オリジナルを作らない自分のifを考える
もし自分がオリジナルの作品「Revive Noah」を作らなかったら。
もし自分が、どこかの創作サークルに入り、プログラマーなり、デザイナーなりをしていたら自分はどういう風に上達をしていくだろうか。
今日はそんなifを考えてみるヘンな記事です。
前提
自分はオリジナル、というより「終末世界を自分の手で独自の世界観で描く」ことを目的としたプロジェクト「Revive Noah」を作ることが目的としています。
その中で、成果物として見えるものとして「サウンドノベル」「イラスト」などを作っており、ゲームを作ることやイラストを描くことは手段の一つでしかないわけです。
自分で作ること、自分の解釈を全面に出すことが大前提になっているため、敢えて取り組んでいないことや言ってしまえば機会損失とも思えてしまうことをかなりしています。
今回はその点と比較する形で自分のifを考えてみようかという、考えのベクトルを変えてみたお話。
ぶっちゃけ非常にしょーもない話なのでご注意ください。
機会損失
現状自分は、初見の他作品を観た1週間ほどは制作の進捗を止めるようにしています。
これは自分が割と流されやすい性格をしていて、すぐ他作品の影響を受けてしまうので、そ
れを防ぐため。
また、他作品を長い時間噛みしめるために、自分の作品や制作のことを考えない時間がほしいという期間づくりの意味合いもあります。
逆に言えば、制作を進めるためには他作品のインプット数を制限する必要があるということ。
ぶっちゃけこれは機会損失で、もし自分が自分のため以外の理由で創作をするのであればこんなことはしていないと思います。
自分だって世の中の作品は観れるだけ観たいという気持ちはあります。
似たような話で、イラストも正しい上達方法は誰か一人師匠を決めて、その人の描き方を学んでいくのが正しいやり方。
自分のやり方は、過去の自分の絵で気に入ったものをより良くするという形で進めています。
なのでイラストとして論理的なものは描けませんし、流行りのイラストに乗っかることもできず、手癖で描く方法から脱却できません。
これがもし、誰かのために描くイラストであればここまで言ったことの真逆。
流行りに寄り添い、論理的なイラストを学び、それを成果物に活かす。
「自分」という個性なんて、成果物が出来てしまえば自然と反映される。
それが創作であるというのは自分でも正しいことだと思っています。
「遊び」の域を出ない
自分のしていること、出来上がったものが「遊び」の域を超える。
「遊び」であるか否かという部分は結構大事なことだと思っていて、
これが継続力やクオリティに大きく影響するものだと考えています。
これについて詳しく書こうとすると非常に長い記事になってしまうので割愛しますが、ここ最近の自分の制作における考え方に深く関わる部分なので、後に記事にしようかと思っています。
ただ一つだけ言わせてもらうと、昔はこのことを「悩み」としていたんですが「そもそも遊びの域を出ることが自分にとってやりたいことなのか?」ということを考えてみると、意外とそうではないことに去年気づきました。
今ではこれを「悩み」ではなく「自分」であることを認めて、そうして出来たのが「Re:Bible」なんじゃないかなとも感じています。
逆に「Revive Noah」を作らず、二次創作や他のコンテンツに携わる自分がいたとしたら「遊び」の域を超えるつもりで創作をしていたのかもしれません。
さいごに
珍しめの記事を書いたことで、結構ヘンな記事として出来上がってしまいました。
というか、頭の中では色々と考えていることがあったんですが、いざ自分の制作とifの創作を想像した上で文章にしようとしてみると結構難しい部分や、明らかな支離滅裂感が目立ってしまうため、ちょっと自分の中の一部分だけ公開という結果になってしまったのが少し残念。
間違えてはいけいないのは「Revive Noah」を作っているから真っ当な制作が出来ていないんだという主張がしたいのではありません。
今後も制作環境ややり方だって変わるかもしれませんし、本当に「自分は今のやり方で良いのか?」というヒントになると思って書いた記事になります。
まあでも、なかなか珍しい考えのトレーニングが出来たからヨシ!としますか。
というわけで……閉幕!!