二つの鍵と対ワンちゃん11
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たくひあい 2023/08/13 16:42
後編です!
そういえばダンガンロンパってこれのネタも入ってるのかな?
「警察に……」
立ち上がるぼくを桑指さんが止めた。
「申し訳ございませんが、お嬢様が亡くなられるときに、隣にいたのはあなたがたです。疑いをかけるのをお許しください……もし犯人だったとしたら、そのまま逃がしてしまうことになります。それに外は厳重なセキュリティがありますので、一度中に入ると、家族登録されている方の承認が必要になります。私でさえも、その……」
「ぼくは犯人じゃありません、そんなわけ……ぼくは、緋田さんと、初めて会ったっていうのに、どこにそんな動機が」
「違うよ、なとなとは違う。ずっと一緒にいたし。それに、醤油を付けたのは、エックだけなんだよ」
そう言ってからまつりは暗い顔をした。いつの間にか震えが収まっている。
「そういえば、醤油の場所を訪ねたのはあなたでしたが」
桑指さんは冷たい目をしていた。ぼくはいらいらしていた。なんで、一体なんで、こんなことに巻き込まれているんだ……
「こいつは、そんなことをしないよ」
疑ってはだめだ。疑ってはだめだ。疑ってはだめだ。疑ってはだめだ。まつりを疑ったとき、ぼくがぼくでなくなってしまう。あいつは、そんなことをしない、するわけがない。
「桑指さんだって、怪しいじゃないか」
ぼくはそんな台詞を吐きながら、ひどく情けなくて、滑稽な気分になりそうだった。自虐的とも言えるかもしれない。一体なんで、こんなところでお互いを疑い合ってるんだろう。
「毒が入っているのを知っていて、あえて持って来させたんだ……いや、別に、緋田さんでも良かったんだ。
まつりは醤油をかけないからな。ぼくが醤油をかけるかには考慮出来なかった。ぼくが来ることは聞いていなかったんだろうし」
「まってください、私はただ、折角なのでなにか作ろうと。火を使っていたので手が離せなかっただけで」
「落ち着いてよ」
まつりが叫んだ。びっくりして視線を合わせる。声は低く、少し揺れていた。
「も、申し訳ありません。つい、動揺してしまいました」
「あーあ。電話するしかないか。っていっても、携帯も持って来てないし」
「桑指さんは携帯電話とか」
「すみません」
それが持ってないという意味だとわかると、ため息をつきたくなった。ぼくも持っていない。全滅だ。
なにか連絡が取れる方法はないのだろうか。
そういえば、この家の電話は?
聞くと、桑指さんは悩むような顔をした。
「じ……実は今朝、連絡が必要な用事で、電話を使おうと思ったのですが、どこを探してもそのとき既に三台全てがなくなっておりまして」
「本当?」
「本当です。無駄に問題を起こさぬようにと、私は何も申し上げておりませんでしたが」
やっぱり、連絡をとれないらしい。
「あははは。おはようございまーす。電話がないし!セキュリティで逃げられないし! そしてこちらはただいま26度を記録。いやー晴れ空が広がっていて、空気が気持ちいいですよおー。ははははは! では、今週のお天気を見ていきましょう」
ん、セキュリティ?
セキュリティ……何かが引っ掛かるけど。それより。
「えっと……」
そばで小さく、なにやら楽しげな台詞が呟かれた。
軽く狂気だった。
まつりが見事に最近の天気予報番組らしきなにかの影響を受けて壊れていた。
落ち着いていないのはまつりもなのだ。
明らかに錯乱している。
精神が不安になりそうになると、その日の朝、または前の日の寝る直前に見ていたものに影響されやすいのだと、いつか聞いていた。誰にだったかな。
「一方関東地方は、今夜は寒空が広がって、涙のあとには虹が」
…………天気予報じゃないかもしれないが。
「岩杵さんは」
「あの方は、確か、奥の廊下を進んで二階へ上がった客間の一番右端の個室の方に普段はおられますが……」
「他に、住んでる人っていますか」
「はい、ええと、もう一人、女性の方。石啓 宿さんがいましたが……もともとよく一日中寝ているのか、部屋から出てきたのを滅多に見ることがありませんでした。最近は、やっとお見かけしたかと思ったら、ふらふらとどこかにタクシーで出ていったきりで――帰っておられません」
ああ、そうか電話だ。
それが引っ掛かっていた。
話を聞きながら、思考を進めていたので、まだ何かを言っていた気がするが途中から何を言ったかわからない。気にしないでいいか。
「……そういえば、そんなセキュリティがあるのなら、電話を盗られることなんてないのでは?」
「それが、昨日はシステムの故障で、修理の為停止していたのですよ。その隙をつかれたのかもしれません。とにかく、見当たらなくて」
計画的な故障、意図的な外部の侵入というのも考えられるけど、わざわざ電話なんか三台も欲しい人がいるんだろうか?
うーん。
「あの電話は、どれも希少価値のある高いモデルでしたし……いつぞやのパーティーのときの方かもしれません」
パーティー……どんな感じだろう。
ともあれ、今回の事件とは関連しないように思えるので、あまり考える気もなかった。
そのときまつりの顔が一瞬、はっとしたものに変わった気がしたが、気のせいなのかもしれない。
「それでは、今日のきらきら占い!」
「おい、まつり」
「今日のいて座さんは6位!買い物の最中に何を買うのか忘れちゃいそうー」
「おーい」
まつりは近くの皿を持ち、無表情で下に叩きつけていた。ぶつぶつと何かの番組を呟いている。白い破片が緋田さんの体にやや散ったがまつりには何も見えていなかったらしい。少ししてから気を取り戻したのか、はっと目を見開くと、すぐに畏怖を宿した瞳になった。
「……あ」
「まつり」
呼びかけると、声が届いたらしく、不安そうな目をしながらこちらを見上げた。気分が悪いのかもしれない。
「えっと、その」
「あ、うん、絶好の晴れ日和でお出掛け日……じゃなくて、大丈夫、大丈夫だよ」
「そうか」
皿を割っていたことに気付いたまつりがあやまると、桑指さんは笑顔でいいですよ、安いものでしたし、と言い(ぼくも言ってみたいものだ)片付けをするので、岩杵さんを呼びに行って欲しい、と言われた。
片付けると言ったが、危ないですからと断られた。なので、結局二人で岩杵さんを呼びに行くことにした。
「岩杵さん、岩杵さん、大変です」
激しくやりすぎたかもしれないが、勢いよくノックをした。気が動転していたのだ。
「なんだよ、るせぇな」
「開けてください、緋田さんが、死亡しました」
「………」
意味がありそうな沈黙が、僅かに続いたあと、岩杵さんはやはりドアを開けることをせずに言った。
「あぁ?知るか。おれは今ゲームをしているんだ」
「岩杵さん」
「うるせぇ、もう話かけんな」
「………」
「聞こえてる?」
と、さっきまで、この個室のドアの前でぼくと一緒に立っていたものの異様なほど沈黙を続けていたまつりが声を出した。
「聞こえてない?」
「うるせぇ、話かけんな」
「開けないと、無理やりにでも開けちゃいますよ。じきに警察も来ちゃいます」
「…………」
ドア下の僅かな隙間からまつりが中を覗こうとした。だが、なにも見えない。布が貼ってある。
それを剥がして、考える顔をした。
「やっぱり……」
「何が」
まつりがかがんでいるのが気になり、ぼくもかがんで同じようにそれを見た。テレビがついていて音が聞こえていたがゲームはオートプレイ状態のようだ。そして岩杵さんはいない。ただ、黒いスピーカーが居留守をし、それが喋っているだけだった。
逃げたのか。
そんな言葉が頭を過る。
窓しかないのに、二階の窓から逃げた?
ぼくにはできそうにないが、岩杵さんは体が軽いのかもしれない。岩杵さんは一番犯行動機がありそうだが、逆に、分かりやすすぎるような気もする。
と、いうのは分かりやすいものは犯人という気がしないだけのぼくの独断に過ぎないので、ひとまず考えるのをやめる。
にしても、岩杵さんはどこなのか。
考えながら立ち尽くしていると、いつの間にかひとりになっていた。
「あれ?」
まつりはどこだろう。
キョロキョロしていると、別の部屋のドアから声が聞こえた。
「それは、よくないと思うんだよね」
芯を持って響く声。まつりの声がした。
「もう死んだんだからいいだろうが!」
なんと、岩杵さんの声もする。そういうことだったのか。と理解すると同時にまつりはいつ気がついたのだろうと驚いた。
「よくないよ。そんなんじゃ、お姉ちゃん、宿ちゃんも、悲しいと思うんだ」
「どうして、それを…」
「なんとなく。ちなみに宿ちゃんはお友達」
「なんだよ、なんとなくって!」
ぼくはわかった。
あのスピーカーの隅には、白いペンで岩杵宿と書かれていたのだ。
それから、部屋を少しのぞいたとき、ギターやアンプ、パソコン、CDに紛れて、気の抜けた顔の、たくさんのぬいぐるみ。ファンシーな装飾の本、ヘアゴム、折り紙なんかが目に付いた。モノトーンの部屋で、異彩を放っていたそれが、実はもしかしたら――とは薄々思っていた。
「――ちょっとくらい助けてくれたっていいのに――って言ったじゃん。名前が違うのは結婚しているのか、はたまた別の理由なのかは知らないけど。多額の治療費がかかってるんだよね?ずっと寝てたってのもそのためで、入院してるんでしょ。エックも本当は、それに気付いてたみたいだよ」
「え……」
「岩杵さんは、いつも、《電話で》いろんなところに頼んで……《相談して》いたんだよね。エックはちゃんと知っていたんだよ」
「ならどうして! 金なら腐るほどあるくせにどいつもこいつも、偉ぶって……」
「……お金貸してなんて言いにくいのは理解できるけどね……あの言い方でっていうのは、エックも、いろんな人たちも、そんな気になれなかったんだろうね。エックもはっきり言ってあげたら良かったのに。素直じゃないよ、本当に」
「ふざけんなよ。そこまでわかってて……」
別に彼は怒りたかったわけじゃないのだろう。
ただ、どうしていいかわからないのだ。それは恐怖にも見えた。
しばらく聞き耳を立てていたが、少しの間、何も聞こえなくなった。
どうしたのだろう。ドアに少し近づこうかと思ったときに、ドアが開いた。
岩杵さんがさりげなく部屋のカーテンを閉めた。どうしてだろう。
「ね、桑指さん。それ、下ろさない?」
桑指さんは重そうな彫像を持っていた。瞳は狂気に満ちている。
「あなたは、だあれ?」
まつりも気付いていたのか。
言葉遣いにどきどき違和感を感じたこと。
あまり、部屋に慣れている様子に見えなかったこと。
上げればなんとなく、としか言い様のないこともあるが、桑指さんは、なにか違っていたのだ。ただ、ぼくは気のせいだと思っていた。
「ふふ、あはっ、あはは。あっはっはっはっはははははは! バレました? いやぁ、これは公になると、少々困り物でしてねぇ。あー困った困った、どうしましょう」
桑指さんが笑い出す。こちらに向けて振り上げられた彫像をまつりはなんとかかわした。
衝撃で手から落ちた彫像を部屋のベッドに放り投げると、桑指さんを壁に押し付け、首に手をあてた。
素早い身のこなしでそれを振りほどいた桑指さんはまつりに殴りかかる。
ぼくはとっさにしゃがんでいた体制から立ち上がり、止めようとしたが、それより先に岩杵さんが桑指さんを押さえつけた。
こんなときさえ自尊心が疼いてしまう。
あっはっは、と桑指さんが笑った。それはなにかこの場に似合わず、滑稽にも思えた。
「片付けをするふりで、あの女の携帯電話を探していたんですがねぇ。何もなかったですよ。あなたは知ってます?」
「ああ、エックは、『この電話が終わったら携帯を処分するから』みたいなことを言っていたね。『粉々に砕くの力要るんだよなぁ!』とか愚痴ってた。残念だったねー。そんなに重要な情報が入っていたの?」
「チッ」
桑指さんが起き上がろうとするのを岩杵さんが押さえつける。
目が怖い。
「何に一番困ってんの?
貴方が偽者ってバレちゃうってのがまず第一に、まずいのかな」
「ガキが……」
桑指さんの言葉に、ぼくは怖さを感じた。本音はこんな感じだったのだろう。本当に、桑指さんは「偽者」だったのだ。
「エックは、たぶん、全てに気付いていた。だから、自分で死を選んだんだ。あなたに殺される前に、ね」
そうだ、緋田さんは自殺した。
その事実に、ぼくは何故か驚くことさえ出来なかった。どこかでそう感じていたような気がしてならなかった。
押さえつけられながらにも桑指さんは暴れた。岩杵さんの腹に桑指さんの肘が当たる。うっ、と岩杵さんが呻いた隙に、桑指さんが起き上がった。まつりがおもむろにカーテンと窓を小さく開ける。
「じゃあ、ちょっと助けを呼んでくる」
「どけっ!」
階段をおりようとするまつり。いきなりの行動やこれまでのいろいろに頭が追い付かないぼくは、ぼんやりしていた。
それを押し退けて桑指さんが逃げようと窓に向かう。この下には階段がついているので脱出は容易い。しまった、とぼくは思った。
「貴方が、悪ぶらなくてもいいんだ」
殴られたらしくいたたと頭を擦りながらまつりが諭すように言う。
「なにを言ってるんだ」
「貴方は悪くない。だから、もう」
そう言いながらぼくの視線に気付いたらしいまつりがちらりとこちらを見た。
「大丈夫か」
こく、と頷き、「心配ないよ」と小さく言う。
「……お前、どこまでを知ってんだ」
「実は全部、もうわかっちゃってるんだよ」
そう言ったまつりに、岩杵さんは肩から力を抜いた。少し項垂れたようにも見えた。まつりはごめんね、と言った。
「──実は、すっかり動揺していたんだ。なんか、混乱しちゃってややこしくしちゃったよ。ここに最初っから電話なんてなかったんだから」
脈絡なくまつりはそう呟いた。それには自虐的な響きが含まれていた。
「え……」
「何度か、部屋に行ったことあった。自分の携帯しか、使ってなかった。だけど《あの人》は、間違いに合わせてくれちゃったんだから、驚いた」
あの人が嘘をついていた―――?どうして。どうして、そんなことをする必要があるんだ。
「ここから出るのを引き留めたのも、きっと、事情があったんだろうね」
ねっ、と、まつりはぼくの後ろの方に視線を向けた。気が付かなかったが、桑指さんが真後ろに立っていた。
岩杵さんがさりげなく部屋のカーテンを閉めた。どうしてだろう。
「ね、桑指さん。それ、下ろさない?」
桑指さんは重そうな彫像を持っていた。瞳は狂気に満ちている。
「あなたは、だあれ?」
まつりも気付いていたのか。
言葉遣いにどきどき違和感を感じたこと。
あまり、部屋に慣れている様子に見えなかったこと。
上げればなんとなく、としか言い様のないこともあるが、桑指さんは、なにか違っていたのだ。ただ、ぼくは気のせいだと思っていた。
「ふふ、あはっ、あはは。あっはっはっはっはははははは! バレました? いやぁ、これは公になると、少々困り物でしてねぇ。あー困った困った、どうしましょう」
桑指さんが笑い出す。こちらに向けて振り上げられた彫像をまつりはなんとかかわした。
衝撃で手から落ちた彫像を部屋のベッドに放り投げると、桑指さんを壁に押し付け、首に手をあてた。
素早い身のこなしでそれを振りほどいた桑指さんはまつりに殴りかかる。
ぼくはとっさにしゃがんでいた体制から立ち上がり、止めようとしたが、それより先に岩杵さんが桑指さんを押さえつけた。
こんなときさえ自尊心が疼いてしまう。
あっはっは、と桑指さんが笑った。それはなにかこの場に似合わず、滑稽にも思えた。
「片付けをするふりで、あの女の携帯電話を探していたんですがねぇ。何もなかったですよ。あなたは知ってます?」
「ああ、エックは、『この電話が終わったら携帯を処分するから』みたいなことを言っていたね。『粉々に砕くの力要るんだよなぁ!』とか愚痴ってた。残念だったねー。そんなに重要な情報が入っていたの?」
「チッ」
桑指さんが起き上がろうとするのを岩杵さんが押さえつける。
目が怖い。
「何に一番困ってんの?
貴方が偽者ってバレちゃうってのがまず第一に、まずいのかな」
「ガキが……」
桑指さんの言葉に、ぼくは怖さを感じた。本音はこんな感じだったのだろう。本当に、桑指さんは「偽者」だったのだ。
「エックは、たぶん、全てに気付いていた。だから、自分で死を選んだんだ。あなたに殺される前に、ね」
そうだ、緋田さんは自殺した。
その事実に、ぼくは何故か驚くことさえ出来なかった。どこかでそう感じていたような気がしてならなかった。
押さえつけられながらにも桑指さんは暴れた。
岩杵さんの腹に桑指さんの肘が当たる。うっ、と岩杵さんが呻いた隙に、桑指さんが起き上がった。
まつりがおもむろにカーテンと窓を小さく開ける。
「じゃあ、ちょっと助けを呼んでくる」
「どけっ!」
階段をおりようとするまつり。
いきなりの行動やこれまでのいろいろに頭が追い付かないぼくは、ぼんやりしていた。
それを押し退けて桑指さんが逃げようと窓に向かう。この下には階段がついているので脱出は容易い。しまった、とぼくは思った。
「あああ、開けちゃだめじゃないか、桑指さんに逃げられ……て」
まつりが廊下に尻餅をついたまま笑った。
「下、見てみて」
「え?」
下に警察らしき人達がいた。
桑指さんが数十人に取り押さえられている。
「岩杵さんから、知人にメールして、その人に連絡してもらったんだ。喋ったらばれるからね」
「あ、そういえば、岩杵さんは、あの場に居なかったけど……」
「一階の騒ぎが聞こえたらつい、衝動的に逃げたくなっちまってな。なんかほら、事実聴取?とか苦手でよ。ガキの頃から警察にはお世話になってるし。まあ、そんな感じに知り合いが増えたが」
「……疑われて余計面倒になりませんか」
「ああ、途中からやっと冷静になって、慌てて隣の部屋で電話しようとしたんだけど、そのときにこいつが、ドアの向こう側に気配がする、そいつに阻止しようとされるかもとか小声で言うから、言われた通りに、悟られないように演技なんかしながらメールを打ってたんだ。お前らが来るまでにな。なかなか面白かったけど」
ククク、と岩杵さんが笑った。この前の2時間サスペンスドラマの再現がテーマだよ、とまつりは言う。見てない。
思っていたより面白い人なのかもしれない。
どこから演技だったのか、あえて聞かないでおいた。
このタイミングで岩杵さんのジーンズのポケットが震え、岩杵さんが銀色の携帯を取り出した。そして画面をみせられる。
そこにあった文字に、ぼくは笑ってみる。岩杵さんも笑っていた。
まつりはぽーっと天井にプロペラがあるのを不思議そうに眺めながら呟いた。
「一度抜け出したことがある岩杵さんによると、セキュリティは、玄関だけで、窓の方は手薄みたいだったから、岩杵さんに教えてもらった装置をちょちょっと外すだけで、もしものときは逃走自体、実は出来なくもなかったんだけど、やらずに済んで良かった。本当に頼まれていたのは、あの人の炙り出しだったから」
「誕生日祝いでも、勝負でもなく?」
「さあね」
―――まつりと岩杵さんは一体何者か、という問いについては、ぼくはしばらくちゃんと答えられそうにない。
―――数日後。
しばらくはいろいろなところから質問が絶えず、ぼくらはあわただしく、寝不足になっていたが、最近はもう大分落ち着いた。
そういえば、あとで聞いたのだが、緋田さんの遺言が、岩杵さんの携帯のメールBOXに入っていたらしい。
ぼくは内容まで知らない。噂に聞くには、緋田さんの遺産を岩杵さんのお姉さんの治療費にあてるように、と書かれていたとか。
それから、調べによれば緋田さんの飲んでいたシソジュースのグラスから毒が検出されたようだ。(まつりから聞いた。こいつはどこにそんな情報網があるんだか)
今思うと、どうしてそれに思い至らなかったんだという感じでいっぱいなのだが、だいたいそんなもので、いざとなれば単純なことほど思考を避けてしまいやすいのだ。
「っていうか、あれぇ、エックはシソジュースなんて飲んでいたっけ? 知らなかったよ」
「見てなかったのか」
「うん、お寿司しか見てない」
「そうか」
どうやらぼくだけが覚えていたらしい。言えば良かったのかな。
「でもさ、なんちゃらかんちゃらっていう、ソッコー性の毒だったらしいんだ。エックは、そのときにジュースを飲んだとしてもしばらく生きてたよね」
「グラス、氷入ってたし、それかな」
「さぁ。どちらみち、死んでしまった。それは変わらないな」
「緋田さんは…………どうして、自殺なんかしたのかな」
「他人の気持ちなんて、わかるわけがない。想像しか出来ない。遺産かなにかの場所をってたり? ていうかさ」
「ん?」
「自分で考えてよ」
「ごめんなさい」
今、何気に、とんでもなく無茶苦茶なことを言われたような気がしたが。
なんだったかな。
「ねぇ、なとなと」
「ん?」
「やっぱり、夏々都って呼んでいい?発音しにくいんだよ」
「どうぞどうぞ。むしろありがたい
「そういえば、考えてみたんだ」
「どんなこと?」
「桑指さんは、電話が取られたという事実に嘘をついた、んだとぼくは思っていたけれど、それじゃあ、全く無意味だ。そんな嘘をつかなくても別に困らない」
「え、本気で言ってるの?」
まつりが驚く顔をした。
「いや、だって」
そう、電話がない事実についての嘘をついたわけではなく、最初から知らなかったのだろう。そして、たぶん、偽物が成り代わったのは最近。
つまり、事情はちょっと違い、桑指さんは電話がないことを知らなかったのだ。本物なら「知り得ること」を「知らなかった」ことを知られたくない気持ちがわいてしまった。それが咄嗟に、口から出任せということになったのかもしれない。
桑指さんは嘘ではなく、本当を言おうとして、失敗した、のだ。
「知らなかっただけなんだよな」
「まぁ、嘘は事実がないとつけないし……嘘をついたには変わりないんだけど、その「事実」を知らなかったのは確かなのかもね。」
「結局、桑指さんはどこから来たのかな」
「そうだねー。それについては、いつかわかるかもしれないよね。他の理由も」
「え?」
「なーんてね」
含みを帯びたことを言ったまつりが一人で笑う。
それは、どこか恍惚とした、黒く、寂しく、美しい笑みだった。
ここからは後日談であり前日談だ。とか言うけどあんまり期待しちゃダメだぜ。
ここからは、極めてどうでもよい話なので、なくてもいい気がするが、優しい誰かが聞いていてくれるなら嬉しいのだが。
まつりは夏々都、というぼくの名前を、緋田さんがぼくを呼んだときにようやく思いだしたらしい。つまり、そんな関係だ。
興味のない人や事柄を全く、清々しいほどに覚えない。興味があっても、無くなると忘れる。
それはぼくも同じだが、まつりの忘れる速さは、一般的でない、とぼくは思う。
これについて、いろいろな前科があるが、今語るとややこしくなりそうなのでやめておこう。
住み始めた頃は、よく話をしていて、暇になればぼくの部屋に来ては、にやにや笑いながらゴロゴロしていたのに、ふと、ある日を境に気づけばまつりはぱったり来なくなった。
最近よそよそしくなったなあ。ぼくも忘れられたのかもな、と思いながら過ごしていたのだ。
しかしそんなある日、朝飯を食べようとキッチンまで来ると、先に山盛りのシーザーサラダを頬張る祭が椅子のひとつに座って居て、
「あっ、なとなと!久しぶりー!○月○日に寿司食いに行かねぇかい!」
と、なんとも陽気なノリで話しかけて来た。
なんだ、忘れられちゃいなかったぞ。
だが、あれっ?
ぼくは、確かに、いつぞやかに「行七夏々都です」って挨拶したはずなのだが。
渾名なのだろうか、と思っていたが、後で聞くと、「なとなとだと思っていた」と返された。まぁ、なんにしても、
ぼくはまつりが好きだ。
単純に、いいやつなのだ。だから、細かいことは言わない。
名前で呼んでもらえる、それで充分だ。
「で、さっきから、なにぼうっとしてんの?」
「ああ、新しいバイトでも始めようかと思ってな」
「ふうん。それなら、いい場所が」
「遠慮しておきます」
「まだ何も言ってないじゃない!」
まつりに紹介されることは、なにかと面倒なことが待ち受けているからな、とは言えない。
ちなみに、既に家に戻って来ているぼくたちは、キッチンでお茶を飲みながら会話している。
あの日と同じ場所に、何事もなかったかのような奇妙な空気で、ぼくたちは日常へと戻っていた。
拗ねている顔を見ながら、いつも、夜中に静かにまつりが泣いているのを思い出した。
廊下を通るとき、奥の部屋から嗚咽が聞こえることがあるのだ。
ぼくたちは他人だ。ぼくは何も知る必要がない。
ぼくは、そのことを表に出す必要はない。
だから、そこについては触れないでおく。
それをまつりが望んでいるからこそ、こうしていつも通りに接してくれるのだと思うから。
……ふと、メールの画面を思い出した。
差出人はAとだけ書かれていた。
“連絡しておいたよ。
PS.手術は成功だって。良かったな“
――――あれ?
end.
たくひあい 2023/08/13 16:05
一番始めの頃の原作を載せてみました。
※この頃のまつりは『祭』表記だったんで名残があり、今より元気な性格です。
2007年とかかな。ポケクリに載せて居ましたが、現在ポケクリは音信普通。
輪るアレも、この頃から、なとなとを重大に見えるように改竄しようとしたのかも?
など、様々な作品の元になっても居る作品です。卵とツナを入れよう、という標語が流行りました。作者は特にツナを入れる想定はしていませんでしたねw
あの日――――
『今まで、ありがとう』
と。親友のひとりからそんな電話がかかってきた。
――驚いた。
面倒くさがりやの彼女が、わざわざ私に電話をかけてくることにも。別れの挨拶ような、彼女の言葉にも。
「どうしたの、なにかしたの?」
「いや、そうじゃないんだけど……なんか、最近、うちのまわりがおかしくてさ。近いうちに、私は――」
聞きたくなかった。
最後まで言わせたくなかった。
遮るように、わかった、と言った。
「わかった、わかったよ。今度の休みに家に行くからね。頼もしい男の人も連れて」
そう言うと、少し、間が空いた。
そのとき彼女が何を考えていたのかなんて、知るすべもないけれど。
ふふふ、と小さく、震えた声がしたのを覚えている。
それから、彼女は、ありがとう、と繰り返しのべた。
「……心強いな、優しいね、ありがとう」
「うんうん、だから、ちゃんと……待っててよ?」
「わかった。あんたのそういうとこ、大好きだ。楽しみにしてるね」
「うん、ばいばい」
「またな!」
なんてことない、ただの会話だった。
でも思えば、あれが、彼女との、最後の――――
ぼくは、行七 夏々都 (ゆきしちななと)。
自分の名前が強調しているほど夏はそんなに好きじゃない。
あだなは七行くんだった。
――という我ながら素敵だと自負している自己紹介を思い付いた小さいときから、今に至るまでこの自己紹介を使えたことがない。
「名前なんてどうでも良いだろう」としらけるのは明らかだったし、誰も意味がつかめず、ウケも取れずに失敗すればただの寒いやつである。いや、痛い。ほぼ確実に痛い。
実は想像するだけで、意識の奥に潜在するマゾヒストな精神が一瞬戦慄して、そこからすぐに歓喜しそうなところだったりするが、やはりそうと言えどもチキンなぼくにはどうしても使う勇気がなかった。
一瞬の快楽ですべての信頼を失いそうな感じがする。
それこそ、好きな人に好きだという方が易いくらいだと思う。
ああ、痛い。心が痛い。やってはいけないと思うほどやりたくなるのはなぜだろう。
ぼくの欲求は、たぶん、満たされない。
欲求ってのはそんなものであり、いざ全てを満たしてしまえばいろいろ人生が終わってしまうのだと思う。
ぼんやりとくだらないことを考えながら、予定の時刻をもう30分すぎている柱時計を見上げる。
呟いてみた。
「まだ来ないのか」
そのとき。
待ち合わせていた人物、佳ノ宮 まつり(かのみや まつり)が両手を伸ばして勢いよくやって来たのが見えた。
なので、ぼくしかいないような寂れたこの公園の噴水から離れると咄嗟に後退り、走り出すことにした。つまり距離をとる。
まつりは、一応幼なじみだ。
嫌いではないが、最近はいつもこうやって抱き付こうとしてくるので、ぼくとしてはつい距離を取りたくなる。誰かに触れられるのはどうも苦手だ。
しかし、どうもやつは、嫌がるぼくの表情を楽しんでいるような悪趣味なやつである。我慢出来なくもないけど、とくに、こんな外で、こんな暑い日には全くやめて欲しい。
「なんで逃げる」
「追われると逃げたくなるんだよ」
裸足で走ってくるまつりの元気さはどういうことなんだろう。
いや、裸足? 靴を履け。公園の、なにが落ちてるかもわからないような道で足を怪我したらどうするんだよ。
「まて」
「嫌だ」
ぐるぐる駆け回る。
しばらくはぼくの優勢だったはずが、あいつはわりと足が早いので運動不足のぼくは、情けなくもすぐに追い詰められた。
ついにすぐ近くにまつりが見え、あーあと思っていたのだが、相手は来ない。
「ん?」
不思議に思い振り向くと、相手は地面に寝そべっている。大地の音でも聞いているのだろうか。それなら壮大な趣味である。
「……大丈夫か?」
「いたいです」
まあそんなわけもなく、普通に転んでいた。
擦りむいたのか、足の裏から血が出ていた。(なぜか膝にはほとんど傷がない)
一部の趣味の方なら舐めたりするのかもしれないが、ぼくは残念なほどにそんな期待に応えたりしない。
「あーあ、裸足で走るから」
「なとなとが待ってくれないからじゃん。靴は歩いてるうちにどこかに消えちゃったしな」
「はいはい、すごいレベルで足に合わない靴を履かないようにー」
まつりが言うには、あいつは男でも女でもないらしい。しかし、小柄だし、顔立ちは、目がきらきらしていて、正直なところ可愛らしかった。
「おぶってよ」
「……ったく、靴どこやったんだよ」
しゃがむと背中に凭れてきたまつりを背負う。
重くはないというか軽いくらいだ。それにしても、軽いのは関係ないが、人を抱えるっていうより、そういう砲を装着したような気分だった。
──こいつとの関係は、いつも変わらず、変わり続ける。
こんなことをするのも、おそらく今回だけだ。
《ある事情》で《現在》記憶を一部喪失中、のこいつ、まつりは、 今、ぼくを見ても、きょとんと、愛玩動物みたいな反応をしていた。
確実に覚えているものに、すがろうとしているのだ。
愛着があるから、呼び掛けて、執着するから、引っ付いてくる、たったそれだけだとは自覚しているが、頼られるのは、悪い気はしない。
今から靴を探す気力もなかったので、歩き出す。どうせ帰り道のどこかに落ちているのだろう。公園を奥の出入り口から出て、来た道と反対をさらに奥まで歩く。
この先に目的地があった。
目的地。
それは招待された人の家。遠くからもよく見えた、大きな屋敷だ。
ぼくには一生縁がないと思っていたそこに、こんな形で入ることになろうとは。
同じ家に住んでいるまつりが、『友人のところに行くのだけど、友人がぼくを気になっているようだから一緒に来てくれ』と言ってきて、ぼくが断ったのはつい三日前。
了承するまでの間ずっと機嫌が悪かったので(いつも担当していた料理をしてくれなかった)ぼくが折れたわけだが、こんなところにこられるなら頑なに拒まなくても良かった気がしてくる。
ああ、それにしても遅刻してしまったのだが、理由としてまつりを背負っているというところから適当に推測してくれないだろうか、という淡い期待を持ってみたりしながらインターホンのボタンを押した。
「あ、夏々都くん、待ってたよ」
声の主は緋田 江國(あかたえくに)さん。ぼくと祭を呼んだ本人だ。まつりの友人のひとり、らしい。
まつりがぼくのことを話して、それでぼくに興味を持ってくれた、らしいが、本当は二人がなにを話していたのだかわからない。
一度それとなく尋ねてみたが「かっこいい彼氏がいるって言っといたら会いたいって頼まれたんだよー!」といかにも白々しく満面の笑みで言われたので、それではないことはわかる。
あいつは常に、自分が興味がない話題についての返事が適当なのだ。というか、彼氏でさえない。
「おーはよ、あかちゃん」
にこにことまつりがインターホンに話しかける。実はまだ、門さえ開けてもらえていないのだった。
「ベイビーみたいなノリなのか、それとも緋田だからあかちゃんなのか知らないが、その名前はやめろ」
緋田さんがつっこむ。
素早いつっこみだ。師匠と呼びたくなってしまうがたぶん師弟関係は嫌だ。
「おはよーあかたん」
「却下だ」
以下略。
「おはよ……エック」
少し疲れたように呟くまつり。うふふふ、とインターホンごしに笑い声がした。
「まあ、このくらいでいいか、待ってて、今、開けるから」
そう言われると同時に、門が開く。
「なんなんだよ」
小声で呟くと、まつりが笑いながら愉快そうに答えた。
「パスワードみたいなものだよ。成立しないと入れて貰えないの」
なんだ、そりゃ。
中にはいってすぐ。
「こんにちは、緋田エックです!」
真っ直ぐ挨拶されたのでぼくはどうすべきか戸惑った。長身美人系のお姉さんっぽい、20~30歳くらいの人が、まさに赤いカットソーを身に付けて、うはははと笑っている。
「エックの誕生日だからお寿司食べようってことなのさー!」
背中の上が大きく揺れた。おいやめろ、落ちるぞお前。
「はあ、そう、なんだ」
ノリに、付いていきづらい。
この空気からするとぼくはエックと呼ぶべきなのだろうか
「エックさんってよんでな!」
とそのとき心を見透かされたような声がかかってぼくはびっくりした。
そしてやっと部屋に通された。背中にいるまつりの案内で来たときにも「おっきいよ!」と聞いていたが、本当に大きい家だ。そういえば、そろそろこいつを解放しないといけないだろう。
「……あの、こいつ、怪我したみたいで」
「えっ、マジで!」
「そうなの?」
まつりも驚いていた。なぜお前も驚くんだ。
「転んだらしくって。それで、痛いらしいので背負っていたんですが」
「気がつかなくてごめんなさい。待ってて、救急セット持ってくる」
ぱたぱたと部屋の奥に消えていくエックさんを待つ間、広いロビーのソファーに座ることになった。
なんの仕事をすればこんな屋敷が買えるのかな、とか考えてみる。
ソファーはふかふかでさわり心地が良かった。半分以上を寝そべってほぼ独占するまつりが結構うらやましい。
ふと周りを見渡すと、そばのテーブルにバラの花がかかれた瓶が飾ってある。高そうだが、これはいくらするんだろう。
コンコン、とノックが聞こえたあとに扉が開く。緋田さん(やっぱり呼びにくいのでこっちにする)かと思ったのだが違った。
「わざわざお越しくださり、本当にありがとうございます。飲み物は、なにが宜しいでしょうか」
「えっと……」
「このお屋敷に仕えている桑指健(くわし たける)さんだよ。珍しい名字だよねー」
桑指 健さんの着ている服は、そういえばテレビで見たことがある気がする……これを燕尾服というのだろうか、ぼくはそれをはじめて見た。
「珈琲ー」
「ぼくも珈琲がいいです」
まつりの好みは知らないが、ぼくは紅茶が苦手だった。
「かしこまりました」
綺麗なお辞儀をして奥に消えていく桑指 健さんと入れ違いに緋田さんが入ってきた。やっぱりエックと呼ぶのになぜか抵抗がある。ぼうっとしていたが、ふとまつりを見ると起き上がっていた。
緋田さんが救急セットから出した液で足を消毒している。
「いたっ、いたたい、いた……あっ、い、たっ、ひっ」
まつりは叫びながらおとなしく座っていた。丁度ドアが開き、桑指 健さんが珈琲がふたつのせられたトレーを運んできた。目の前のローテーブルに置かれる。
「あっ、エックのは何でないの」
「申し訳ございません。お見えにならなかったので」
ふうん、と言って緋田さんは救急セットからテープを取り出した。
「おい、バカ卵」
ぺたっと足の裏にガーゼとテープを貼られた祭が滑ってこけそうーと悲しそうに言っているときだった。
ばん、と乱暴にドアが開けられる。ぼくは驚いて、なぜかソファーからひっくり返ってしまった。
岩杵 灯(いわきね ともる)。この屋敷の一室を借りて住んでいるらしい。
機嫌が悪いらしくかなり鋭くガンを飛ばされた。赤い髪をしていて、重たそうなクロスペンダントを首にかけている。背が高かった。
「あ?なんでこいつ、ひっくり返ってんだ」
くっ…… とまつりが笑いを堪える音がした。
急にぼくから顔を背けて肩を震わせている。ぼくは起き上がる。
「バカ卵だと?そい……つは誰かな」
緋田さんが岩杵に聞く。
心なしか声が今にも吹き出しそうに震えているが気にしないでおこう。
「お前以外に誰がいるんだよ、卵」
「私は緋田江國、エッグじゃねえ、エックだ!」
「あー。なとなと大丈夫ー」
「うん」
こいつは空気を敢えて読まないらしい。それに救われることもあればそれで怒られることもあるが、今回は少しありがたかった。
その間、彼、は彼女に絡んでいる。
「また金貸してくんねえ?」
軽い台詞だなあ。
と思ってしまうのは、あまり、受け入れたくない世界がある事実や、心境が、現実から目を逸らさせているからだろうか。
「私を侮辱しておいてなんでそんなこと頼むわけ」
あっさり、怒りを買ったようだった。
侮辱しなければ、考えてくれそうな発言にも思えたが、こんな場所に住むようなお嬢様には気負いが少ないのだろうか?
「そんなの、挨拶だろ?カッカすんなよ」
「ふざけないで。この前のも返してもらってないんだけど」
石杵さんからは煙草とアルコールの匂いがした。
「んー、高そうな、マイルドな匂い」
まつりが呟いた。
ぼくにはよくわからなかったので適当な相づちを打った。
「お前はいいよな。一生働かなくていいような財閥に生まれて。おれに渡すくらい、些細なことだろーに」
「そういう問題じゃないでしょう」
「あん?」
緋田さんの方に岩杵さんの拳が向かう。このままじゃ殴られる。
そう思ったが、緋田さんは殴られなかった。まつりがぱしっ、と拳を両手で止めたのだ。
「ちょっとくらい……助けてくれたっていいのによ」
ちっ、と舌打ちをして岩杵さんは奥の部屋に戻っていった。
それを見届けてから、まつりは緋田さんに問う。
「最近電話で相談してたの、あの人なんだな?」
「そう。そうなの」
緋田さんは苦笑いだ。
相談って何か気になるが、ぼくが聞くことでもなさそうなので口を挟んだりしなかった。
「ふうん、大変だね」
「あはは」
コンコンとまたノックが聞こえ、すぐに桑指さんが入ってきた。
「お食事の準備が整いましたよ」
そういえば、こんなに大きな家だけど、仕えている人は桑指さんしかいないのだろうか。それとも、別の理由があるのだろうか?
疑問に思ったが、まあ踏み込む必要も無いか、と思い直した。
下に降りるよ、と緋田さんが言った。祭は嬉しそうに足を踏み出して、すぐに涙目でしゃがんで、またよたよたと、足の角度を傷が当たらないように調節しながら歩き出した。
今閃いたらしい。ああ、そういえばぼくもお腹がすいた。
階段を降りて右に曲がった部屋に通された。
開けるとまさに想像通りに大きく白いテーブルがあり、どこかでテイクアウトしてきたらしい寿司が沢山あった。
「おいしそうー」
と、ごきげんで近くの席に座りだす祭にぼくはどうすべきか戸惑ったがとりあえず隣に座った。
「好きなの食べていいよー。なかったら頼むから」
「はい」
「いただきまーす」
このなかにないものがあるのかを問いたいような豊富な寿司が並んでいて圧倒されるぼくの横で祭がまぐろの寿司を掴んで口に放り込んだ。わさびはつける派らしいが、醤油はつけない主義らしい。
うーん。ぼくは醤油もわさびも沢山つけたいタイプだから、理解できない。
まあ、美味しいならそれでいいか。
「あっ夏々都くんは醤油つけるタイプかな?」
赤いカットソーの腕を捲りながら緋田さんが聞いた。
食事の前は腕を捲るらしい。
気合いを入れるのだろうか。
「はい」
「ひょうゆいらなーい」
「だろうね。フェスは野菜もサラダ以外ドレッシングかけないやつだもんな」
あーん、と祭が二つ目のまぐろを食べている。あだ名に突っ込んだりはしない。美味そうに食べるやつだ。素材の味を堪能したいらしいが、本当に堪能しているのがわかる。
「じゃあ、醤油入れるから夏々都くんの後ろにある棚から、小さい皿出してくれない?」
振り向いて、後ろにあった木製の立派な棚のなかから目についた小さい皿を二つ出す。一枚を緋田さんに手渡し、一枚を自分の目の前においた。
「おっありがとー!タケちゃーん。醤油ー!」
そういえばこの部屋には醤油がなかった。寿司の入った黒く丸い入れ物はこれだけあるのに。
「申し訳ありません。今、手が離せなくて」
奥のキッチンの方からタケちゃんこと桑指さんの声がした。フライパンを使っているらしい。
「なにか作っているのかな?気合い入ってるね、嬉しいなあ」
緋田さんがふふ、と笑う。「あ、ぼくが…」
「とってきてあげるよ」
ぼくが行こうとしたのだが、玉子と海老の寿司を二つ口に押し込んだ祭が立ち上がって、また一瞬悲痛な顔をしてはすぐに表情を戻し、足の角度を少しあげながら歩いて行った。
少しして桑指さんと祭の声がした。
キッチンのどこに醤油があるか聞いているらしい。
ぼくがいくらを口に放り込んだときに祭が戻ってきた。
そのとき、いくらはあまり好きではないのだが、なんとなく食べていたぼくは変な顔をしてしまった。
「さんきゅー」
緋田さんが受け取ったのは中身の見えない、醤油と書かれた2000ミリリットルくらいのボトルだった。
ぼくは家で醤油をかけるとき、醤油入れと呼んでいる小さな瓶に 入れているのだが、ボトルからそのまま醤油を付ける人もいるみたいだ。
「あれ、これもうないじゃんー!」
緋田さんが醤油をボトルから皿に入れながら残念そうに声をあげた。ぎりぎり一皿ぶんくらいだ。緋田さんのぶんは足りるが、ぼくのぶんはなさそうだった。
「タケちゃーん、醤油の新しいのってあるー?」
「つけずに食べちゃえばいいのにー」
「うーん……」
確かにそうなんだけど、それはそれで、緋田さんがせっかく頼んでくれているのを無下にするような気分になるし、複雑だった。
「すみません、切れていたみたいです。ちょっとそこまで買って来るので」
台所から、戸棚を探しながら桑指さんが言う。
わざわざそんな手間をかけさせるなんて、とぼくは申し訳ない気持ちになってしまった。
「いいです、ぼくも醤油は無くて」
「あーれ、そういえば、普通付属に醤油がついてるもんじゃあ、ないのかなあ?」
祭が不思議そうにキョロキョロと周りを見たが、醤油はなかった。
「さあね? そうかなのかな。家にあるからって断ったんじゃない?桑指さんってエコ好きだから」
緋田さんが気に止める気もなく醤油をイカにつけていた。
美味そう。少しわけてもらいたいくらいだが、女子と同じ皿の醤油を食べるというのには慣れないというか出来そうにない。
はっきり言おう、勇気がない。
「そうなんだ」
だから、ついてたら良かったのになと少し思った。
イカを食べるかと思いきや醤油をつけて、皿に置き、次は海老を取ると醤油をつけて、皿に置く緋田さん。
彼女の嗜好が指すものがまったくわからない。
並べるのが楽しいのか。
ぼくはとりあえず近くのサーモンを食べた。サーモンは一番好きだった。とても美味しい。
「美味しいよー!やー、エック、生まれてくれてありがとー!」
生まれて……そうだった、確か今日は。
ぼくはすっかり忘れて食べていた。
「あのっ、お祝い、何も用意してませんが……」
「んあ、どういうこと?」
緋田さんは、どこにあったのか、真っ赤な液体、もといシソジュースをぐびぐび飲みながらこちらをみた。強くシソの匂いがする。
「あの……一緒に食事させてもらうだけで……ぼくはその、祭についてきただけですし……誕生日を祝ってるというより……」
「えっ誕生日?」
緋田さんが驚いた顔をした。
「え?」
なぜそんな顔をするんだろう。
今日は、緋田さんの誕生日なんじゃ。
「フェス、お前、まーた適当なこと言ったな」
「美味しいー美味しいよ、このお寿司!」
「今日は誕生日でもなんでもないよ。この前フェスとナンプレとダイヤゲームで勝負してね、フェスが勝って、私が寿司を奢るっていうことになっていたんだ」
「えぇ……」
なんだそりゃ。
「そして、注文しすぎちゃってさ。てへへ」
「それで、任せろって、言ったんだよー」
《今の》まつりは一人称を使いたくないらしく、仕方ない状況以外めったに使わない。一瞬なんのことかと思ったが、任せろと言ったのはぼくを呼ぶことだったらしい。
「なんでもいいけどさ」
呟きながらふと気になって隣を見るとまつりがまたもやどこかにあったらしい麦茶の入った重たいボトルを差し出してきた。
グラスを手に持っているようだ。キャップを回してみる。なかなか開かない。
「う、おおう」
負けるわけにはいきまいと力を込めてキャップを回す。すると、だんだん回るようになってきて、なんとか開いた。手が赤くなる。
「すごい」
まつりは感心している。
その手に握られたグラスに麦茶を注いでやると、ありがと、と言って口をつけはじめた。ぼくも近くにあったグラスに麦茶を注ぎ飲み干した。
「醤油が染みてきた!よーし、食べるぞ」
正面を見ると緋田さんが寿司を両手にもっていた。
ようやく食べるらしい。よくわからないが、なんともこだわりのある人だ。
「その儀式まだやってんの。早く食べないと、全部消えちゃうんだよ」
まつりがだるそうに言った。
ぼくは次に何を食べようかなと視線を巡らせる。
よし、タコだ。
「ううっ」
えっ、と顔を 上げる。
緋田さんから、嫌な声がした。
「エック、エック?」
ぱたり、と倒れる緋田さん。目を見開くまつり。ぼくも一瞬硬直してしまった。
「どしたの、ねぇ、エック…ねぇ」
動揺のあまり揺さぶろうと近づくまつりを制止する。
「緋田さん、緋田さん! 聞こえますか」
緋田さんからは返事がない。
近寄って息を確かめる。もう明らかに、息をしていなかった。
彼女の口からは独特というか、表現しがたいのだが、なにか、あまり嗅がない臭いがした。ゆっくりと、彼女が飲み下せなかった泡が伝っている。
「……とにかく、で、電話、電話しなきゃ」
まつりが電話を探して立ち上がる。目は潤んでいた。
ぼくも電話を探してみるが部屋に電話が見当たらない。こんなに広いのに、こんなに物があるのに、どうして電話がないんだ。
「ない…電話自体がない!なんで…桑指さん!」
どうしました?と事態を把握していないらしい桑指さんが、奥の方から戻ってきた。
フライパンの音はそういえばやんでいる。
三段重ねのホットケーキが入った皿を両手に抱えて歩いてきて、立ち止まった。
「お…お嬢様?お嬢様、いかがなさいましたか?お嬢様」
目を愕然と見開いてふらふらと緋田さんに近づく桑指さん。
「寿司を食べたら…急に…呻いて……あ…あああ…あああ…ああああああああ」
まつりがぽろぽろと泣き出す。体はやはり震えていた。
■続く■