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なつき戦史室 2023/12/31 18:46

二〇二三年の戦史感想

今年は去年にも負けず劣らず本を読んでいない。困った。生活の環境が変わり、腰痛に悩まされ、歯の痛みに悩まされ続けた。それでも、読んだものが多少あるので紹介したい。



一、hajimemasite「浸透戦術という幻」

わたしは十年間ぐらい第一次世界大戦史を調べていたので、浸透戦術(注1)という言葉には格別の思いがある。浸透戦術は、ドイツ軍の常勝戦法のように雑に語られているが、対手である英仏軍も似たような戦術を大戦後半に採用していた。

第一次大戦の西部戦線史は、旧来型の散兵線の戦いから、現代戦に連なる第二次大戦型の戦術の変化の歴史だ。これは第一次大戦を調べていけば自然とわかる。

第二次大戦の歴史から第一次大戦を見てはいけない。英仏軍、とくにフランス軍は第一次大戦前の用兵思想の迷走から壮絶な変化を遂げた。膨大な戦死者を捧げてドイツ軍と張り合い続けた。大戦末期にはイギリス軍とフランス軍は列強軍事界の最先端を走るようになっていた(注2)。

わたしも「ドイツ軍だけが最先端を走っていたわけではないよ」というのをいつか書きたかったのだが、英語が苦手なので書けないでいた。そんなとき@hajimemasiteさんが完ぺきな内容で書いてくれた。それもわたしが構想していたとおりの内容で。

一九一八年の戦いはそれまでの作戦・戦術の変化の総決算だった。ドイツ軍は浸透戦術なるものを使っていたわけでなく、当時最先端の戦術を披露していただけだった。

バルク将軍曰く「我々は大量の砲兵にて敵を制圧したあと、普通に展開した。このような戦術〔注、浸透戦術のこと〕など使ったことはない」

この言葉が端的に事実を示している。

ドイツ語圏ではまた別の方向の研究があるかもしれない。しかし英語圏ではこれが一つの到達点だと思う。現在、hajiさんは毎月戦史を投稿しているが、格別の思い入れがあるこの記事を一番に紹介せずにはいられない。




二、平田昌司『「孫子」解答のない兵法』(岩波書店、二〇〇九年)

渡邉義浩訳、曹操『魏武注孫子』(講談社、二〇二三年)に参考文献として挙げられていたので読んだ。孫子兵法の本文を検証するというより、孫子がどう読まれてきたかに重点が置かれている。

古代中国の戦国時代、戦いを研究する集団がいて、現代の孫子十三編も含めて文章をたくさん書いていた。彼らはいにしえに存在したとする孫武や、戦国時代中期にいたという孫臏に仮託して論述した。いまこれを孫子学派とする(注4)。

孫子学派はいつの間にか歴史から姿を消してしまうのだが、文章はのこった。三国志の時代、曹操が孫子十三編を校訂したとされ、これが今日にのこる孫子兵法となる。実はサブテキストもいっぱいあったはずなのだが、一九七二年に一部が発掘されるまで完全に散逸していた。

その後『孫子』は兵書というより名文の文学書として書き継がれ、十世紀以降は中国の試験テキストとして細々と印刷され続けた。孫子のような軍事理論書がその後の中国で書かれなかった理由について著者はこう説明する。戦争・戦役の報告書がそのまま兵書として参考になったからだと。

日本における孫子受容の話も書かれている。これも大変興味深い。日本で孫子が人気になったのは、江戸時代に中国から輸入してからで、それまでは三略や六韜が兵書として賞揚されていた。武田氏の風林火山の旗も、当時の教養人である禅僧から教えの一つとしてもたらされただけで、孫子本文が好んで読まれていたわけではないという。

サミュエル・グリフィス版孫子が今日の学問水準からすればあまりよくないテキストにもかかわらず、アメリカ軍人から好まれている理由もわかる。まことに有意義な本だ。孫子本文を読んだことがある方は一度読んでみることをおススメしたい。




三、遠藤美幸『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス、二〇二三年)

本書は、主に戦友会にまつわる話が載っている。著者は戦友会の世話役を何十年もしていて、その諸々の話だ。去年も連載記事を紹介した。

本来まったく関係のない戦友会の世話人と聞くとすわ右翼かと身構えてしまうかもしれないが、著者は反対側の立場である。

この本に出てくる部外の戦友会参加者は大体右翼で、大日本帝国の威光と自らの自尊心を重ね合わせてしまうタイプの人たちだ。X(Twitter)にもこのような人たちがいま大量発生している。彼らは元兵士の屈折した感情を理解しようとせず、理想の日本軍(つまり理想の自分)を語る。そして元兵士に怒られてしまうのだ。

元兵士とその家族の機微を探るに格好の本だ。ただ、後半につれて本編とは直接関係のない現代の政権批判が熱を帯びてくるので紹介しようか迷った。元兵士の意思を受け継ぐという自認がある著者にとっては「関係あるのだ」との思いがあるのは理解している。ただ、十分な論拠を示さずに唐突に主張を展開されると本編の内容も毀損しているように感じられる。

本書にウクライナ戦争に関する記述はあるが、恒久平和をとなえる立場ならあるべき「ロシア軍はウクライナから即刻撤退すべし」との主張がないし、中国の膨張主義に関する言及もない。昨今の倒錯した反戦論者はすべてアメリカの代理戦争、アメリカの陰謀のように説明してロシア・中国の帝国主義に阿る気風があるが、まさか……と思わないでもない。それとも日本が戦争に近づかなければ差し当たり問題ないというお立場なのだろうか。

こうなると元兵士たちの非戦の思いがかすんでしまう。だから戦友会の話と唐突な政権批判はわけて欲しかったなあと思う。十年二十年後、時局の話が風化すればもっと評価が高まるかもしれない。




四、苅部直『日本思想史への道案内』(NTT出版、二〇一七年)および同著者『日本思想史の名著30』(筑摩書房、二〇一八年)

今年のはじめに@MValdegamasさんが紹介していて気になって購入した。哲学とか思想とかの本がわりと好きなのだが、いつも思考がついていかない。この二冊はなんとかついていける。

個人的に相良亨『武士道』という本がめちゃくちゃ好きなのだが、研究史ではどう位置付けられているのか(あるいは奇書のたぐいなのか)わかっていなかった。二冊を読んで相良亨がどういう人なのかわかったのが、一番良かった。

戦史の話ではないですね、これ。まあいいか。




注1 言葉の意味を考えれば浸透戦術よりも浸透戦法のほうが適切と思っている。八十年代の陸自用語集には、戦法とは特定の戦闘法だと記している。

注2 この経緯は、日本ではいまだに参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察』が基本書である。浸透戦術という言葉は英語圏で生まれたために、この本にはこの語は載っていない。

注3 進化とは書かない。通常戦に最適化した軍隊は治安戦に向かない。物を壊し、人を殺すことに集中してしまう。

注4 落合淳思は、孫武も孫臏も実在の人物ではないとしている。詳細は、落合淳思『古代中国 説話と真相』。

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なつき戦史室 2023/08/20 18:23

NHKスペシャル取材班『ビルマ 絶望の戦場』(岩波書店、二〇二三年)を読んで

NHKスペシャル取材班『ビルマ 絶望の戦場』(岩波書店、二〇二三年)を読んで


本書は、末期ビルマ戦についてのノンフィクション兼取材記だ。元はNHKスペシャルのドキュメンタリーで、二〇二二年八月に放送された内容が今回書籍化された。NHKスペシャル取材班『戦慄の記憶 インパール』の続編で、要は負けいくさの話だ。

個々の内容は興味深いが、まとまりがなく手探りで書かれたような散漫な印象がある。手垢のついたインパール作戦とちがい、あまり触れられることのない末期戦だからだろう。

作戦を中心とするならば、ビルマ方面軍田中新一参謀長がメインになると思う。強権的な作戦指導をしたし、回想録もある。だが、本書はイラワジ会戦もメイッティーラ会戦もほとんど扱ってない。テレビ版を観たとき少し肩透かしを食らったのを思い出した。

その代わりに本書が扱うのは、日本軍の作戦に揺り動かされた末端の兵士や看護婦、現地ミャンマー人だ。とくに、ミャンマー人へのインタビューは、日本語や英語ではアクセス不可能であるので、貴重だ。

ビルマ独立志士の中心人物であるアウンサンは、日本軍が中国で行っている蛮行を知っていたので日本と組むことにためらいがあった。ビルマの民衆も当初、日本軍の進出を歓迎していたが、補助兵士としての強○徴兵や、鉄道建設ための作業員強○提供などウケの悪いことをやった。日本兵が現地女性を強○したと読み取れる証言もある(六十三頁)。日本軍の傲慢な態度を、ミャンマー人は嫌がった。

日本で出版された部隊史(別名:おじいちゃんたちの思い出アルバム)では、ミャンマー人との交流が美化されているが、中国でやっていた悪癖をまたやっていたわけだ。


本の中からは脇道にそれるが、ラングーンの捕虜開放の話も出てくる。ラングーン防衛を任務とする独立混成第百五旅団の松井秀治旅団長はラングーン放棄を独断で決めたとき、捕虜のイギリス兵をそのまま解放した。失礼ながら、この話を見るときいつも意外に思ってしまう。日本軍はこういうとき大体なにかやらかす。

松井秀治将軍は歩兵第百十三連隊長を長く勤めていた。この連隊は第五十六師団に属していて、第十八師団と合わせて悪名高い。昔は『菊と竜』といって九州兄弟師団として褒められていたが、いまでは狼藉(強○・暴行・虐殺)の数々が知られるようになってきている。たしか死傷率も高かったため指揮官級の容疑者もほとんど戦死してしまって、戦後あまり裁かれなかったはずだ。

そんなとこにいた松井将軍が捕虜開放などもっと意外だ。日本軍全般がこれぐらい最低限道徳のある軍隊だったらなあと思う。


本書、『ビルマ 絶望の戦場』は“インパール作戦敗退後の末期ビルマ戦”という、あまり話題にされることのない題材を使って話題を呼んだ。内容はまとまりに欠けるが、戦中世代の最後のインタビューとして価値ある本だと思う。

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なつき戦史室 2023/01/21 20:23

コーワンは退却を決意していたのか――一九四五年ビルマのメイッティーラ会戦と参謀の隠蔽


パゴーを歩くグルカ兵。Reconquest of Burma Vol.Ⅱ, 412頁より。


一九四五年、ビルマ。

イラワジ河湖畔では、日本軍とイギリス軍最後の決戦が行われていた。二月下旬、イギリス軍は第一七師団と第二五五戦車旅団をもってイラワジより大都市メイッティーラに突進。これを占領して日本軍を大混乱に陥らせた。

遅ればせながら危機を感じとったビルマ方面軍は北ビルマから第三十三軍司令部を呼び寄せ、第十八師団と第四十九師団を指揮させてメイッティーラを奪還させようとした。しかし武運拙く、日本軍は敗れた。

牛山才太郎(元第十八師団情報参謀の木村才太郎)によると、日本軍がメイッティーラから退却を決心したとき、イギリス軍もまた退却寸前であったという。彼は書く。

「敵将コーワンは
『もし日本軍が健在ならば、二十九日昼間随意退却』
と決意し、起案した退却命令文をポケットに入れて、二十九日朝、恐る恐る複郭陣地の上に立った。しかし予期に反し、戦場は寂として声なく、そのすぐ前の丘の中腹にあった日本軍陣地は勿論、メイクテーラの戦場一帯に日本軍が一兵もいないことを知り、密かにポケットの退却命令文を握り潰し、退却を思い止まったという。」

さらに戦後の日英両軍の戦史合同研究では、

「日本軍はどうしてあの際、攻撃を中止したのか。英軍では日本軍に対し猪突して多大の損害を受けた第99旅団長を罷免し、部隊を収容しようとしていた。ところが、その朝、戦線を覗いてみると、日本軍の影が見えないので、再びメイクテーラに腰を据えたのが実情である」

とイギリス軍の参謀が語ったという(注1)。

そんなことがありえるだろうか。

日本軍が全線の退却を決定した一九四五年三月末、イラワジ湖畔の第十五軍は戦線崩壊しており、各師団は退却しはじめていた。第三十三軍はメイッティーラを攻めるも火力不足で決め手を欠き、イギリス戦車部隊のたび重なる襲撃で大損害を生じていた。

ポッパ山に位置する第二十八軍の支隊もイラワジ河のイギリス軍渡河点に攻勢をかけるどころかイギリス軍に押されて後退。インド国民軍部隊の内通によりポッパ山も維持できなくなっていった。

イギリス軍は圧倒的な航空戦力で空を支配していたので、この様子がよく見えていたはずである。勝ちが見えていたのではないか。もちろん、戦場に錯誤はつきものだ。もしかすると実際に「負けるかも」と思っていた可能性もある。敵はどう考えていたのか。



丘の向こう側
一九四五年二月十四日、イギリス軍はイラワジ会戦の勝敗を決める攻撃をはじめた。英第一七師団と第二五五戦車旅団からなる突進部隊が、ビルマ方面軍が注目していなかったニャンウに渡河して一挙メイッティーラに猛進したのだ。メイッティーラを占領して背後を取ってしまえば日本軍を袋叩きにできる。



『戦史叢書 シッタン・明号作戦』二十一頁より。

英第一四軍司令官ウィリアム・スリムは、この模様を自身の目で確かめるため、三月はじめ第四軍団長フランク・メッサービーとともに現地を視察した。出迎えたのは英第一七師団長デイヴィッド・コーワンだ。部隊の様子を観察したスリムは、コーワンの老練にして勇猛果敢な指揮ぶりに「戦闘は最後部において適任者にあることを確認した」と記している(注2)。

ほどなくメイッティーラを占領したコーワンは、日本軍に反撃の兆候が見られることを知った。スリムの期待どおり、勇猛なるかれは防御ではなく攻撃で日本軍を撃退しようと考えた。配下部隊に歩戦チームを組ませて、迫りくる日本軍部隊を次々に襲わせたのだ。これは北アフリカ戦役の経験をビルマの平地に応用したとも言われている(注3)。

銃爆撃のあとしらみつぶしに射撃を加えるイギリス戦車は、対戦車能力に乏しい日本軍部隊に南北で打撃を与えた。

とくに印象的な戦例は、第一二国境銃兵連隊第四連隊の一コ大隊とプロビン乗馬兵連隊の一コ大隊が、日本軍第十八師団に対し三月十日と十一日に行った襲撃だ。



『戦史叢書 シッタン・明号作戦』四十三頁より。

三月十日、上記の歩戦連合部隊は陣地構築中の一コ歩兵大隊を襲ってこれを壊滅させ、翌十一日にはその親部隊たる歩兵連隊を包囲するように襲撃して痛烈な打撃を加えた。イギリス軍の損害は五十六名に達し戦車一台が破壊されたが、日本軍は死者だけで二百名を下らず、(第十八師団隷下の)歩兵第五十六連隊と師団工兵連隊主力は戦力が三分の一になるまで激減。配属の速射砲大隊は速射砲の大部を失い、十五榴一門も破壊されるという手痛い敗北を喫した(注4)。

有効な対戦車兵器と戦法を欠いた日本軍は、イギリス軍の襲撃に終始苦戦を強いられている。



危険の対処
メイッティーラ会戦でスリムが苦慮したのは、二つのことだ。すなわちアメリカ軍の輸送機部隊が中国に転用されそうになったことと、日本軍の反撃によってメイッティーラ飛行場が一時発着不可能になったことだ。

前者は、日本軍が中国で一号作戦、いわゆる大陸打通作戦を行ったことに原因がある。日本軍の攻勢により、負け慣れしていた中国軍はいつものごとく次々に後退していき蒋介石の重慶政府は大混乱に陥った。重慶政府はビルマ派遣部隊(中国遠征軍)の帰還を決め、同調するアメリカ側は輸送機部隊も転用しようとした(注5)。

これを聞き捨てならないと猛抗議したのがイギリス側だ。攻勢作戦中のイギリス軍は輸送機を大量に使用しており、輸送機が足りないと作戦が続けられなくなる危険性があった。強弁に反対することで、イギリス側は輸送機部隊の転用を“雨季まで”という条件付きでなんとか先延ばしにできた(注6)。

もう一つのメイッティーラ飛行場使用不能問題は、三月中旬に日本軍が飛行場にまで進出してきたことと、重砲が飛行場を射撃して発着を妨害してくることが問題であった。これを解決するため、三月二十七日と二十八日、メイッティーラ北の湖東台の日本軍陣地を攻撃した。しかし、日本側の(第十八師団)歩兵第五十五連隊と長沼重砲隊はなんとか耐え切った。



『戦史叢書 シッタン・明号作戦』六十二頁より。

牛山は書く。

「〔コーワンが退却命令文を忍ばせていた〕直接の原因は、二十六日、山崎連隊が占領した複郭陣地に対する英印軍の奪還のための逆襲が不成功に終わり、又二十七、二十八の両日湖東台に対する全力を傾注した攻撃も失敗したことにあったと思われる。」(注7)

しかし、印パ公刊戦史は戦闘経過の続きを書いている。イギリス軍のこの日の攻撃は日本軍を陣地から駆逐することに失敗したけれども、日本兵は抵抗の意思を失い二十八日夜に大部分が北に退却した。二十九日に湖東台は掃討されたと(注8)。

日本軍はちょうど二十八日に退却を決定したのでその日の夜に第十八師団が湖東台から撤退したとしても不都合ではない。翌二十九日にもイギリス軍は攻撃する意思を持っていた。彼らは負けたと思っていなかった。

牛山はさらに書く。

「更に、別の重大な原因があった。即ち、三月十五日以来、湖東台から我が重砲隊の射撃は英印軍機の着陸を諦めつけ、十八日以降は空中からの投下補給に切り換えさせた。
二十二日、菊兵団〔第十八師団〕の東飛行場占領は、それを決定的なものとし、英印軍を苦境に追い詰めた。」(注9)

三月十八日、たしかにメイッティーラ飛行場は日本軍の襲来で発着が不可能となった。しかし、スリムは「主要滑走路の使用を再び回復することが絶対的であった(注10)」と書いているが、戦況が絶望的だったとは書いていない。

スリムは飛行場使用不能直前に、増援として英第五師団の空輸旅団を強行着陸させている。イギリス軍は物資補給をパラシュート投下に切り換えつつ、飛行場を確保するため猛攻を加えた。先に根負けしたのは日本軍だ。



「最後の五分間」伝説
中国軍と輸送機部隊の転用が決まっていたため、イギリス軍はなんとしても雨期までに首都ラングーンを占領したかった。しかし、三月に入ってからの激戦により、イギリス軍の作戦スケジュールは遅れがちであった。

三月下旬、マウントバッテン提督(東南アジア連合軍司令官)とリース中将(東南アジア連合陸軍司令官)による話し合いでこのことは問題視され、東南アジア連合軍は解決案を考えた。それがドラキュラ作戦、すなわちラングーン占領作戦の復活である。

一九四四年後半、イギリス軍は元々、ビルマ中央の陸路を進む「キャピタル」作戦や、水陸両用作戦と空挺降下を併用した「ドラキュラ」作戦を考えていた。決行されたのはキャピタル作戦だけで、ドラキュラ作戦は延期されていた。

四月二日の東南アジア連合軍会議で、ドラキュラ作戦は正式採用され、一コ師団と空挺大隊に縮小されて決行されることとなった。作戦決行は雨期になる前の五月五日以前を予定した(注11)。

日本軍から見れば、ダメ押しで圧力がかかったわけで、五月二日にドラキュラ作戦が決行されたとき、イギリス軍は無血でラングーンを奪還した。日本軍にはもはや差し向けられる兵がいなかったのだ。



三方面からラングーンに迫るイギリス軍。Reconquest of Burma Vol.Ⅱ, 368頁より。

日本軍の典型的な精神訓話では、自分が苦しいとき相手も苦しいのだと説く。この苦境をしのぎ“最後の五分間”を耐え切った者が勝つ。だからこそ必勝の信念が必要なのだと。しかし苦しいの度合いが、日本軍とイギリス軍ではまったく違っていた。



おわりに
ビルマ方面軍の田中新一参謀長が構想した“強気一点張りの”作戦の末路は、前線の兵士たちが予期したように絶望に終わった(注12)。日本軍は中枢都市メイッティーラも古都マンダレーも首都ラングーンも失い、ビルマ南端のみを保持したまま雨季を迎えた。

インパール作戦における井瀬支隊の壊滅を記した『全滅』で高木俊朗は、あとがきで次のように書いている。


「最も苦労した下級者は真相を伝えず、一部の高級将校の虚構の作文が戦史として残されるかも知れない。人間の最大の不幸である戦争にして、なお、このようにあいまいな形で消え去ろうとする。
だからこそ、戦争の真実は、書きとめ、書き残さなければならない。戦争に対して無知、無神経になれば、人間はまた、あの不幸と悲惨をくり返すだろう。」(注13)


不破博(元ビルマ方面軍参謀)が書いた戦史叢書インパール作戦や同シッタン作戦にも、日本軍の名誉を守るためわざと敵側戦史を参照しないで書いているのではないかと思われる個所がある。不破の筆はまだ抑制的だが、牛山は話を盛りすぎではないだろうか。敢闘を書けばいいのに、どうしてこのようなことを書くのか。高木の怒りの声が聞こえてくるようだ。



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なつき戦史室 2022/12/31 18:00

二〇二二年の戦史感想

今年は私生活が忙しく、落ち着いて戦史と向き合えなかった。それでも少しだけ読んでいるので、感銘を受けたものを挙げておく。




戦史の探求「トンディビの戦い_1591_西アフリカでの銃兵と騎兵の衝突」


軍事専門家の書く戦史は、迂回・包囲・突破など“軍隊の機動”に興味が偏りがちだが、戦史が教えてくれるものはそれだけではない。

わたしは以前、小牧長久手の戦いを中心として日本戦国戦史について調べていて、このことは特に思った。包囲なんてしなくたって敵を追い崩すし、統制された戦闘なんてしていない。命知らずの武士たちが功名を得ることをかけて個々に突っ込んで行くのだ。だから敵を前にして、真っ先に首を取る一番槍には特別な価値がある。

真っ先に敵陣に突っ込む兵士は“恐怖”と戦わなければならない。視線の先から放たれる鉄砲玉が自分のからだを貫通するかもしれない。目の前の槍が突き刺さるかもしれない。死ぬかもしれないという恐怖に打ち勝って進み続けなければならない。

戦史の探求さんが書いた「トンディビの戦い」記事は、そんな恐怖に関する戦史の一つだ。十六世紀におけるモロッコ帝国とソンガイ帝国の戦争を取り上げている。

この「トンディビの戦い」は銃兵対弓兵の戦史としても注目されている。不勉強ながら、わたしはまったく知らなかった。

昨年、戦争心理学の古典として名高いドゥ・ピック『戦闘の研究』が有志の手で翻訳されているので併せて読みたい。




hajimemasite「英第二十一軍集団内の人間関係:MontgomeryとO'Connorの場合」


一九四四~四五年西部戦線におけるイギリス軍内、モントゴメリーとオコナ―の人間関係が書かれている。

モントゴメリーは好き嫌いが激しく、自分の子分を重用した。オコナ―は野戦指揮官として有能で人当たりもよかったが、モントゴメリーとは折り合えなかった。

人間関係に軍事的合理性はない。組織の気風と個人の性格、そして“仲がいいか悪いか”が作用して席が決まる。

不可思議な人事があるときは大体醜聞がある。日本軍の戦場における人間関係を調べて感じていたことをイギリス軍から得られて興味深かった。




●hajimemasite「Lorraine戦役とその忘れられた論争について」


本稿は『征論』(兵勢社、二〇二二年)の記事の一つとして収録されている。一九四四年九月~十二月まで西部戦線において行われたロレーヌ戦役の“論争”について書かれている。

英語圏でもほとんど扱われることのないロレーヌ戦役の詳細を追究しようというのではなく、ロレーヌ戦役がどう論じられてきたかを探るというユニークな構成だ。

「機動戦対消耗戦」論争を懐かしく思えたり、スティーブン・ザロガのシャーマン戦車愛はやはり異常の域にあるのかもしれないと思えた。わたしも依然シャーマン戦車に関する記事を書いたことがあり、ザロガ氏はシャーマン戦車のことを好きすぎるのではないかと感じていた。

ロレーヌ戦役の論考には書かれていないが、hajimemasiteさんによるとザロガ氏はシャーマン戦車の戦果を意図的に高くしている節があるという。好学の士は調べてみると良いかもしれない。

このロレーヌ戦役記事は、独自の論点から切り込む面白いものであるが、人名・地名が英語表記のままで地図がないのは読者への壁を高くしてしまっているかもしれない。

わたしは英書も参照することがあるのであまり気にしないが、趣味者でも外国語に触れる者は少ないだろう。

hajimemasite「ある米軍戦車大隊長のLorraineの記憶」も併せて読みたい。

わたしのシャーマン戦車記事も一応紹介しておく。ただ、主に参考にしたザロガ氏の本は、意図的にシャーマン戦車に有利な数字を採用している可能性がある。

なつき戦史室「シャーマン戦車はパンターに劣るのか?」




遠藤美幸「悼むひと 元兵士たちと慰霊祭」


本作は、生きのびるブックスにてオンライン連載されている。第二次大戦にて戦地に派遣された兵士が戦後どういった思いで戦争を振り返っていたのか、戦友会や慰霊祭を中心に書かれている。遠藤氏はビルマに派遣された兵士たちの戦友会の世話人をしていたので、話もビルマ帰りの兵つながりが多い。

わたしが遠藤先生を推しているのは、元兵士たちのいいところも悪いところも書いてやろうという意図が見えるからだ。

顕彰目的では人間が見えてこない。実際に戦場で何をやっていたのか、戦友会では時にどんな議論がなされたのか。顕彰では、対立も醜聞も書かれない。遠藤先生は書いてしまう。だからインタビューした元兵士に怒られることもある。

けれど日本軍が愚にもつかない顕彰目的の戦史編纂をしてしまったことで思考の枠を狭めてしまったことを思えば顕彰だけの物語がいいとはどうしても思えない。

旧軍の戦史編纂については、塚本隆彦「旧陸軍における戦史編纂—軍事組織による戦史への取組みの課題と限界—」を読んでいただきたい。

生きて帰ってきた兵士たちの戦後史については、保坂正康『戦場体験者 沈黙の記録』(筑摩書房、二〇一八年)吉田裕『兵士たちの戦後史 戦後日本社会を支えた人びと』(岩波書店、二〇二〇年)がある。

遠藤先生の連作もこれに連なるもので、帰還兵士たちの内面を探っている。ほかの媒体で掲載された戦友会記事も併せ収録して単行本化されてほしいと思う。

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なつき戦史室 2022/10/12 22:32

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