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2021年 10月の記事 (31)

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【無料公開】白昼夢の青写真 CASEー0原作小説『世界と呼ばれた少女』2

 家のドアを開けて、まずは僕が家の中に入った。
「……ただいま」
「おかえり」
 お母さんがベッドに横になったまま僕の方を振り向いたあと、世凪が家の中をのぞきこんだ。
「こんにちは!」
「……こんにち、は?」
 お母さんは目を丸くして世凪と僕を交互に見つめた。
「世凪っていいます!」
「……あぁ!!」
 お母さんが大きな声を出して、世凪が目を丸くした。
「あなたが、世凪ちゃん」
「はい! こんにちは! あっ……、こんばんは!」
 世凪が少し早口にそう言った。お母さんは楽しそうに吹き出した。
「こんばんは」
「おじゃましていいですかっ」
「もちろんっ! おばさんも世凪ちゃんとお話してみたかったの」
 世凪は僕の方に、キョトンとした顔を向けた。

 下層の土を掘って開けた大きな穴に、ぼこぼこしたトタンを張り付けた部屋。それが僕とお母さんの住んでいる家だ。ベッドと食卓、キッチンと洗面台しかない。窓の外にはトウモロコシ畑がひろがり、その向こうに反対側の土壁が見える。あそこにも僕たちと同じように土の家の中で生活している下層民がいる。
 僕と世凪はお母さんのベッド脇に並んだ。お母さんはまじまじと世凪を見つめた。
「うんっ」
 お母さんがうなずいた。世凪が救いを求めるように僕を見つめた。
「世凪ちゃん、とっても可愛い子だね。海斗の言ってたとおり」
 目を伏せていた僕は勢いよく顔をあげた。世凪がにんまりとした笑顔を僕に向けていた。
「そんなこと言ってないでしょ!」
「あれ、そうだっけ」
 お母さんがわざとらしく首をかしげる。
「言ってない!」
「でも、お母さんには伝わってたけど」
「嘘だよ!」
 世凪とお母さんが一緒になって笑った。
「この前から、海斗は世凪ちゃんの話ばっかりで」
「お母さん!」
 僕はお母さんの声に重ねるように叫んだ。
「……そんなことないよ……ないでしょ……!」
 お母さんが笑いながらまた口を開いた。
 僕は昨日まで学校に行ったことがなかった。下層民は毎日中層に行って労働をしないといけない。でもお母さんは立つことができない。先月、左肩も動かなくなり、昨日、左手の全てが動かなくなった。お母さんの体は段々動かなくなっている。左手が動かなくなったのは、僕が学校に行くと伝えてすぐのことだった。
 だから僕はお母さんの分も働いた。下層の子供たちが学校に行っている時間も中層の共有部で労働した。
 上層民のシャチは僕を見つけると、サボる親から生まれた子供は学校をサボるんだと笑いながら僕の頭をぶった。それを止めてくれたのが世凪だった。「下層民は、それが役割だから働いてるんだよ。上層民が下層民より偉いわけじゃないんだよ。あなたの親は、そんなことも教えてくれなかったの?」世凪は表情を消して、自分よりも背が高く体の分厚いシャチにそう言った。じわじわにじりよってシャチを黙らせ、シャチはすごすごと去っていった。それが、僕と世凪の出会った日のできごとだった。
 僕はクルマの壊れてしまった姿を思い出した。走り出したクルマがシャチの足下に当たったときの寒気をまた感じ、僕のクルマを高々と掲げそれを地面に叩きつけたシャチの姿と、そのときの悲しさが心に浮かんだ。
「……海斗」
 世凪は自分の鞄の中から走らなくなったクルマ取り出して僕に差し出した。僕はクルマを受け取り、その手元のクルマをうつむいたまま見つめた。
「それは……海斗が作ってた……クルマ?」
 お母さんの声が聞こえた。僕は黙ったままうつむいていた。
「お母さんに見せてくれるの?」
 僕はなにも言葉を返せなかった。かわりに世凪がお母さんを見上げて口を開いた。
「海斗のママ……、あのね。海斗の車、動いたんだけどね、壊れちゃったんだよ」
 僕はうつむいたままお母さんの顔を盗み見た。
 お母さんは僕のことを静かに見下ろしていた。僕はその視線から逃れるようにうつむいた。また僕の目から涙が溢れた。僕は声を振り絞った。
「……お母さんに見せてあげる前に、壊されちゃったんだ」
「壊された……?」
 涙だけが流れ続けた。足元に落ちた雫のあとを、僕はぼんやりと見つめていた。
「……そうだったんだね。学校で?」
 お母さんは穏やかに言った。僕はうなずいた。
「走ってる姿、見せたかったんだ……」
 僕がそうつぶやいてしばらく沈黙が続いた。
「……あのね」
 世凪の声がした。僕は顔をあげた。世凪がもじもじと、てなぐさみをしていた。
「海斗と、海斗のママ。……秘密、守ってくれる?」
 僕は世凪を見つめた。世凪の真剣な眼差しが、僕に注がれていた。僕はお母さんを見上げた。僕とお母さんの目があった。お母さんはベッドの木のフレームに背中をあずけたまま不思議そうな顔をしていた。きっと僕も同じだ。でも、僕たちはうなずいた。
「守るよ。ね、お母さん」
「うん」
 僕たちがそう言うと世凪はなにかを決心したようにうなずき、両手を差し出した。
「……じゃあ、手を出して」
 僕たちは手を出した。世凪は僕の左手とお母さんの右手を握った。
「二人も、手を繋いで」
 僕はお母さんの動かなくなった左手を握った。僕たち三人の中に小さな輪がうまれた。
「目、つむってね」
 お母さんと目を見合わせてから、僕たちは目を閉じた。
「……驚かないでね」
 世凪のその静かな言葉がゆっくり、体の内側までしみこむように届いたとき――屋上を走っているクルマの映像が見えていた。
「え――」
 クルマが走っていた。何日もゴミ捨て場に通い、上層民のゴミをかき集めて作ったやっと完成させたあのクルマだ。
 学校の屋上の滑らかな床をまっすぐ走る車。それはさっき僕の見た光景に似ていた。だが視点が違う。クルマを中心に映像の輪郭はどんどん鮮明になっていく。
 僕もそこにいた。笑っている。嬉しそうに飛び跳ねてクルマを追いかけていた。
「これだ……これだよっ……中層のモニターでみたのと同じだ!」
 映像の中の僕が喋っている。
「海斗うれしそう。学校きてよかったでしょ、海斗」
 世凪の声も聞こえた。
「うんっ!」
 僕がクルマを追いかけていく。
 そこで、その映像は終わった。
 視界が真っ白になり、朝目覚めるのと似た感覚を通り過ぎて、またいつもの部屋に戻ってきた。鮮明な夢を見ているような感覚だった。
「今の……、なに?」
 お母さんも目を丸くして世凪にたずねた。
「……わたしがさっき見た記憶みたいな、もの?」
 世凪がたどたどしく言った。
 僕も、お母さんも、なにも言えずにいた。初めての体験だった。力の抜けた口を、ただ開けていることしかできなかった。
「気付いたときには、わたし、これ、できて……。でも、怖がる人もいるから、やめなさいって、言われてて……」
「……誰に?」
 お母さんが世凪に聞いた。
「お父さん」
 もうこの世にはいない世凪のお父さん。世凪の名前を付けてくれた人だと言っていた。
「だから、秘密にしておきたくて……」
 もじもじと両手の指を絡ませながら、世凪はうつむいた。
「……すごい」
 僕がそう言うと、お母さんもうなずいた。
 世凪が顔をあげた。
「すごいよ! どういう仕組みなの?」
「え、シクミ? それはわたしにもわからないけど……」
「怖くなんてなかったよ、とっても素敵な力!」
 お母さんが世凪にそう言った。世凪は茫然とお母さんを見上げていた。
「ありがとうね、世凪ちゃん。おばさんにも喜んでる海斗の姿が見えた。……あのね。……すっごく嬉しかった!」
「いや、見て欲しいのはクルマで――」
 僕はそこで言葉を止めた。
 お母さんの目に、涙が浮かんでいたからだ。その涙はお母さんの瞳に膨らんで頬を流れていった。僕はその涙をぼんやり見つめた。
「……すっごく、嬉しかったよ、世凪ちゃん。ありがとね」
 お母さんは、まだ動くほうの手で世凪の両手を掴んでそう言った。
 世凪はきょとんとされるがままになっていたが、だんだんとその頬が紅くなり、世凪の目にも涙が浮かんだ。
 たぶん、お母さんのと同じ種類の涙だと、僕は思った。
 こくん、こくんと、世凪はうなずいていた。照れくさそうに笑ってからぐいと涙を拭い、世凪は僕とお母さんにいつもの満面の笑みを見せた。
「……喜んでもらえて、よかった! どういたしまして!」

 それからすぐに窓の外が暗くなった。
「世凪もご飯食べてく?」
 僕がそう言うと世凪の背筋がピンと伸びた。
「え、いいの?」
「うん、今日は――」
 そこで僕は、はたと思い出した。思わず僕は叫んだ。世凪がびくりと跳ね上がり、僕をじっと見つめている。僕は世凪の目を見つめ返しながらつぶやいた。
「配給……もらってない……、午後の労働も、いってない……」
 世凪がため息をついた。
「そうだよー? 海斗がずっと学校で車なおしてるからじゃん」
「どうしよう……」
「なにがあるの? あるものでつくろうよ。海斗のママ、台所、わたしも使っていい?」
 世凪がキッチンに向かいながらそう言うと、お母さんは世凪に笑顔を返した。
「もちろん。いつも海斗が作ってくれてるから、手伝ってあげて」
 世凪はキッチンの戸棚にある缶詰の保存食を吟味して、タコスという食べ物を作ってくれた。地上時代の食べ物らしい。三人で食事をして後片付けをすませ、世凪は帰り支度をした。
「世凪ちゃん、絶対またきてね。今度は今日のお礼に、おばさんが絵本読んであげる」
 世凪の目が輝いた。
「いつきていい!?」
「いつでも。おばさんずっとここにいるから」
「明日!?」
 世凪がそう言うとお母さんは笑った。
「もちろん、いいよ」
「やった!」
 喜ぶ世凪をお母さんは微笑んで見つめていた。

 僕は世凪と一緒に家の外に出た。
「本当に一人で大丈夫なの?」
「大丈夫! 月も見えてて明るいし!」
 世凪はそう言ってオゾンレンズを見上げた。丸い大きなレンズの中に小さな月が浮かんでいた。
「……今日は、ありがとう」
 顔をおろして、僕はそう言った。
「うん……?」
 世凪が僕を見つめながら首をかしげた。
「世凪がいてくれて、本当によかった。……ありがとう」
「いいんだよ、友達だもん!」
 世凪は楽しそうにそう言った。僕はうなずいた。世凪と友達になってよかった、そう思った。
「ねぇ、海斗」
 世凪が静かに言った。
「うん?」
「海斗のママ、ちょう素敵だった!」
「……うん」
 僕は力強くうなずいた。
「そうでしょ」
「海斗、わたしも、さ……」
 世凪はうつむいて、自分の手元に目を落としていた。
「わたしもママって呼んだら、怒る?」
「……」
 世凪が僕を上目遣いに見つめ、また目を伏せた。僕は微笑みながら首を振った。
「世凪なら、いいよ」
 世凪が勢いよく顔をあげる。
「お母さんも喜ぶと思う」
 そう言うと、世凪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ……、ママにもよろしく! また明日って」
「うん」
 世凪は手を振りトウモロコシ畑をかけていった。背の高いトウモロコシの合間をひょこひょこと走る世凪の背中を、僕は見えなくなるまで見送った。

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【無料公開】白昼夢の青写真 CASEー0原作小説『世界と呼ばれた少女』1



   プロローグ



 地下五〇〇メートルに作られた新宿の街に人の気配はない。乾いた土の道を歩いた。視線を上げていく。下層の中心にある円形のトウモロコシ畑、中層に立ち並ぶ小綺麗なコンクリートビル、上層の広々とした住宅街。何度も見上げた街並が視界に入ってきた。
 この街は様変わりした。住人の八割以上が生体保存カプセルで眠っている。だがオゾンレンズ越しの太陽だけは変わらなかった。子供のころから変わらない景色。丸い空にきらめく太陽。土埃がまいトウモロコシが揺れる音。五感に集中しながら私は下層を歩いた。[出雲/いずも]は私の少し後ろを静かについてきていた。いつものように無表情のまま、よく晴れた空のように澄んだ青い瞳をまっすぐ前に向けている。彼女の髪の毛も瞳と同じように青い。
「記憶を失った私はこの街を見てどう思うだろう。きっと地下に街があることには驚かないだろうな。出雲がアンドロイドだと知っても、私の経験記憶と照らし合わされて納得できると思う」
「そうですか」
「静かな街になった」
「そうですね」
「中層・上層の九五%、下層の七○%の人たちが仮想空間に移住済みだった。彼らは今、中層と上層の間で寝ている。ただ寝ている。夢も見ずに」
 空っぽになった下層の街を眺める。労働を終えた下層民の憩いの場だった市場。[世凪/よなぎ]と何度この場所を歩いただろう。
 無垢だった子供のときも――
 野心に燃えていた青年のときも――
 自分の役割に邁進し大人の入り口に差し掛かったときも――
 私たちはこの街の乾いた地面を踏みしめて歩き続けた。その一日一日を思い返す。忘却障害を患った私の完全な記憶が次から次へと蘇ってきた。この記憶も数時間後には全て忘れ去ることになる。
「海斗」
 出雲が立ち止まって私を呼んだ。私は振り返って出雲と向かい合った。
「今の世凪の脳にはβアミロイドが蓄積しています。気付いていたはず」
「あぁ」
 たとえ自我を回復させても世凪の記憶はすぐに崩壊していく、それが容易に予想できると出雲は言っている。
「世凪の自我が回復したとして、世凪はその日に海斗のことを忘れてしまうかもしれない。それでも、行動は変わらないんですか」
「どうしてそんなことを聞く」
「労力をかけて、同じ結果に辿り着く可能性が極めて高いからです」
 出雲を見つめたまま私は小さく笑った。
「出雲は、どうしてそれを今日まで黙っていたんだ?」
 出雲は口を閉じて黙っている。なにも答えない出雲に私はもう一度問いかけた。
「何故、今になって話す気になった?」
「わかりません」
「世凪に聞かせたくないと思ったんじゃないか」
 出雲は困っているように見えた。私の勘違いかもしれない。
「出雲はあの状態の世凪を世凪だと認識して、彼女を傷付けることを避けたんだ。世凪が出雲を家族だと思ったのと同じように。記憶がなくても自我がなくても、出雲は今の世凪を世凪だと思ってくれたんだろう」
「……わかりません」
「この計画がうまくいったあとで世凪がまたすぐに自我を失うとしても、もう一度世凪におかえりと言える。それだけでも充分価値があると思わないか」
「思います」
 出雲はすぐにそうこたえた。私はしばらく出雲を見つめた。出雲は下層の街並みを見つめていた。
「わたしも、もう一度世凪に会いたい。そう思っています」
「あぁ」
「うまくいきます。海斗の計画は」
「頼もしい限りだ」
「必ず完遂させます。そして、世凪におかえりなさいと言う」
 出雲は私を見上げた。瞳と同じ色の髪の毛が肩の上で揺れていた。
「……世凪が、眠りました」
 いつもの無機質な声で、出雲がそう言った。私は下層の街を眺めたままうなずいた。
「全てがうまくいったら、またここで会おう、出雲」
「わかりました。待ってます」

 そして私は自分の記憶を全て奪い去り、眠りについた。



   少年期



 日が暮れた。僕の影は色濃くなり、オゾンレンズ越しの丸い空は朱く染まっていた。
 僕は泣いていた。何時間も泣き続けながら、バラバラになった小さなクルマを修理していた。上層民の捨てた電動歯ブラシからとったモーターを動力にして少しずつ組み立てたクルマはバラバラになっている。もう自分がなんの部品を手に持っていて、なんの作業をしているのかわからなくなっていた。
 わかったこともいくつかある。
 モーターから車輪に回転を伝える歯車にはものすごく強い力がかかっていて、強度が必要なこと。
 だから、一度割れると新しいのに交換するしかないということ。
 でも、下層民の僕は新しい部品をもう手に入れられないということ。
 つまり、今の僕には、このクルマを直せないということ。
 長い時間泣いて気付いたこともある。
 泣き続けると、喉と頭が痛くなるということ。
 どんなに堪えようとしても、声は漏れてしまうということ。
 涙はなかなか枯れないということ。
「海斗……」
 世凪が小さな声で僕を呼んだ。
「もう、いこ……。帰ろうよ……。海斗のママも、心配してると思うよ……」
 嗚咽が漏れた。喉の根元から直接漏れ出ているような音だった。世凪の静かな呼吸が聞こえる。
「見せたかったんだ」
「え?」
「お母さんは、中層のモニターを、見にいけないから……」
 息が続かない。喉と頭が痛かった。
「うん……」
「走ってるクルマは……、かっこういいからっ……。見せてっ、あげたかったから……つくった……」
 また涙が地面に落ちた。コンクリートの地面にしみができた。僕は目を拭った。
「作ったのに……。走ったのに……」
「……うん」
「なのに……今の僕には、もう……」
 僕は目を強く閉じた。
「直せないんだ……」
 袖はもうびっしょりと濡れていた。
 世凪が僕の隣にきて足元のクルマを見下ろした。紺色のスカートが僕の視界の隅で揺らめいている。
「もう、動かないの?」
 僕はゆっくりうなずいた。
 世凪はしゃがみこんで壊れたクルマに手を伸ばした。世凪の肌は僕の肌よりも繊細に見えた。音もなくクルマをひろいあげた世凪は僕の顔を覗きこむようにして優しく微笑んだ。真っ白な髪を左右に結んだ世凪の顔が目の前にあった。こんなに近くで女の子の顔を見るのは初めてだった。世凪はクルマを持っていない方の手を僕の手に重ねて、そっと握った。
「帰ろ。……歩ける?」
 僕はうなずいた。
 
 世凪はずっと僕の手を握ってくれていた。
 僕は涙を拭きながら、世凪の少し後ろを歩いた。
「トウモロコシ、すごいね」
「……うん」
 エレベーターで下層に降りて、いつもの道を歩いた。地下をくりぬいて作った新宿の街。その底に円状に広がるトウモロコシ畑。下層の住宅はむきだしの外壁に埋め込まれるようにぎゅうぎゅうに敷き詰められている。いつもと同じあぜ道を通って、僕たちは下層の街に向かった。鼻をすすると粉塵が喉に入ってきて、僕は何度か咳き込んだ。
「海斗の家、こっち?」
「うん……」

 世凪の手は最初ひんやりと冷えていたが今はあたたかい。やわらかいてのひらが、僕の手をしっかり握っていた。
「海斗ならね――」
 前を向いたまま、世凪が言った。
「きっといつか、もっとすごいもの、作れるよ」
「……もっとすごいもの?」
「うん。なにか人を笑顔にするようなもの、海斗になら、絶対作れる!」
「……そうかな」
「遊馬先生に頼んでこれからは学校の工作室で、材料も揃えられる! 上層民のゴミなんかもう必要ないんだよ。変な言いがかり付けられるのは、今日でおしまいにしよ」
「……うん……」
「だから……、泣き止んで。海斗」
 世凪は消え入りそうな声でそう言った。
 僕はまた立ち止まってしまった。
 世凪の声には不安が滲んでいた。僕は世凪を不安にさせてしまったんだ。もう僕には自分の感情が、よくわからなくなってしまった。
 立ち止まって俯くと、クルマを壊された瞬間の光景が浮かんだ。
 上層民のシャチが僕を憎々しげに睨んだ目が浮かんだ。下層民のくせにうちのもの勝手に壊したんだな。シャチはそう怒鳴った。
 どうして僕は、こうもはっきりと過去のことを思い出してしまうんだろう。
 忘れよう忘れようと意識すればするほど、地面に叩きつけられたクルマが散らばる瞬間が脳裏に浮かび、そのときの感情が僕の胸の内を満たしていった。
「……海斗」
 うつむいたままみっともない声で泣きじゃくる僕に、世凪が近づいてくるのがわかった。
 僕の視線の先に世凪のつま先があった。背伸びをするようにゆっくりとかかとが浮いていき、僕の額にやわらかいなにかがあたった。そのあとにあたたかさを感じた。世凪のてのひらと同じあたたかさだった。
 世凪の香りが僕を包んだ。
 お母さんとは違う種類の、やさしいにおいだった。
 僕の心の中は世凪でいっぱいになった。世凪の唇を額に感じながら、僕の心を覆い尽くしていた悲しい気持ちがおいやられ、穏やかな気持ちが満ちていく。
 世凪はゆっくり離れていって、僕をまっすぐ見つめた。
「……泣き止んだ」
 僕はその姿を茫然と見つめた。世凪の前髪が風に揺れていた。真っ赤な瞳は幸せそうに細められている。この子となら友達になれるかもしれない、初めて会ったときにそう思わせてくれたあの笑顔を、世凪は今も浮かべていた。今日はあの日より、頬が少しだけ朱く染まっている。
 きっと、僕も同じようになっているんだろうと思った。頬が熱かったからだ。
 世凪は僕の手をとってもう一度歩き出した。オゾンレンズ越しの空の端が紺色に変わってきている。前を向くとトウモロコシ畑の途切れたところに、僕の家が見えてきていた。
「あ……」
「あれが海斗のおうち?」
「うん」
「わたしも一緒にいっていい?」
 世凪は歩きながら僕を振り返った。僕は黙ったままうなずいた。

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