【無料公開】白昼夢の青写真 CASEー0原作小説『世界と呼ばれた少女』1
プロローグ
地下五〇〇メートルに作られた新宿の街に人の気配はない。乾いた土の道を歩いた。視線を上げていく。下層の中心にある円形のトウモロコシ畑、中層に立ち並ぶ小綺麗なコンクリートビル、上層の広々とした住宅街。何度も見上げた街並が視界に入ってきた。
この街は様変わりした。住人の八割以上が生体保存カプセルで眠っている。だがオゾンレンズ越しの太陽だけは変わらなかった。子供のころから変わらない景色。丸い空にきらめく太陽。土埃がまいトウモロコシが揺れる音。五感に集中しながら私は下層を歩いた。[出雲/いずも]は私の少し後ろを静かについてきていた。いつものように無表情のまま、よく晴れた空のように澄んだ青い瞳をまっすぐ前に向けている。彼女の髪の毛も瞳と同じように青い。
「記憶を失った私はこの街を見てどう思うだろう。きっと地下に街があることには驚かないだろうな。出雲がアンドロイドだと知っても、私の経験記憶と照らし合わされて納得できると思う」
「そうですか」
「静かな街になった」
「そうですね」
「中層・上層の九五%、下層の七○%の人たちが仮想空間に移住済みだった。彼らは今、中層と上層の間で寝ている。ただ寝ている。夢も見ずに」
空っぽになった下層の街を眺める。労働を終えた下層民の憩いの場だった市場。[世凪/よなぎ]と何度この場所を歩いただろう。
無垢だった子供のときも――
野心に燃えていた青年のときも――
自分の役割に邁進し大人の入り口に差し掛かったときも――
私たちはこの街の乾いた地面を踏みしめて歩き続けた。その一日一日を思い返す。忘却障害を患った私の完全な記憶が次から次へと蘇ってきた。この記憶も数時間後には全て忘れ去ることになる。
「海斗」
出雲が立ち止まって私を呼んだ。私は振り返って出雲と向かい合った。
「今の世凪の脳にはβアミロイドが蓄積しています。気付いていたはず」
「あぁ」
たとえ自我を回復させても世凪の記憶はすぐに崩壊していく、それが容易に予想できると出雲は言っている。
「世凪の自我が回復したとして、世凪はその日に海斗のことを忘れてしまうかもしれない。それでも、行動は変わらないんですか」
「どうしてそんなことを聞く」
「労力をかけて、同じ結果に辿り着く可能性が極めて高いからです」
出雲を見つめたまま私は小さく笑った。
「出雲は、どうしてそれを今日まで黙っていたんだ?」
出雲は口を閉じて黙っている。なにも答えない出雲に私はもう一度問いかけた。
「何故、今になって話す気になった?」
「わかりません」
「世凪に聞かせたくないと思ったんじゃないか」
出雲は困っているように見えた。私の勘違いかもしれない。
「出雲はあの状態の世凪を世凪だと認識して、彼女を傷付けることを避けたんだ。世凪が出雲を家族だと思ったのと同じように。記憶がなくても自我がなくても、出雲は今の世凪を世凪だと思ってくれたんだろう」
「……わかりません」
「この計画がうまくいったあとで世凪がまたすぐに自我を失うとしても、もう一度世凪におかえりと言える。それだけでも充分価値があると思わないか」
「思います」
出雲はすぐにそうこたえた。私はしばらく出雲を見つめた。出雲は下層の街並みを見つめていた。
「わたしも、もう一度世凪に会いたい。そう思っています」
「あぁ」
「うまくいきます。海斗の計画は」
「頼もしい限りだ」
「必ず完遂させます。そして、世凪におかえりなさいと言う」
出雲は私を見上げた。瞳と同じ色の髪の毛が肩の上で揺れていた。
「……世凪が、眠りました」
いつもの無機質な声で、出雲がそう言った。私は下層の街を眺めたままうなずいた。
「全てがうまくいったら、またここで会おう、出雲」
「わかりました。待ってます」
そして私は自分の記憶を全て奪い去り、眠りについた。
少年期
日が暮れた。僕の影は色濃くなり、オゾンレンズ越しの丸い空は朱く染まっていた。
僕は泣いていた。何時間も泣き続けながら、バラバラになった小さなクルマを修理していた。上層民の捨てた電動歯ブラシからとったモーターを動力にして少しずつ組み立てたクルマはバラバラになっている。もう自分がなんの部品を手に持っていて、なんの作業をしているのかわからなくなっていた。
わかったこともいくつかある。
モーターから車輪に回転を伝える歯車にはものすごく強い力がかかっていて、強度が必要なこと。
だから、一度割れると新しいのに交換するしかないということ。
でも、下層民の僕は新しい部品をもう手に入れられないということ。
つまり、今の僕には、このクルマを直せないということ。
長い時間泣いて気付いたこともある。
泣き続けると、喉と頭が痛くなるということ。
どんなに堪えようとしても、声は漏れてしまうということ。
涙はなかなか枯れないということ。
「海斗……」
世凪が小さな声で僕を呼んだ。
「もう、いこ……。帰ろうよ……。海斗のママも、心配してると思うよ……」
嗚咽が漏れた。喉の根元から直接漏れ出ているような音だった。世凪の静かな呼吸が聞こえる。
「見せたかったんだ」
「え?」
「お母さんは、中層のモニターを、見にいけないから……」
息が続かない。喉と頭が痛かった。
「うん……」
「走ってるクルマは……、かっこういいからっ……。見せてっ、あげたかったから……つくった……」
また涙が地面に落ちた。コンクリートの地面にしみができた。僕は目を拭った。
「作ったのに……。走ったのに……」
「……うん」
「なのに……今の僕には、もう……」
僕は目を強く閉じた。
「直せないんだ……」
袖はもうびっしょりと濡れていた。
世凪が僕の隣にきて足元のクルマを見下ろした。紺色のスカートが僕の視界の隅で揺らめいている。
「もう、動かないの?」
僕はゆっくりうなずいた。
世凪はしゃがみこんで壊れたクルマに手を伸ばした。世凪の肌は僕の肌よりも繊細に見えた。音もなくクルマをひろいあげた世凪は僕の顔を覗きこむようにして優しく微笑んだ。真っ白な髪を左右に結んだ世凪の顔が目の前にあった。こんなに近くで女の子の顔を見るのは初めてだった。世凪はクルマを持っていない方の手を僕の手に重ねて、そっと握った。
「帰ろ。……歩ける?」
僕はうなずいた。
世凪はずっと僕の手を握ってくれていた。
僕は涙を拭きながら、世凪の少し後ろを歩いた。
「トウモロコシ、すごいね」
「……うん」
エレベーターで下層に降りて、いつもの道を歩いた。地下をくりぬいて作った新宿の街。その底に円状に広がるトウモロコシ畑。下層の住宅はむきだしの外壁に埋め込まれるようにぎゅうぎゅうに敷き詰められている。いつもと同じあぜ道を通って、僕たちは下層の街に向かった。鼻をすすると粉塵が喉に入ってきて、僕は何度か咳き込んだ。
「海斗の家、こっち?」
「うん……」
世凪の手は最初ひんやりと冷えていたが今はあたたかい。やわらかいてのひらが、僕の手をしっかり握っていた。
「海斗ならね――」
前を向いたまま、世凪が言った。
「きっといつか、もっとすごいもの、作れるよ」
「……もっとすごいもの?」
「うん。なにか人を笑顔にするようなもの、海斗になら、絶対作れる!」
「……そうかな」
「遊馬先生に頼んでこれからは学校の工作室で、材料も揃えられる! 上層民のゴミなんかもう必要ないんだよ。変な言いがかり付けられるのは、今日でおしまいにしよ」
「……うん……」
「だから……、泣き止んで。海斗」
世凪は消え入りそうな声でそう言った。
僕はまた立ち止まってしまった。
世凪の声には不安が滲んでいた。僕は世凪を不安にさせてしまったんだ。もう僕には自分の感情が、よくわからなくなってしまった。
立ち止まって俯くと、クルマを壊された瞬間の光景が浮かんだ。
上層民のシャチが僕を憎々しげに睨んだ目が浮かんだ。下層民のくせにうちのもの勝手に壊したんだな。シャチはそう怒鳴った。
どうして僕は、こうもはっきりと過去のことを思い出してしまうんだろう。
忘れよう忘れようと意識すればするほど、地面に叩きつけられたクルマが散らばる瞬間が脳裏に浮かび、そのときの感情が僕の胸の内を満たしていった。
「……海斗」
うつむいたままみっともない声で泣きじゃくる僕に、世凪が近づいてくるのがわかった。
僕の視線の先に世凪のつま先があった。背伸びをするようにゆっくりとかかとが浮いていき、僕の額にやわらかいなにかがあたった。そのあとにあたたかさを感じた。世凪のてのひらと同じあたたかさだった。
世凪の香りが僕を包んだ。
お母さんとは違う種類の、やさしいにおいだった。
僕の心の中は世凪でいっぱいになった。世凪の唇を額に感じながら、僕の心を覆い尽くしていた悲しい気持ちがおいやられ、穏やかな気持ちが満ちていく。
世凪はゆっくり離れていって、僕をまっすぐ見つめた。
「……泣き止んだ」
僕はその姿を茫然と見つめた。世凪の前髪が風に揺れていた。真っ赤な瞳は幸せそうに細められている。この子となら友達になれるかもしれない、初めて会ったときにそう思わせてくれたあの笑顔を、世凪は今も浮かべていた。今日はあの日より、頬が少しだけ朱く染まっている。
きっと、僕も同じようになっているんだろうと思った。頬が熱かったからだ。
世凪は僕の手をとってもう一度歩き出した。オゾンレンズ越しの空の端が紺色に変わってきている。前を向くとトウモロコシ畑の途切れたところに、僕の家が見えてきていた。
「あ……」
「あれが海斗のおうち?」
「うん」
「わたしも一緒にいっていい?」
世凪は歩きながら僕を振り返った。僕は黙ったままうなずいた。