なつき戦史室 2023/01/21 20:23

コーワンは退却を決意していたのか――一九四五年ビルマのメイッティーラ会戦と参謀の隠蔽


パゴーを歩くグルカ兵。Reconquest of Burma Vol.Ⅱ, 412頁より。


一九四五年、ビルマ。

イラワジ河湖畔では、日本軍とイギリス軍最後の決戦が行われていた。二月下旬、イギリス軍は第一七師団と第二五五戦車旅団をもってイラワジより大都市メイッティーラに突進。これを占領して日本軍を大混乱に陥らせた。

遅ればせながら危機を感じとったビルマ方面軍は北ビルマから第三十三軍司令部を呼び寄せ、第十八師団と第四十九師団を指揮させてメイッティーラを奪還させようとした。しかし武運拙く、日本軍は敗れた。

牛山才太郎(元第十八師団情報参謀の木村才太郎)によると、日本軍がメイッティーラから退却を決心したとき、イギリス軍もまた退却寸前であったという。彼は書く。

「敵将コーワンは
『もし日本軍が健在ならば、二十九日昼間随意退却』
と決意し、起案した退却命令文をポケットに入れて、二十九日朝、恐る恐る複郭陣地の上に立った。しかし予期に反し、戦場は寂として声なく、そのすぐ前の丘の中腹にあった日本軍陣地は勿論、メイクテーラの戦場一帯に日本軍が一兵もいないことを知り、密かにポケットの退却命令文を握り潰し、退却を思い止まったという。」

さらに戦後の日英両軍の戦史合同研究では、

「日本軍はどうしてあの際、攻撃を中止したのか。英軍では日本軍に対し猪突して多大の損害を受けた第99旅団長を罷免し、部隊を収容しようとしていた。ところが、その朝、戦線を覗いてみると、日本軍の影が見えないので、再びメイクテーラに腰を据えたのが実情である」

とイギリス軍の参謀が語ったという(注1)。

そんなことがありえるだろうか。

日本軍が全線の退却を決定した一九四五年三月末、イラワジ湖畔の第十五軍は戦線崩壊しており、各師団は退却しはじめていた。第三十三軍はメイッティーラを攻めるも火力不足で決め手を欠き、イギリス戦車部隊のたび重なる襲撃で大損害を生じていた。

ポッパ山に位置する第二十八軍の支隊もイラワジ河のイギリス軍渡河点に攻勢をかけるどころかイギリス軍に押されて後退。インド国民軍部隊の内通によりポッパ山も維持できなくなっていった。

イギリス軍は圧倒的な航空戦力で空を支配していたので、この様子がよく見えていたはずである。勝ちが見えていたのではないか。もちろん、戦場に錯誤はつきものだ。もしかすると実際に「負けるかも」と思っていた可能性もある。敵はどう考えていたのか。



丘の向こう側
一九四五年二月十四日、イギリス軍はイラワジ会戦の勝敗を決める攻撃をはじめた。英第一七師団と第二五五戦車旅団からなる突進部隊が、ビルマ方面軍が注目していなかったニャンウに渡河して一挙メイッティーラに猛進したのだ。メイッティーラを占領して背後を取ってしまえば日本軍を袋叩きにできる。



『戦史叢書 シッタン・明号作戦』二十一頁より。

英第一四軍司令官ウィリアム・スリムは、この模様を自身の目で確かめるため、三月はじめ第四軍団長フランク・メッサービーとともに現地を視察した。出迎えたのは英第一七師団長デイヴィッド・コーワンだ。部隊の様子を観察したスリムは、コーワンの老練にして勇猛果敢な指揮ぶりに「戦闘は最後部において適任者にあることを確認した」と記している(注2)。

ほどなくメイッティーラを占領したコーワンは、日本軍に反撃の兆候が見られることを知った。スリムの期待どおり、勇猛なるかれは防御ではなく攻撃で日本軍を撃退しようと考えた。配下部隊に歩戦チームを組ませて、迫りくる日本軍部隊を次々に襲わせたのだ。これは北アフリカ戦役の経験をビルマの平地に応用したとも言われている(注3)。

銃爆撃のあとしらみつぶしに射撃を加えるイギリス戦車は、対戦車能力に乏しい日本軍部隊に南北で打撃を与えた。

とくに印象的な戦例は、第一二国境銃兵連隊第四連隊の一コ大隊とプロビン乗馬兵連隊の一コ大隊が、日本軍第十八師団に対し三月十日と十一日に行った襲撃だ。



『戦史叢書 シッタン・明号作戦』四十三頁より。

三月十日、上記の歩戦連合部隊は陣地構築中の一コ歩兵大隊を襲ってこれを壊滅させ、翌十一日にはその親部隊たる歩兵連隊を包囲するように襲撃して痛烈な打撃を加えた。イギリス軍の損害は五十六名に達し戦車一台が破壊されたが、日本軍は死者だけで二百名を下らず、(第十八師団隷下の)歩兵第五十六連隊と師団工兵連隊主力は戦力が三分の一になるまで激減。配属の速射砲大隊は速射砲の大部を失い、十五榴一門も破壊されるという手痛い敗北を喫した(注4)。

有効な対戦車兵器と戦法を欠いた日本軍は、イギリス軍の襲撃に終始苦戦を強いられている。



危険の対処
メイッティーラ会戦でスリムが苦慮したのは、二つのことだ。すなわちアメリカ軍の輸送機部隊が中国に転用されそうになったことと、日本軍の反撃によってメイッティーラ飛行場が一時発着不可能になったことだ。

前者は、日本軍が中国で一号作戦、いわゆる大陸打通作戦を行ったことに原因がある。日本軍の攻勢により、負け慣れしていた中国軍はいつものごとく次々に後退していき蒋介石の重慶政府は大混乱に陥った。重慶政府はビルマ派遣部隊(中国遠征軍)の帰還を決め、同調するアメリカ側は輸送機部隊も転用しようとした(注5)。

これを聞き捨てならないと猛抗議したのがイギリス側だ。攻勢作戦中のイギリス軍は輸送機を大量に使用しており、輸送機が足りないと作戦が続けられなくなる危険性があった。強弁に反対することで、イギリス側は輸送機部隊の転用を“雨季まで”という条件付きでなんとか先延ばしにできた(注6)。

もう一つのメイッティーラ飛行場使用不能問題は、三月中旬に日本軍が飛行場にまで進出してきたことと、重砲が飛行場を射撃して発着を妨害してくることが問題であった。これを解決するため、三月二十七日と二十八日、メイッティーラ北の湖東台の日本軍陣地を攻撃した。しかし、日本側の(第十八師団)歩兵第五十五連隊と長沼重砲隊はなんとか耐え切った。



『戦史叢書 シッタン・明号作戦』六十二頁より。

牛山は書く。

「〔コーワンが退却命令文を忍ばせていた〕直接の原因は、二十六日、山崎連隊が占領した複郭陣地に対する英印軍の奪還のための逆襲が不成功に終わり、又二十七、二十八の両日湖東台に対する全力を傾注した攻撃も失敗したことにあったと思われる。」(注7)

しかし、印パ公刊戦史は戦闘経過の続きを書いている。イギリス軍のこの日の攻撃は日本軍を陣地から駆逐することに失敗したけれども、日本兵は抵抗の意思を失い二十八日夜に大部分が北に退却した。二十九日に湖東台は掃討されたと(注8)。

日本軍はちょうど二十八日に退却を決定したのでその日の夜に第十八師団が湖東台から撤退したとしても不都合ではない。翌二十九日にもイギリス軍は攻撃する意思を持っていた。彼らは負けたと思っていなかった。

牛山はさらに書く。

「更に、別の重大な原因があった。即ち、三月十五日以来、湖東台から我が重砲隊の射撃は英印軍機の着陸を諦めつけ、十八日以降は空中からの投下補給に切り換えさせた。
二十二日、菊兵団〔第十八師団〕の東飛行場占領は、それを決定的なものとし、英印軍を苦境に追い詰めた。」(注9)

三月十八日、たしかにメイッティーラ飛行場は日本軍の襲来で発着が不可能となった。しかし、スリムは「主要滑走路の使用を再び回復することが絶対的であった(注10)」と書いているが、戦況が絶望的だったとは書いていない。

スリムは飛行場使用不能直前に、増援として英第五師団の空輸旅団を強行着陸させている。イギリス軍は物資補給をパラシュート投下に切り換えつつ、飛行場を確保するため猛攻を加えた。先に根負けしたのは日本軍だ。



「最後の五分間」伝説
中国軍と輸送機部隊の転用が決まっていたため、イギリス軍はなんとしても雨期までに首都ラングーンを占領したかった。しかし、三月に入ってからの激戦により、イギリス軍の作戦スケジュールは遅れがちであった。

三月下旬、マウントバッテン提督(東南アジア連合軍司令官)とリース中将(東南アジア連合陸軍司令官)による話し合いでこのことは問題視され、東南アジア連合軍は解決案を考えた。それがドラキュラ作戦、すなわちラングーン占領作戦の復活である。

一九四四年後半、イギリス軍は元々、ビルマ中央の陸路を進む「キャピタル」作戦や、水陸両用作戦と空挺降下を併用した「ドラキュラ」作戦を考えていた。決行されたのはキャピタル作戦だけで、ドラキュラ作戦は延期されていた。

四月二日の東南アジア連合軍会議で、ドラキュラ作戦は正式採用され、一コ師団と空挺大隊に縮小されて決行されることとなった。作戦決行は雨期になる前の五月五日以前を予定した(注11)。

日本軍から見れば、ダメ押しで圧力がかかったわけで、五月二日にドラキュラ作戦が決行されたとき、イギリス軍は無血でラングーンを奪還した。日本軍にはもはや差し向けられる兵がいなかったのだ。



三方面からラングーンに迫るイギリス軍。Reconquest of Burma Vol.Ⅱ, 368頁より。

日本軍の典型的な精神訓話では、自分が苦しいとき相手も苦しいのだと説く。この苦境をしのぎ“最後の五分間”を耐え切った者が勝つ。だからこそ必勝の信念が必要なのだと。しかし苦しいの度合いが、日本軍とイギリス軍ではまったく違っていた。



おわりに
ビルマ方面軍の田中新一参謀長が構想した“強気一点張りの”作戦の末路は、前線の兵士たちが予期したように絶望に終わった(注12)。日本軍は中枢都市メイッティーラも古都マンダレーも首都ラングーンも失い、ビルマ南端のみを保持したまま雨季を迎えた。

インパール作戦における井瀬支隊の壊滅を記した『全滅』で高木俊朗は、あとがきで次のように書いている。


「最も苦労した下級者は真相を伝えず、一部の高級将校の虚構の作文が戦史として残されるかも知れない。人間の最大の不幸である戦争にして、なお、このようにあいまいな形で消え去ろうとする。
だからこそ、戦争の真実は、書きとめ、書き残さなければならない。戦争に対して無知、無神経になれば、人間はまた、あの不幸と悲惨をくり返すだろう。」(注13)


不破博(元ビルマ方面軍参謀)が書いた戦史叢書インパール作戦や同シッタン作戦にも、日本軍の名誉を守るためわざと敵側戦史を参照しないで書いているのではないかと思われる個所がある。不破の筆はまだ抑制的だが、牛山は話を盛りすぎではないだろうか。敢闘を書けばいいのに、どうしてこのようなことを書くのか。高木の怒りの声が聞こえてくるようだ。



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