【無料公開】白昼夢の青写真 CASEー0原作小説『世界と呼ばれた少女』2
家のドアを開けて、まずは僕が家の中に入った。
「……ただいま」
「おかえり」
お母さんがベッドに横になったまま僕の方を振り向いたあと、世凪が家の中をのぞきこんだ。
「こんにちは!」
「……こんにち、は?」
お母さんは目を丸くして世凪と僕を交互に見つめた。
「世凪っていいます!」
「……あぁ!!」
お母さんが大きな声を出して、世凪が目を丸くした。
「あなたが、世凪ちゃん」
「はい! こんにちは! あっ……、こんばんは!」
世凪が少し早口にそう言った。お母さんは楽しそうに吹き出した。
「こんばんは」
「おじゃましていいですかっ」
「もちろんっ! おばさんも世凪ちゃんとお話してみたかったの」
世凪は僕の方に、キョトンとした顔を向けた。
下層の土を掘って開けた大きな穴に、ぼこぼこしたトタンを張り付けた部屋。それが僕とお母さんの住んでいる家だ。ベッドと食卓、キッチンと洗面台しかない。窓の外にはトウモロコシ畑がひろがり、その向こうに反対側の土壁が見える。あそこにも僕たちと同じように土の家の中で生活している下層民がいる。
僕と世凪はお母さんのベッド脇に並んだ。お母さんはまじまじと世凪を見つめた。
「うんっ」
お母さんがうなずいた。世凪が救いを求めるように僕を見つめた。
「世凪ちゃん、とっても可愛い子だね。海斗の言ってたとおり」
目を伏せていた僕は勢いよく顔をあげた。世凪がにんまりとした笑顔を僕に向けていた。
「そんなこと言ってないでしょ!」
「あれ、そうだっけ」
お母さんがわざとらしく首をかしげる。
「言ってない!」
「でも、お母さんには伝わってたけど」
「嘘だよ!」
世凪とお母さんが一緒になって笑った。
「この前から、海斗は世凪ちゃんの話ばっかりで」
「お母さん!」
僕はお母さんの声に重ねるように叫んだ。
「……そんなことないよ……ないでしょ……!」
お母さんが笑いながらまた口を開いた。
僕は昨日まで学校に行ったことがなかった。下層民は毎日中層に行って労働をしないといけない。でもお母さんは立つことができない。先月、左肩も動かなくなり、昨日、左手の全てが動かなくなった。お母さんの体は段々動かなくなっている。左手が動かなくなったのは、僕が学校に行くと伝えてすぐのことだった。
だから僕はお母さんの分も働いた。下層の子供たちが学校に行っている時間も中層の共有部で労働した。
上層民のシャチは僕を見つけると、サボる親から生まれた子供は学校をサボるんだと笑いながら僕の頭をぶった。それを止めてくれたのが世凪だった。「下層民は、それが役割だから働いてるんだよ。上層民が下層民より偉いわけじゃないんだよ。あなたの親は、そんなことも教えてくれなかったの?」世凪は表情を消して、自分よりも背が高く体の分厚いシャチにそう言った。じわじわにじりよってシャチを黙らせ、シャチはすごすごと去っていった。それが、僕と世凪の出会った日のできごとだった。
僕はクルマの壊れてしまった姿を思い出した。走り出したクルマがシャチの足下に当たったときの寒気をまた感じ、僕のクルマを高々と掲げそれを地面に叩きつけたシャチの姿と、そのときの悲しさが心に浮かんだ。
「……海斗」
世凪は自分の鞄の中から走らなくなったクルマ取り出して僕に差し出した。僕はクルマを受け取り、その手元のクルマをうつむいたまま見つめた。
「それは……海斗が作ってた……クルマ?」
お母さんの声が聞こえた。僕は黙ったままうつむいていた。
「お母さんに見せてくれるの?」
僕はなにも言葉を返せなかった。かわりに世凪がお母さんを見上げて口を開いた。
「海斗のママ……、あのね。海斗の車、動いたんだけどね、壊れちゃったんだよ」
僕はうつむいたままお母さんの顔を盗み見た。
お母さんは僕のことを静かに見下ろしていた。僕はその視線から逃れるようにうつむいた。また僕の目から涙が溢れた。僕は声を振り絞った。
「……お母さんに見せてあげる前に、壊されちゃったんだ」
「壊された……?」
涙だけが流れ続けた。足元に落ちた雫のあとを、僕はぼんやりと見つめていた。
「……そうだったんだね。学校で?」
お母さんは穏やかに言った。僕はうなずいた。
「走ってる姿、見せたかったんだ……」
僕がそうつぶやいてしばらく沈黙が続いた。
「……あのね」
世凪の声がした。僕は顔をあげた。世凪がもじもじと、てなぐさみをしていた。
「海斗と、海斗のママ。……秘密、守ってくれる?」
僕は世凪を見つめた。世凪の真剣な眼差しが、僕に注がれていた。僕はお母さんを見上げた。僕とお母さんの目があった。お母さんはベッドの木のフレームに背中をあずけたまま不思議そうな顔をしていた。きっと僕も同じだ。でも、僕たちはうなずいた。
「守るよ。ね、お母さん」
「うん」
僕たちがそう言うと世凪はなにかを決心したようにうなずき、両手を差し出した。
「……じゃあ、手を出して」
僕たちは手を出した。世凪は僕の左手とお母さんの右手を握った。
「二人も、手を繋いで」
僕はお母さんの動かなくなった左手を握った。僕たち三人の中に小さな輪がうまれた。
「目、つむってね」
お母さんと目を見合わせてから、僕たちは目を閉じた。
「……驚かないでね」
世凪のその静かな言葉がゆっくり、体の内側までしみこむように届いたとき――屋上を走っているクルマの映像が見えていた。
「え――」
クルマが走っていた。何日もゴミ捨て場に通い、上層民のゴミをかき集めて作ったやっと完成させたあのクルマだ。
学校の屋上の滑らかな床をまっすぐ走る車。それはさっき僕の見た光景に似ていた。だが視点が違う。クルマを中心に映像の輪郭はどんどん鮮明になっていく。
僕もそこにいた。笑っている。嬉しそうに飛び跳ねてクルマを追いかけていた。
「これだ……これだよっ……中層のモニターでみたのと同じだ!」
映像の中の僕が喋っている。
「海斗うれしそう。学校きてよかったでしょ、海斗」
世凪の声も聞こえた。
「うんっ!」
僕がクルマを追いかけていく。
そこで、その映像は終わった。
視界が真っ白になり、朝目覚めるのと似た感覚を通り過ぎて、またいつもの部屋に戻ってきた。鮮明な夢を見ているような感覚だった。
「今の……、なに?」
お母さんも目を丸くして世凪にたずねた。
「……わたしがさっき見た記憶みたいな、もの?」
世凪がたどたどしく言った。
僕も、お母さんも、なにも言えずにいた。初めての体験だった。力の抜けた口を、ただ開けていることしかできなかった。
「気付いたときには、わたし、これ、できて……。でも、怖がる人もいるから、やめなさいって、言われてて……」
「……誰に?」
お母さんが世凪に聞いた。
「お父さん」
もうこの世にはいない世凪のお父さん。世凪の名前を付けてくれた人だと言っていた。
「だから、秘密にしておきたくて……」
もじもじと両手の指を絡ませながら、世凪はうつむいた。
「……すごい」
僕がそう言うと、お母さんもうなずいた。
世凪が顔をあげた。
「すごいよ! どういう仕組みなの?」
「え、シクミ? それはわたしにもわからないけど……」
「怖くなんてなかったよ、とっても素敵な力!」
お母さんが世凪にそう言った。世凪は茫然とお母さんを見上げていた。
「ありがとうね、世凪ちゃん。おばさんにも喜んでる海斗の姿が見えた。……あのね。……すっごく嬉しかった!」
「いや、見て欲しいのはクルマで――」
僕はそこで言葉を止めた。
お母さんの目に、涙が浮かんでいたからだ。その涙はお母さんの瞳に膨らんで頬を流れていった。僕はその涙をぼんやり見つめた。
「……すっごく、嬉しかったよ、世凪ちゃん。ありがとね」
お母さんは、まだ動くほうの手で世凪の両手を掴んでそう言った。
世凪はきょとんとされるがままになっていたが、だんだんとその頬が紅くなり、世凪の目にも涙が浮かんだ。
たぶん、お母さんのと同じ種類の涙だと、僕は思った。
こくん、こくんと、世凪はうなずいていた。照れくさそうに笑ってからぐいと涙を拭い、世凪は僕とお母さんにいつもの満面の笑みを見せた。
「……喜んでもらえて、よかった! どういたしまして!」
それからすぐに窓の外が暗くなった。
「世凪もご飯食べてく?」
僕がそう言うと世凪の背筋がピンと伸びた。
「え、いいの?」
「うん、今日は――」
そこで僕は、はたと思い出した。思わず僕は叫んだ。世凪がびくりと跳ね上がり、僕をじっと見つめている。僕は世凪の目を見つめ返しながらつぶやいた。
「配給……もらってない……、午後の労働も、いってない……」
世凪がため息をついた。
「そうだよー? 海斗がずっと学校で車なおしてるからじゃん」
「どうしよう……」
「なにがあるの? あるものでつくろうよ。海斗のママ、台所、わたしも使っていい?」
世凪がキッチンに向かいながらそう言うと、お母さんは世凪に笑顔を返した。
「もちろん。いつも海斗が作ってくれてるから、手伝ってあげて」
世凪はキッチンの戸棚にある缶詰の保存食を吟味して、タコスという食べ物を作ってくれた。地上時代の食べ物らしい。三人で食事をして後片付けをすませ、世凪は帰り支度をした。
「世凪ちゃん、絶対またきてね。今度は今日のお礼に、おばさんが絵本読んであげる」
世凪の目が輝いた。
「いつきていい!?」
「いつでも。おばさんずっとここにいるから」
「明日!?」
世凪がそう言うとお母さんは笑った。
「もちろん、いいよ」
「やった!」
喜ぶ世凪をお母さんは微笑んで見つめていた。
僕は世凪と一緒に家の外に出た。
「本当に一人で大丈夫なの?」
「大丈夫! 月も見えてて明るいし!」
世凪はそう言ってオゾンレンズを見上げた。丸い大きなレンズの中に小さな月が浮かんでいた。
「……今日は、ありがとう」
顔をおろして、僕はそう言った。
「うん……?」
世凪が僕を見つめながら首をかしげた。
「世凪がいてくれて、本当によかった。……ありがとう」
「いいんだよ、友達だもん!」
世凪は楽しそうにそう言った。僕はうなずいた。世凪と友達になってよかった、そう思った。
「ねぇ、海斗」
世凪が静かに言った。
「うん?」
「海斗のママ、ちょう素敵だった!」
「……うん」
僕は力強くうなずいた。
「そうでしょ」
「海斗、わたしも、さ……」
世凪はうつむいて、自分の手元に目を落としていた。
「わたしもママって呼んだら、怒る?」
「……」
世凪が僕を上目遣いに見つめ、また目を伏せた。僕は微笑みながら首を振った。
「世凪なら、いいよ」
世凪が勢いよく顔をあげる。
「お母さんも喜ぶと思う」
そう言うと、世凪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ……、ママにもよろしく! また明日って」
「うん」
世凪は手を振りトウモロコシ畑をかけていった。背の高いトウモロコシの合間をひょこひょこと走る世凪の背中を、僕は見えなくなるまで見送った。