上っていく顔たち〜ちょっと哲学的な短編ファンタジー


 それが始まったのは、突然のことだった。
 蒸し暑くなりだした5月の中旬、夕飯の後、いつものようにパソコンのキーをたたいていた。

 私の視界に、それらが容赦なく入ってきた。
 あまりにおかしな現象が起こった時、人はあんがい声が出ない。

 私はただ固まって、それらをみつめていた。

 テーブルの向こうで、たくさんの顔が天井に向かって上っていたのだった。
 顔、というか頭部だ。
 天井に向かって上っていき、すうっ、すうっと音もなく天井に消えていく。

 下を見ると、床からすうっ、すうっと音もなくあらわれていた。

 男性、女性、若者、年配者、子ども……、いろいろ混ざっている。


 私はわりあいオカルト体質なのか、子どもの頃から不思議な体験をすることが多かった。
 けれど、ここまで異様な光景を見たのは初めてのことだった。

 不思議と怖い感じはしない。
 たぶん死霊ではない。
 人びとの意識が、たまたまそこに見えているだけのようだった。
 
 よく見ると、みな陰鬱な顔をしていた。
 楽しそうな顔は誰もしていない。
 皆、必死そうな顔をしてただ上っていた。
 

 気にしないようにしてパソコンのキーをたたき始めたものの、動いているものはどうしても目に入る。

「ああもう、どういうこと?
 なによ、これ!」

 ついに私は、立ち上がった。

「あなたたち、なんでそんな必死に上ってるわけ?」

 すると、返事が返ってきた。

「上らなければ競争に負ける」
「上をめざさないと」
「勝たないと」
「負けたくない」

「負けたっていいじゃないの」
 言ってみると、

「とんでもない。
 負けたら価値はない」
「勝たないと」
「上らなければ」

 そう言って彼らは天井にすうっ、すうっと消えていった。
 そうしてまたあらたな顔たちが、床からすうっ、すうっとあらわれては上っていく。



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