自遊時閑 2023/12/16 15:28

[太宰治] 黄金風景 ファストノベル

  海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて
                          ―プーシキン―


 私は子供のとき、性格のいい方ではなかった。どんくさいことは嫌いで、どんくさい家政婦を特にいじめた。お慶は、どんくさい家政婦である。台所で何もせず、ただつっ立っている姿をよく見かけたが、妙に癇に障って、「おい、お慶、日は短いんだぞ」などと非道な言葉を投げつけた。それでは飽き足りずお慶を呼びつけ、絵本の何百人といる兵隊、そのひとりひとりの兵隊をハサミで切り抜かせた。不器用なお慶は、朝から日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、それも大将の髭を切り落したりして、いちいち私に怒鳴られた。私はついに癇癪をおこし、お慶を蹴った。確かに肩を蹴ったはずなのに、お慶は右の頬をおさえ、泣き泣き言った。「親にさえ顔を踏まれたことはありません。一生覚えております」うめくような口調で言ったので、私は、流石に嫌な気がした。今でも、多少はそうであるが、私には無知で愚鈍の者は、とても我慢できないのだ。

 一昨年、私は家を追われ、あちこちに泣きつき、その日その日の命を繋ぎ、多少執筆で自活できる当てがつき始めたと思った途端、病を得た。人々の情けで一夏、海の近くに小さい家を借りた。毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗と戦い、毎朝の冷たい一杯の牛乳だけが、奇妙に生きている喜びとして感じられた。
 その頃の事、戸籍調査のお巡りが玄関で、帳簿の名前と、私の顔を見比べ、
「おや、あなたは……の坊ちゃんじゃございませんか?」
「あなたは?」
 お巡りは痩せた顔に苦しいほどにいっぱいの笑みをたたえて、
「やぁ。やはりそうでしたか。かれこれ二十年近く前、私はKで馬車屋をしていました」
 Kとは、私の生れた村の名前である。
「ご覧の通り、私も、今は落ちぶれました」
「とんでもない。小説をお書きなさるんだったら、それはなかなかの出世です」
 私は苦笑した。
「ところで、お慶がいつもあなたのお噂をしています」
「おけい?」
「お慶ですよ。お宅の家政婦をしていた――」
 思い出した。あぁ、と思わずうめいて、昔の私の悪行がはっきり思い出され、いたたまれなくなった。
「幸福ですか?」
 そんな突拍子ない質問を発する私の顔は、確かに罪人や被告のようで、卑屈な笑いさえ浮べていた。
「ええ、もう、それは。――今度妻を連れて、一度ゆっくりお礼にあがりましょう」
 私はぎょっとした。いいえ、もう、それには、と激しく拒否し、私は屈辱感に身悶えしていた。
 けれども、お巡りは、朗らかだった。
「子供がねぇ、あなた、ここの駅に勤めるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つで今年小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんというか、お宅のような名家にあがって行儀作法を習った者は、やはりどこか、違いましてな」
 少し顔を赤くして笑い、
「お慶も、あなたのお噂、始終しております。今度の公休には、きっと一緒にお礼にあがります。それじゃ、今日は失礼いたします。お大事に」

 それから、三日たって、私は海へ出ようと、玄関の戸をがらがら開けたら、外に三人、浴衣を着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
 私は自分でも意外な程の、恐ろしく大きな怒声を発した。
「来たのですか。私これから用事があって出かけなければなりません。またの日においでください」
 お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、お慶によく似た顔をしていて、ぼんやり私を見上げていた。私は悲しく、お慶がまだ一言も言い出さないうちに、逃げるように、海岸へ飛び出した。一度もあとを振りかえらず、地団駄踏むような歩き方で、とにかく町の方へ歩いた。私は町で何をしていただろう。ちぇっ、ちぇっ、と舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬとまた歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私は再び私の家へ引き返した。
 海岸に出て、私は立ち止った。見ろ、前方に平和の図がある。お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い楽しんでいる。
「なかなか、頭の良さそうな方じゃないか。あの人は、今に偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。
「あの方は、小さい時から一人変わっていられた。目下の者にもそれは親切に、目をかけてくださった」
 私は立ったまま泣いていた。険しい興奮が、涙で、まるで気持ちよく溶け去ってしまうのだ。
 負けた。これは、良いことだ。そうなければ、いけないのだ。彼らの勝利は、また私の明日の出発にも、光を与える。

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