『和ノ風 ~この街には物書きが住んでいる~ 』 第二話「桜に導かれて」

 そよ風が春の薫りを運ぶ中、真緒の時間だけがしばらく止まった。
 零之介と名乗る目の前の男性は、ただ静かに真緒を見つめている。表情は穏やかな感じそのもので、彼女の様子を窺っているようだった。

「あっ! す、すみません!」

 慌てて我に返り、真緒は立ち上がった。

「和井さん……でしったけ? もしかして、あなたが助けてくださったんですか?」
「えぇ、なんとか間に合って良かったです」
「あの、本当にありがとうございました! おかげさまでこの通り、怪我もありません」

 真緒は深々と頭を下げた。もし零之介の助けがなければ今頃、人生で最悪の思い出をひとつ増やす羽目になっていたに違いない。

「いえいえ、お嬢さんがご無事で何よりですよ」

 彼女の様子を確認した零之介は安堵の表情を浮かべた。そして、

「では、僕はここで失礼しますね」

と言い、彼は真緒に背を向け、ゆっくりと歩き始めた。
 舞い散る桜の花びらが彼女の視界に入るたびに、紺色の背中が少しずつ遠のいていく。
 やがて彼の姿が遠くに消えるまで、真緒はその場に立ち尽くしていた。

「……さて、そろそろ私も行こうかな」

 真緒はそう言うと、一本の桜の根元に置いていた通学鞄を持ち上げた。

カラン

 同時に軽い音をひとつ立て、何かが散歩道の固い地面の上に転がった。
 おそらく知らない間に、真緒の通学鞄の上に乗っていたのであろう。

「あれ? これ、なんだろう?」

 真緒が拾い上げて観察すると、それは丸い花の形をした木製のお守りであった。
 とても軽く、大きさは手のひらと同じくらいある。表面にはいくつかの文字が掘られており、微かに桜の香りがした。
 しかし何より気になっていたのが、まだほんのりと温もりを感じたことである。

(確か私の鞄は、桜の根元の日陰に置いておいたはず。ということは、これは誰かが落としたもの……まさか!)

 真緒は咄嗟に辺りを見渡すが、もちろん誰もいない。
 急いで通学鞄を肩にかけると木製のお守りをポケットに入れ、桜並木を後にした。

「おそらく、和井さんが歩いて行った方向は……」



 少し走っては軽く息を切らすのを繰り返しながら、真緒は「若葉通り商店街」へと辿り着いた。
 若葉通り商店街。
 ここは食料品店や飲食店を中心とした、多種多様な店が並ぶ昔ながらの商店街である。また梶宮市の中心的な通り道でもあり、地元の人たちからも長年愛されている場所だ。
 時刻は既に午後1時を過ぎており、飲食店も客足が減って落ち着いている様子が見て取れる。

「和井さん、まだ近くにいると良いんだけど……」

 真緒は先ほどよりも歩調を緩めながら、零之介を探した。

「あっ」

 程なくして、真緒の口から自然と声が漏れた。
 その視線の先には、商店街の一角にある建物に入っていく零之介の姿があった。

(見つけた!)

 小走りで彼を追いかけるように、真緒は入口の前まで近寄る。
 そこは二階建ての一軒家であり、一階を飲食店として運営しているようだ。入口近くの看板には「うどん・そば屋 山彦」と書かれており、藍色の暖簾も出ている。
 真緒はひとつ深呼吸をして、入口の引き戸を開けた。

「へい、いらっしゃい! 空いているお席へどうぞ」

 店内に入ると、厨房のほうから店主と思しき制服を着た中年男性が出迎えた。
 短く切った髪に、明るい顔つきと声色が特徴的だ。

「えっと、実は……」
「おや? あなたは先ほどの」

 真緒が説明をしようとしたところで、零之介から声をかけられる。
 声がした方を向くと、入り口から少し離れた場所にあるテーブル席に彼が座っていた。

「あっ、和井さん! 探しましたよ!」

 そう言って真緒は零之介のもとへ歩み寄り、ポケットから木製のお守りを取り出した。
 零之介はそれを見るや否や、少し動揺した様子で作務衣の上から何かを探すように弄る。
 しばらくして何かを確信したあと、彼は真緒からお守りを受け取った。

「ありがとうございます。このお守りは、間違いなく僕のです」
「良かった! やっぱり和井さんのでしたか」
「えぇ。このお守りは、とても大切なものでして……」

そう言って彼は更に、「一体、いつ落としたんだろう?」と小声で呟く。

「お嬢さん、本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げれば良いか……」
「いえいえ! 私の方こそ先ほど助けていただいたお礼もできたので良かっ」

ぐぅうううぅ……

 突如、真緒のお腹から鳴った音が言葉を遮る。
 両手でお腹を押さえると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

「そういえば私も、お昼ごはんがまだでした……あはは」

 一部始終を見ていた零之介も、口元を緩めた。

「お嬢さん、もしよろしければ一緒にいかがですか?」



「そういえば自己紹介がまだでしたね。私は西田 真緒といいます」
「真緒さんですか。とても素敵なお名前ですね」

 自己紹介を終えた真緒は零之介の向かいに座り、昼食を取ることにした。
 注文の品を待つ間、真緒は店内を軽く見渡す。
 木を基調とした少し広めの店内は清潔感があり、どこか懐かしさを感じるような温かみを醸し出している。テーブル席には他に二組の客が座っており、穏やかな表情で食事を楽しんでいた。

「はい、お待ちどお!」

 しばらくして大将が、木製の脇取盆(一度に数個の椀や皿を運ぶ、給仕用の盆)に乗せた料理を運んできた。
 同時に出汁の上品な香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
 真緒の前には「海老天うどん」、零之介には「きつねうどん」が並べられた。

「おっと、これはサービスだ」

 そう言って大将は、味噌が塗られたおにぎり二個ときゅうりの漬物が乗った皿を一緒に置いた。

「ありがとうございます、大将」
「こっちこそ! いつも寄ってくれてありがとね、零くん」

 大将と呼ばれた中年男性は、嬉しそうに零之介と言葉を交わした。
 傍から見ている真緒も、
 
(きっと大将さんの人柄も相まって、お客さんたちに愛されているお店なんだろうなぁ)

と心の中で呟いた。
 
「それにしても……」

 大将がちらりと真緒の方を見る。

「まさか零くんが、こんなに可愛いお嬢ちゃんと知り合いだったとは思わなかったよ!」
「彼女は先ほど知り合った、真緒さんです。それに今日は、ここのうどんを食べたかったのでね」
「かーっ、嬉しいこと言ってくれるね! 真緒ちゃんも、温かいうちにどうぞ!」
「あ、ありがとうございます!」

 笑顔で厨房に戻る大将を見送ると、二人は向き直って合掌した。

「「いただきます」」

 声を揃えた後、真緒は箸を手に取った。
 ほんのりと湯気の立つうどんを一口啜ると、柔らかな麺の食感と出汁の香りが口いっぱいに広がる。
 自然と真緒の頬が緩んだ。

「あっ、おいしい……!」

 続いてそのまま、海老の天ぷらにかぶりつく。
 サクサクとした衣に、ぷりっとした海老の食感が合わさり、「幸せ」という文字がそのまま表情へと滲み出ていた。

「気に入っていただけましたか?」
「はい! うどんも天ぷらも、すごく美味しいです!!」
「それは良かったです。麺やお出汁は勿論、おにぎりやトッピングの品まで、大将の仕事は丁寧ですからね」

 零之介は小さく微笑みながら、甘辛く味付けられた大きな油揚げにかぶりついた。 



 食事を楽しんだ二人は、大将が持ってきた急須で緑茶のおかわりを貰いながら、しばらく寛いでいた。お昼の営業時間のラストオーダーも過ぎており、今いる客は真緒と零之介のみである。
 大将も「ゆっくりしていってね!」と言い残し、厨房に戻っていった。

「そういえば、真緒さんは学生さんですか?」
「はい。梶宮高校の一年生で、今日から春休みなんですよ」
「なるほど、お昼頃に帰宅する学生さんが多かった理由がわかりました」
「修了式の関係で、午前中で学校も終わりましたからね。もちろん宿題とかもありますが、私も思う存分楽しもうかと……」

 ふと、真緒の脳裏に進路希望調査票の件が浮かび、言葉に詰まった。

「真緒さん?」
「あっ、いえ! なんでもありませんよ! ところで和井さんは、さっきの桜のところで何をされていたんですか?」
「僕ですか? あの場所で、ちょっと書き物をしていました。普段は家にいることも多いのですが、今日は天気も良かったのでね」
「書き物?」
「えぇ。これでも一応、物書きなので」

 そう言って零之介は斜めがけの鞄のように結ばれた風呂敷から、一冊の本を取り出した。
 鮮やかな緑色の紐で綴じられた「和綴じ本」であった。
 大きめの手帳ほどのサイズで、朱色の表紙に白い麻の葉文様が入っている。
 彼がページを何枚か捲ると、そこには文献で調べたと思しき情報や小説のものらしき一文など、様々な文章が綺麗にまとめれている。
 
「わぁ、すごい……!」
「こちらはいわゆる、覚え書きやメモのようなものと思ってください。小説の執筆や依頼などに使えそうな知識や情報を書き留めているだけですよ」
「なるほど! ちなみに依頼っていうのは?」
「小説以外にも依頼を受けては文章を作成したり、時には悩み事の相談にも乗ったりしているんですよ」
「へぇ、面白い! 物書きさんって、色々されているんですね」
「いえいえ、僕はただ」

 零之介は途中で湯呑に入ったお茶を少しだけ飲み、

「自分のやりたいことをやっているだけですよ」

 と真緒に向き直って言った。

「やりたいこと、か……」

 ぽつりと呟いた真緒は、湯呑に残ったお茶にしばらく視線を落とした。
 淡い緑色の水面には、どこか浮かない顔の彼女を映していた。

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