「さくらと今、歩きだす」〜3月の短編ファンタジー

音声でどうぞ↓
音声 さくらと今、動きだす 1

        1

 人間は、自分たち生き物にだけ意識があると思っている。
 わたしたちに意識があるなんて、思ってもいない。
 人間はいろいろなことを知っていると思っているけれど、実は何も知らない。
 大切なことは、何も知らない。
 何一つ。


 あの子とわたしが出会ったのは、桜が咲き始めたあの子の10歳の誕生日だった。
 わたしはあの子の誕生日プレゼントとして、両親からあの子に与えられた。
「わあ、かわいいくまちゃん。
 大事にするね」
 あの子は、大きな目を輝かせた。
 わたしにぎゅっとおしつけられた色白の頬が、桜色に染まった。
「名前、何にしようかな」
 あの子は3日間悩んで、
「さくら。さくらにする!
 桜が咲いたら、来た子だから!」
 あの子は宿題する時も寝る時も、わたしをそばにおいた。
 家族で出かける時もわたしを連れていき、そこでわたしの写真を親にスマホで撮ってもらった。

 春には、両親とあの子とあの子の4つ上の姉とお花見に行った。
 毎年、桜の下でわたしは写真を撮られた。
「陽菜(ひな)も一緒に入れば?」
「いい」
 あの子は、写真を撮られるのを嫌がった。
「私と撮って」
 4つ上の姉が決まって出しゃばった。
 それでも、あの子はわたしだけの写真も必ず撮ってもらった。
 後でプリントしてもらった写真を見て、あの子は言った。
「幸せそうなさくらを見てると、幸せ」
 そう言ってほほえむあの子を見て、わたしもとても幸せだった。
 日常の中であの子が泣かされることもあったけれど、こういう毎日がずっと続くのだと思っていた。

 あの子は、優しい子だった。
 それに対して4つ上の姉は、いじわるだった。
 陽菜に平気で「ブス」と言った。
「バカ」と言った。
 なぜ姉がいじわるなのか、理由はあった。
 父親は会社で相当ストレスがあるらしく、陽菜の母親である妻に八つ当たりすることが多かった。
 母親はそのストレスに加えてパートでのストレス、近所でのストレス、ちょくちょく口を出してくる姑からのストレスでいっぱいいっぱいだった。
 そのストレスを、母親は2人の子どもにぶつけた。
 母親はあの子の姉にもあの子にも、「ブス」「バカ」と平気でののしった。
 ヒステリックに怒ることも多かった。
 姉はそのストレスに加えて学校でのストレスもあったようで、それをあの子に向かって吐き出していた。
 誰もが、自分より弱い者にストレスを無邪気にぶつけていた。
 それが相手に、どんなダメージを与えるかなど少しも考えずに。
 もしあの子が同じような人間だったなら、きっとわたしをなぐったり蹴ったりしただろう。
 けれどあの子は、一切そんなことはしなかった。
 毎日私の頭をなで、服を整えリボンを整えてくれた。
「かわいいさくら、大好き」
 そう言って抱きしめてくれた。
 わたしは、あの子が大好きだった。

 あの子の姉が、中学3年の時だった。
 学校で嫌な目にあったらしく、わたしの足を持ちわたしの身体を共同の子ども部屋の壁にガンガンぶつけ始めた。
 あの子は泣きながらわたしを取り戻そうとした。
 あの子は何度も突き飛ばされ、わたしは首がもげそうになった。
 あの子が泣き叫び、母親が階下からやってきた。
「何騒いでるの!
 いいかげんにして!」
 母親もストレスでいっぱいだった。
「お姉ちゃんがさくらを!」
「何よ! ただのぬいぐるみでしょ!」
 あの子はぎょっとして、かたまってしまった。
 小さな声で言った。
「ただのぬいぐるみじゃない」
 その声は、母親と姉のどなり声でかき消された。
「やめなさい! 壁が傷つくでしょ!」
「うるさいっ!」
「親に向かってうるさいとは何よ!」
 母親が姉から無理にわたしをもぎとったので、わたしの首がちぎれてしまった。
「さくら!」
 あの子が悲痛な叫び声を上げた。
 母親がそれに怒った。
「いいかげんにしなさい! ぬいぐるみ一つに騒ぐんじゃないわよ!」
 母親はちぎれたわたしの頭を、あの子に向かって投げつけた。
 姉も、持っていたわたしの胴体をあの子に向かって投げつけた。
 あの子が壊れ始めたのは、おそらくあの時だった。
 けれど愚かな人間たちは、何もわからない。
 その時のことを覚えてはいるだろうけれど、たいしたことだとは思ってもいないのだ。
 いつも自分の抱えている悩みこそが、世界の大問題だと思いこんでいる。そしてそれ以外は、たいしたことではないと。
 彼ら彼女らは、相手の心をおもんぱかるということなど一度もしたことがない。ただ自分より強い人間の顔色だけはうかがい、それでまわりを気遣う人間だと思いこんでいる。



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