に忘れてしまったんです。パスポートとか、お金が入った、鞄を。ですよね?」
 四五がおれに視線を送ってきた。
「そう、そうなんです。たぶん、大学に忘れちゃって。だからまだ、逆にロンドンに行けないというか、なるべく大使館には行かずに済ませたいというか」
「まぁ、あんなことにいきゃあ面倒なことになるのは間違いないもんな。いや、もうなってるのか」
 そう言っても常連は大口を開けて笑いながら大きなコップをあおって、大きなゲップをした。
「それで――まだテンブリッジにきたばっかりで、他にあてもないから――」
 遠慮がちに言ったおれの言葉に、店主がうなずく。
「この店にきてくれたって訳ね」
「ははっ、都合のいい一見客もいたんだ。おいクレア、おかわりだ」
「意地悪言わないの。この二人はわたしの遠い親戚……、かもしれないんだから」
「えっ、そうなのかっ!?……じゃあ昼間現れた鍵の持ち主ってのは――」
「この子たち。遠路はるばる来てくれた二人に悪態つくなっ。二人とも、ちょっとだけ待ってて。落ちついたら二階に案内してあげる」
 店主はそう言って、慌ただしく他の席のオーダーに対応し始めた。残された常連客はおれたちの方に体ごと向けた。腹が大分出っ張っていて、シャツのボタンは今にもはじけとびそうだった。
「そうかぁ、なるほど。そんなことあんだなぁ。いや、常連の間ではちょっとしたニュースになってんだよ、おまえたちが店にきたこと」
 常連客はそう言って、おれと四五のことをマジマジと眺めた。
「……本当にクレアと親戚なのか? 全然似てねぇけどな」
 おれと四五はまた目を見合わせた。そもそもおれも四五も、修一郎とは血のつながりはない。あったところで、三五九年も経てば薄まりきっているだろう。そう思ったが、とりあえず曖昧な笑みだけを返した。

「ごめんね。二人分の部屋を用意する余裕はなくてさ。同じ部屋でいい?」
「もちろんですっ、泊めて頂けるだけで、本当に」
 店主のクレアさんはおれたちを二階の部屋に案内してくれた。
「いいのいいのっ。この建物ごとわたしに任されてるし、それに二人は他人じゃないし。あの箱の鍵を持ってたってことは、そういうことでしょ? わたしももう少し話聞いておきたかったなって思ってたんだ」
 笑みを浮かべてうなずきながら、おれは内心、微かな焦りを感じた。おれたちがなぜこのテンブリッジと縁があるのか。このあと四五と考える必要がありそうだ。
「これが机、棚。あと、ベッドね。見ればわかるか。一人用だけど、仲良く寝てね」
「大丈夫です。一応、恋人同士なので」
 四五が抑揚のない声でそう言った。クレアさんは目を見開いてから楽しげに笑った。
「そうだったか! まぁ、そんな気はしてたけど。じゃあ問題はないね。トイレとシャワーは、部屋出て突き当たりを右。お湯が出るまで時間かかるから。わからないことあったら下に降りてきてくれればいいから」
「ありがとうございます。助かりました」
「いいっていいって。見つかるといいね、パスポート」
「ですね……」
 苦笑いを浮かべながらうなずく。
 クレアさんが出ていったあとで、おれたちは大きなため息をついた。
「なんか、こんな風に泊めてもらってばっかだな」
「状況は一六八七年にいっちゃったときとそんなにかわらないからね」
「また修一郎に救われたってわけだ……」
 おれはベッドに腰掛けて鞄から木箱をとりだした。四五もとなりに座り、俺の手元を覗きこんだ。蓋と側面に施された木彫りの装飾はなかなか凝っている。時代を考えれば間違いなく手彫りだし、素人の業ではないのがすぐにわかった。その中で、鍵穴は多少乱暴につけられたように見えた。
「もともとあった箱に、修一郎さんがあとから鍵をつけたのかもね」
「みたいだな」
 四五が首元のチョーカーをはずし、鍵穴に鍵を差し込んだ。金属音がして鍵が開く。蓋を開けた。茶色く変色した羊皮紙を取り出しす。三五九年の時を超えた修一郎の手紙だ。
「その箱、見ていい?」
「あぁ」
 四五に箱を手渡す。おれはもう一度修一郎の手紙に目を通した。日付は一六八九年の八月十九日付けになっている。あのあと修一郎は二年がかりでプリンキピアの原稿を書いたらしい。おれを逃がすために修一郎がフックに持ちかけた条件は、プリンキピアの完全原稿を譲渡することだった。修一郎は原稿に頭を悩ませるふりをしながら、執筆期間の二年間をそれなりに謳歌したらしい。イルザとの間には二人の子供がいると書いてある。それが、今日おれたちを助けてくれたクレアさんの遠い祖先だろう。修一郎は完成原稿をフックに渡しにいく最期の日に、おれへの激励の言葉を遺してくれた。
「必ず助けにいくからな、修一郎――」
 そう呟いて、隣の四五に目を向けた。四五は茫然と木箱を見つめていた。
「どうしたんだ、四五」
「……念の為、この箱の寸法と重さも計っておこうと思ったんだけど」
「念の為、ね……」
「内寸と外寸が全然合わない。それに――」
 四五は木箱を手に持って小さく揺らした。
「ウォールナットにしては、重い……」
「ウォールナットって?」
「木材」
「もくざい……」
 四五は木箱の蓋を開き、立ち上がって、部屋の電灯の下に立った。おれもそのあとに続いた。四五は光で手元を照らしながら、目を凝らして箱の内側を見つめた。
「……底が、あげてある……」
 四五はポケットからL字に曲がった細い針金を取り出した。女子のポケットからL字の細い針金が出てくる訳がない、なんていう世の常識は四五には通用しない。計測と観察に必要なものはなんであれ、四五のポケットから出てくるのだ。
 四五はその細い針金を、底板と側面の間に差し込んだ。かぽっと、底板の下に空気が入り込む音がして、その焦げ茶色の薄い板は外れた。中には革張りの本が入っていた。
「なんだ……?」
 四五はおれに箱を差し出した。手を伸ばしてその本の表紙に触れる。革は水分を失ってかさかさになっていた。本の下側に手を入れて箱から取り出す。表紙にも裏表紙にも、題字らしきものは書いてなかった。四五と顔を見合わせて、首をかしげる。固い表紙を開くと、1ページ目に見慣れた筆跡の文章が書いてあった。
「これって――」
 四五が呟いた。おれたちはその変色した本を食い入るように見つめていた。
「修一郎の、日記だ」

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【無料公開】隔日連載小説α版『四五アフター・四五編』2

 四五に顔を向けると目が合った。お互い訝しげな表情を浮かべている。
「これ、あなたたちのものですかーっ? なにか調べてたんですかーっ? なにを調べてたんですかーっ? やっぱり、なーにか変ですよねぇ?」
 地下ドームからタートルネックのセーターの女性が叫んだ。おれは地下ドームの鉄扉をもう一度閉めた。
「あっ、ちょっと――」
 中の声も聞こえなくなった。つまり、こちらの会話も聞こえないということだ。おれは鉄扉を押さえたまま、四五を見上げた。
「どうする?」
「テンブリッジの科学史がおかしいって、言ってた……?」
 四五が口元に指をあてながら呟いた。おれはうなずきを返した。
「……科学史に違和感も持っている人が、この林檎の丘で、一体なにを?……あの女性は、アリスさんの存在に感付いてるって、こと……?」
「さすがにそれはないだろう。そもそもアイザック・ニュートンだって有名じゃないんだよな、今の世界では」
 四五は黙ったままなにかを考えていた。手元の鉄扉から鈍い音がして抑えている手に振動を感じた。中からこの扉を叩いているようだ。だが声は聞こえない。なかなかの防音性能だ。
「四五っ、とにかく方針だけ決めよう。あの装置はおれたちのだって伝えていいよなッ?」
 鉄扉に隙間が開いた。反対側から押し返されている。両手に体重を乗せると鉄扉はまたぴたりと閉まった。どんどんと分厚い扉が叩かれる。
「一応二択ある。白状するか、あの人を気絶させるか」
「そんな技術あるかよっ! 生粋のインドア派なんだおれはっ!」
 また鉄扉に隙間ができた。本当に相手は女性なのだろうか。鉄扉の重さの分こちらが有利なはずなのに力で押し負けているこ。
「じゃあ白状するしかない。機能はなんとか誤魔化して回収する。テンブリッジの科学の歴史については、わたしたちはなにも知らない」
「賛成だ」
 方針が決まり鉄扉の上から飛び退くと、その瞬間に勢いよく扉が開いた。タートルネックの女性が穴からひょっこりと顔を出した。その顔にはまだあのにんまりとした微笑が浮かんでいる。好奇心が溢れ出ているような笑顔だった。
「なにか、極秘の調査をしていたんですねっ!? そうなんでよねっ!?」
 女性は首から上だけを外に出したままおれたちを見上げている。本当に亀のようだと思った。
「いや、そんなに大した調査はしてないよ」
「ではなんらかの調査はしていたんですねっ。なにを調べていたんですか、こんなところでっ」
「地質調査です」
 四五が平坦な声で言った。
「地質調査?」
 首だけのタートルウーマンが、首をかしげる。つまり見えている部分全体がかたむいている。四五がタートルウーマンにうなずきを返した。
「この地下ドームは、テンブリッジ大学の中でもっとも古い地下施設です。あの敷き詰められた石は外気にも日光にも晒されずに保存されている貴重なサンプルなんです」
「ほぅ、あの石が……。地質調査に石ってそんなに重要なんですか」
「言葉では言い表せない程重要です」
「そうなんですか。勉強になりましたっ!」
 タートルウーマンは目を輝かせながらペコリと頭を下げた。
「どういたしまして」
 四五もそう言って、小さくうなずいた。奇妙な沈黙が流れる。
「……それでさ」
 二人の視線がおれに向いた。
「地下に、妙な装置があっただろ? 鏡と、ビニール線がつながってる妙な装置だ」
「ありましたっ!」
「あれも、地質調査に使う、信じられない程重要で精密な装置なんだ」
「そうだと思いましたっ!」
「だから、回収したいんだが」
「でしょうねっ! そうだと思ってたのに、急に扉閉めちゃうからビックリしました!」
「あぁ、実はおれたち極度の人見知りなんだ。中に人がいて思わず蓋をしてしまった」
「そうだったんですかっ! 奇遇ですね、わたしもこう見えて極度の人見知りなんですよっ! 友達になりましょうよ!」
「そんな簡単には友達にはなれません、人見知りなので」
 四五が口を挟むと、タートルウーマンは目を見開いて四五を見上げた。
「その通りですね!」
「あと、初対面の相手に友達になりましょうと提案できるあなたは人見知りではありませんよ。人見知りの人間は“知り合い”という関係と認めるまでにも最低で三回以上の接触が必要です」
「えっ! わたし人見知りじゃないんですかねっ」
「人見知りではありません。PARTY PEOPLEです」
「パーリーピーポー!!!」
 首だけのタートルウーマンは、首だけでのけぞった。白い首筋がまぶしい。あごのラインから繋がる両の耳も美しい形をしていた。このタートルウーマンはダイヤの原石だ。メガネを叩き割って髪の毛の手入れをしてあげれば、四五とも張り合えるとびきりの美人になる。おれはそう確信した。
「初対面の相手と簡単に友達にならないほうがいいですよ」
「わかりましたっ! では友達になろうという提案は撤回しますっ!」
「よかったです。装置を回収してもいいですか」
「どうぞ! 中へっ! むさ苦しいところですがっ!」
 タートルウーマンは甲羅の中に顔を引っ込めた。おれと四五は互いの顔を見合い、小さくうなずきあった。
「たぶんだけどさ、悪い人ではないんだろうな」
「かもしれない。友達になる気はしないけど」
「……まぁ、四五とは合わないだろうな」
 おれたちはタートルウーマンを追って、地下ドームに降りていった。

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【無料公開】隔日連載小説α版『四五アフター・四五編』1

   ×   ×   ×


「――昔の修二に、戻ったね」



「――子供の頃、いつもわたしの前を歩いてくれてた、あの修二だ」


「――わたしは、ずっとあなたについていくよ。修二」

   ×   ×   ×

 二〇四六年の世界は、おれたちのいた二〇一七年よりも十年は遅れていた。服の素材は見慣れたものだし携帯電話もある。だがWi-Fiはないし、スマートフォンもまだ普及していない。テンブリッジの噴水広場の時計台を見上げた。この建物は一六八七年から変わらない。四五の手を握ったまま長針を見つめていると、がたりと音を立てて一分進んだ。この世界の時間がまた刻まれた。
「もうすぐ、日が暮れるね」
 四五が呟き、自分の腕をさすった。風は冷たい。気温も下がってきている。
「足は痛まない?」
 四五はおれの左足を見下ろし、優しく触れながら言った。ロバート・フックに撃たれた足だ。目覚めたときにはもう傷口を縫った糸の抜糸も済んでいた。
「治りかけで痒いだけだ、痛みはないよ」
「よかった」
 四五が視線を上げた。目が合うと四五は穏やかに微笑んだ。ニュートンの名は知られず、アインシュタインは第二次世界大戦で命を落とした世界。おれたちの家族が生きているかどうかもわからない。ここまで世界が変わっているなら両親がそれぞれ別の相手と結婚していることだってじゅうぶんに考えられる。今、おれたちはお互いにとって、自分という人間を知っている唯一の相手なんだ。その相手が四五でよかったと思う。おれは四五の手に自分の手を重ねた。
「冷えてきたな」
「はい」
「そろそろ病院に戻ったほうがいいのかな。入院してたんだよな、おれ」
 そう言うと、四五は黙ったままゆっくりと目を泳がせた。
「どうした?」
「修二、わたしたち――お金を持ってない。パスポートもないし、身分証もない」
 おれは茫然と四五を見つめた。
「……わたしたちがいた二〇一七年だったら日本大使館に行って、日本に送還されるんだと思うけど――」
「……そうか、日本に帰ったところでおれたち、戸籍もなにもないのか」
 四五がうなずく。
「それ以前に……この世界で日本とイギリスがどういう関係なのかもわからない。修二の言うとおりわたしたちが日本人だと証明することもできないし――今日本に帰国させられたり、大使館から出られなくなったりしたら――」
 四五の言わんとしていることは、おれにもすぐわかった。
「タイムマシン」
 四五がうなずく。
「わたしたちは、あの装置の基礎理論を知らない。既にあるものを修理するならまだしも、ゼロから作るのは絶望的だよ。何十年かかるかわからない」
 タイムマシンはたぶん、今でもテンブリッジ大学のあの地下にある。修一郎から託されたタイムマシンは銀色のスーツケースに入れて持ち運びができるようになっていた。誰かに見つかる前に回収しないといけない。
「寝床を探す前に回収しておこう」
 おれはそう言って立ち上がった。

 この時代のテンブリッジ大学にも十の橋が架けてあった。アイザック・ニュートンの正体である天才少女、アリス・ベッドフォードが万有引力の法則を思いつくはずだった、世界一有名な林檎の樹がはえていた場所。おれたちはその場所を、林檎の樹の丘と呼んでいた。一七世紀のテンブリッジ大学では、その場所にくる人はほとんどいなかった。だからアリスは考えごとをするときにその場所を好んで使っていた。第三ブリッジと呼ばれる橋を渡るとその林檎の樹の丘がすぐに見えてくる。
 テンブリッジの門には警備員が一人立っていた。日が高いうちはさすがに目につきそうだ。日が暮れるのを待った。薄暗くなってから、警備員は門を閉じてどこかに去っていった。おれたちは閉じた門をよじのぼってテンブリッジ大学の中に入った。本気で侵入者を想定している門ではなく、気休め程度のセキュリティだった。

 この二〇四六年の世界でも、林檎の樹の丘は人気がないらしい。ニュートンの林檎の逸話がなくなった今、観光地としての機能は完全に失われている。軽く身を屈めて、おれたちは地下ドームに繋がる鉄扉を開いた。
 二つの瞳が、おれをまっすぐ見上げていた。
 おれは言葉を失い、呼吸を忘れ、身動きがとれなくなった。
「修二……?」
 四五も地下ドームを覗きこんだ。中の瞳が四五に向く。
「……人がいる」四五が平坦な声でそうつぶやいた。あぁ、人か。思考がゆっくりと戻ってきた。確かに、地下ドームの中に人がいる。黒縁の大きな眼鏡をかけた女性だ。腰まである髪の毛はぴょこぴょこと外側にはねている。くせっ毛なんだろう。黒いタートルネックのセーターに、下はブルージーンズをはいている。見た目よりも動きやすさを重視しているのが、格好からすぐにわかった。余談だが、胸の膨らみは四五に匹敵するかそれ以上だ。春さんを彷彿させる美しい曲線を、黒いタートルネックのセーターが描いている。そもそも黒いタートルネックのセーターというチョイスがまたいい。胸部の膨らみが、実によく映える。ああいう美しい乳房のために黒いタートルネックのセーターはこの世界に存在しているのかもしれない。いや、そうに違いない。
 ――何秒経っただろうか。地下の女性はまばたきもせずにおれたちを見上げつづけている。気付くとその口元に笑みが浮かんでいた。唇をぴたりと閉じたままにんまりと微笑んでいる。やがてその口がゆっくり開いた。
「やっぱり違和感ありますよねっ!? おかしいですよねっ!?」
 女性はそう言った。大人しそうな見た目に反して声は子供のように楽しげだった。目が爛々と輝いている。おれは四五と目を合わせた。無表情だった。緊張しているときの四五の顔だ。おれはゆっくりと地下の女性に視線を戻した。
「なにが、おかしいんですか」
 女性の目が大きく開いていった。
「テンブリッジの科学史に決まってるじゃないですかっ!」

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