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のぶた

過去記事の紹介「モンキーマジーッ♪ 後醍醐天皇(前編) ー進撃の日本史ー」

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して建武の新政を行った天皇です。
鎌倉時代後半の1288年に、後醍醐天皇は生まれました。そして、1318年に、31歳で即位します。しかし、このときの後醍醐天皇は、兄の子である邦良親王が成人するまでの中継ぎに過ぎませんでした。後醍醐天皇が即位したときには、自分の子に皇位を継承できないという約束に加えて、一定年数で攘夷することまで含まれていました。


That day, the human race remembered... ... the terror of being dominated by them... ...and the shame of being held captive in a birdcage.
(その日人類は思い出した ヤツらに支配されていた恐怖を… 鳥籠の中に囚われていた屈辱を……)

ここで、後醍醐天皇が即位する少し前に話はさかのぼります。鎌倉時代の後半、天皇家は持明院と大覚寺統の2つに分裂していました。
そして、この天皇家内の確執は天皇家だけで解決することができなかったため、鎌倉幕府の介入を招いてしまいました。鎌倉幕府が天皇の即位を調停し、天皇家の2つの系統から交互に天皇をだすという、両統迭立(りょうとうてつりつ)の約束がなされたのです。鎌倉時代の後半にもなると、皇位継承にまでも鎌倉幕府の意向が反映されるようになっていたのです。

こうした状況もあり、後醍醐天皇の不満は、皇位継承にまで影響を及ぼしている鎌倉幕府に向かうことになります。ちなみに、有名な『太平記』は、この後醍醐天皇の討幕計画からはじまり、室町幕府2代将軍足利義詮の死で終わります。


そして、いよいよ自分の皇位を手放さなければならないというときが近づいたとき、後醍醐天皇は討幕を計画し始めます。後醍醐天皇は、側近の日野資朝や日野俊基を諸国に派遣して、各地の武士に討幕を呼びかけさせます。
……が、この計画はソッコーで鎌倉幕府にバレてしまいます。鎌倉幕府の追求が始まると、後醍醐天皇の側近の日野資朝と日野俊基は、自ら罪をかぶって鎌倉に連行されます。そして、資朝は佐渡島に島流し、俊基は蟄居となります。

I don't remember agreeing to keep it a secret.
((内緒にすることに)協力した覚えはない)

後醍醐天皇はというと、責任をすべて側近の資朝と俊基になすりつけて、「オレは関係ない」と言い張って、なんとか逃げ切ることに成功します。
これが、1324年の、正中の変です。


一度討幕計画を失敗して、人に罪をなすりつけてトンズラこいた後醍醐天皇は、性懲りもなくまた幕府を倒す計画を立てます。
……が、この計画も幕府に密告されます。さすがにキレた幕府は、天皇の住まいである御所の中にまでカチコミをかけます。このとき、後醍醐天皇は男の娘となって、御所から脱出することに成功します。後醍醐天皇50歳のときのことです。アラフィフギャル天皇です!

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