自遊時閑 2023/11/19 19:02

[芥川龍之介] 蜘蛛の糸 ソフトノベル

  一

 ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池《はすいけ》のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、その真ん中にある金色のおしべからは、なんとも言えない良い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがてお釈迦様はその池のふちにおたたずみになって、水面を覆っている蓮の葉の間から、ふと下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当たっていますから、水晶のような水を透き通して、三途の河や針の山の景色が、丁度のぞき窓を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、カンダタと言う男が一人、他の罪人と一緒にうごめいている姿が、お目に止まりました。このカンダタと言う男は、人を殺したり家に火をつけたり、色々な悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、道ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を上げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無闇に取るということは、いくらなんでも可哀そうだ」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 お釈迦様は地獄の様子をご覧になりながら、このカンダタは蜘蛛を助けたことがあるとお思い出しになりました。そうしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、翡翠《ひすい》のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけております。お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、玉のような白蓮《しらはす》の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下しなさいました。

  二

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしていた、カンダタでございます。何しろどちらを見ても、真っ暗で、たまにその暗闇からぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さといったらございません。その上辺りは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと言っては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちてくるほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れ果てて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですから流石の大泥棒カンダタも、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったカエルのように、ただもがいてばかりおりました。
 ところがある時の事でございます。何気なくカンダタが頭を上げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした闇の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一筋細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでも登っていけば、きっと地獄から抜け出せるに違いございません。いや、うまくいくと、極楽へ入ることさえもできましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。
 こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりと掴みながら、一生懸命に上へ上へとたぐり登り始めました。元より大泥棒のことでございますから、こういうことには昔から、慣れきっているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦ってみたところで、簡単に上へは出られません。やや暫く登るうちに、とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へは登れなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休みするつもりで、糸の中程にぶら下がりながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命に登った甲斐あって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう闇の底にいつの間にか隠れております。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この調子で登っていけば、地獄から抜け出すのも、案外簡単かもしれません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからませながら、ここへ来てから何年も出したことのない声で、「しめた。しめた」と笑いました。
 ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分の登った後をつけて、まるでアリの行列のように、やはり上へ上へ一心によじ登ってくるではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、暫くはただ、バカのように大きな口を開いたまま、目ばかり動かしておりました。自分一人でさえ切れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに耐えることができましょう。もし万一途中で切れたといたしましたら、折角ここへまで登ってきた、この肝心な自分までも、元の地獄へ逆さ落としに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そういううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、真っ暗な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせと登って参ります。今の中にどうかしなければ、糸は真ん中から二つに切れて、落ちてしまうに違いありません。
 そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に訊いて、登ってきた。下りろ。下りろ」と喚きました。
 その途端でございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れました。ですからカンダタもたまりません。あっという間もなく風を切って、コマのようにくるくる回りながら、見る見る中に闇の底へ、真っ逆さまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中程に、短く垂れているばかりでございます。


  三

 お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうして、その心相応の罰を受けて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、浅ましく思し召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着いたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様のおみ足の周りに、ゆらゆら花弁を動かして、その真ん中にある金色のおしべからは、なんとも言えない良い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れております。極楽ももう昼に近くなったのでございましょう。

この記事が良かったらチップを贈って支援しましょう!

チップを贈るにはユーザー登録が必要です。チップについてはこちら

月別アーカイブ

記事を検索