自遊時閑 2023/12/19 17:36

[太宰治] 黄金風景 ソフトノベル

  

   海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて
                           ―プーシキン―


 私は子供のとき、あまり性格のいい方ではなかった。家政婦をいじめた。私はどんくさいことは嫌いで、それゆえ、どんくさい家政婦を特にいじめた。お慶は、どんくさい家政婦である。林檎の皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。足りないのではないか、と思われた。台所で、何もせずに、ただのっそりつっ立っている姿を、私はよく見かけたものであるが、子供心にも、みっともなく、妙に癇に障って、「おい、お慶、日は短いんだぞ」などと大人びた、今思っても背筋の寒くなるような非道な言葉を投げつけて、それでは飽き足りずに一度はお慶を呼びつけ、私の絵本の観兵式の何百人とうようよしている兵隊、馬に乗っている者もいて、旗持っている者もいて、銃を担いでいる者もいて、そのひとりひとりの兵隊の形をハサミで切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、それも大将の髭を片方切り落したり、銃を持つ兵隊の手を、熊の手みたいに恐ろしく大きく切り抜いたり、そうしていちいち私に怒鳴られた。夏の頃であった、お慶は汗っかきなので、切り抜かれた兵隊たちはみんな、お慶の手の汗で、びしょびしょ濡れて、私はついに癇癪をおこし、お慶を蹴った。確かに肩を蹴ったはずなのに、お慶は右の頬をおさえ、がばっと泣き伏せ、泣き泣き言った。「親にさえ顔を踏まれたことはありません。一生覚えております」うめくような口調で、途切れ途切れそう言ったので、私は、流石に嫌な気がした。その他にも、私はほとんどそれが天命でもあるかのように、お慶をいびった。今でも、多少はそうであるが、私には無知で愚鈍の者は、とても我慢できないのだ。

 一昨年、私は家を追われ、一夜のうちに困窮し、路頭をさまよい、あちこちに泣きつき、その日その日の命を繋ぎ、多少執筆で自活できる当てがつき始めたと思った途端、病を得た。人々の情けで一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借りた。自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗と戦い、それでも仕事はしなければならず、毎朝毎朝の冷たい一杯の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きている喜びとして感じられた。庭の隅《すみ》の夾竹桃《きょうちくとう》の花が咲いたのを、メラメラ火が燃えているようにしか感じられなかったほど、私の頭もすっかり痛み疲れていた。
 その頃の事、戸籍調査の四十に近い、痩せて小柄のお巡りが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精髭のばし放題の私の顔とを、じっくりと見比べ、「おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか?」そう言うお巡りの言葉には、強い故郷の訛りがあったので、「そうです」私はふてぶてしく答えた。
「あなたは?」
 お巡りは痩せた顔に苦しいほどにいっぱいの笑みをたたえて、
「やぁ。やはりそうでしたか。お忘れかもしれないけれど、かれこれ二十年近く前、私はKで馬車屋をしていました」
 Kとは、私の生れた村の名前である。
「ご覧の通り」私は、にこりともせずに応じた。
「私も、今は落ちぶれました」
「とんでもない」
 お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、
「小説をお書きなさるんだったら、それはなかなかの出世です」
 私は苦笑した。
「ところで」とお巡りは少し声を低くめ、
「お慶がいつもあなたのお噂をしています」
「おけい?」すぐには呑みこめなかった。
「お慶ですよ。お忘れでしょう。お宅の家政婦をしていた――」
 思い出した。あぁ、と思わずうめいて、私は玄関の式台にしゃがんだまま、頭を垂れて、その二十年前、どんくさかった一人の家政婦に対する私の悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、いたたまれなくなった。
「幸福ですか?」
 ふと顔をあげてそんな突拍子ない質問を発する私の顔は、確かに罪人や被告のようで、卑屈な笑いさえ浮べていたと記憶する。
「ええ、もう、それは」
 屈託なく、そう朗らかに答えて、お巡りはハンカチで額の汗をぬぐって、
「かまいませんでしょうか。今度妻を連れて、一度ゆっくりお礼にあがりましょう」
 私は飛び上るほど、ぎょっとした。いいえ、もう、それには、と激しく拒否して、私は言い知れぬ屈辱感に身悶えしていた。
 けれども、お巡りは、朗らかだった。
「子供がねぇ、あなた、ここの駅に勤めるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つで今年小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんというか、まぁ、お宅のような名家にあがって行儀作法を習った者は、やはりどこか、違いましてな」
 少し顔を赤くして笑い、
「おかげさまでした。お慶も、あなたのお噂、始終しております。今度の公休には、きっと一緒にお礼にあがります」
 急に真面目な顔になって、
「それじゃ、今日は失礼いたします。お大事に」

 それから、三日たって、私が仕事のことよりも、金銭のことで思い悩み、うちにじっとして居れなくて、竹のステッキ持って、海へ出ようと、玄関の戸をがらがら開けたら、外に三人、浴衣を着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
 私は自分でも意外な程の、恐ろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。今日、私これから用事があって出かけなければなりません。気の毒ですが、またの日においでください」
 お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、家政婦の頃のお慶によく似た顔をしていて、鈍さを感じる濁った眼でぼんやり私を見上げていた。私は悲しく、お慶がまだ一言も言い出さないうちに、逃げるように、海岸へ飛び出した。竹のステッキで、海岸の雑草をなぎ払いなぎ払い、一度もあとを振りかえらず、一歩、一歩、地団駄踏むような荒《すさ》んだ歩き方で、とにかく海岸伝いに町の方へ、まっすぐに歩いた。私は町で何をしていただろう。ただ意味もなく、映画館の絵看板見上げたり、呉服屋の飾り窓を見つめたり、ちぇっ、ちぇっ、と舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと激しく体をゆさぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私は再び私の家へ引き返した。
 海岸に出て、私は立ち止った。見ろ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い楽しんでいる。声がここまで聞えてくる。
「なかなか」お巡りは、うんと力をこめて石を放って、「頭の良さそうな方じゃないか。あの人は、今に偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。「あの方は、小さい時から一人変わっていられた。目下の者にもそれは親切に、目をかけてくださった」
 私は立ったまま泣いていた。険しい興奮が、涙で、まるで気持ちよく溶け去ってしまうのだ。
 負けた。これは、良いことだ。そうなければ、いけないのだ。彼らの勝利は、また私の明日の出発にも、光を与える。

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