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2021年 08月の記事 (28)

皆月蒼葉 2021/08/17 20:10

近況報告(2021年8月前半)

 来月から本格的にCi-enで活動を始めるわけですが、緊張してきたな……。8月前半は割といろいろやった2週間でした。

アウトプットしたもの

 フィンランドを舞台とした音楽SF長編のプロットが、どうにもはっきり長編と言いがたいサイズなので、いろいろ混ぜ込んだりこねくり回したりして膨らませつつ、固まっている部分を書き進めたりしていました。
 また、インプットにも関わる話ですが、『文体の舵をとれ』という小説の書き方本を注文しました。この本、章末に練習問題とやらがついているらしいので、それもCi-enで公開したりしようかな。

インプットしたもの

 映画をいくつか見ました。「フルメタル極道」はタイトルでヤバと思って見ちゃったんですが、こんな出落ちみたいなタイトルと設定(その名の通り、ヤクザがフルメタルサイボーグになる)でも、最低限エンタメとして楽しめる形にはなっていたのが、なんだかんだで三池監督すごいなと思いました。
 「言の葉の庭」は、「秒速5センチメートル」以外の新海監督作品を全然見ていなかったので、短めのやつから触れてみようと思って見たんですが、うつ病描写が身につまされすぎて、見た後しばらく何もできなくなったし呼吸は乱れに乱れたし、何ならその夜夢にまで出た。うつ病描写がある作品は今後手に取らないようにしようと思いました。
 「劇場版アイカツスターズ!」は織戸さんのレコメンドで見ました。アイカツで二次創作してる友人がいるのに、アイカツに全然触れられていなかったので、片鱗を掴むことができて本当によかったです。ゆめとローラが花畑で向かい合って両手を繋いで「告白し合う」シーン、本当にいいのか? 小さいご友人にこれをお出しして本当にいいのか??? とおののいていました。

その他

 『文体の舵をとれ』は、本当はこの記事を書いている頃にはもう手元に届いているはずだったんですが、期限切れのクレジットカードを間違って使っちゃってたみたいで、今日になるまでそれに気づいていませんでした……。

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皆月蒼葉 2021/08/14 02:53

光景と解釈の話

 まだ月の中盤くらいだと思ってたのでカレンダー見てひっくり返った。

 お久しぶりです。もうすぐ冬コミの当落が出る時期ですね。冬コミは受かっていれば艦これ本を出しつつ、リリカルなのはのサークルさんが計画してる合同誌に寄稿する予定です。で、これは多分の話なんですが、艦これ本を出すのはこれがひとまず最後になるかな、という気がします。

 別に艦これに飽きたというわけじゃないんですよ。今もpixivで艦これのマンガとか読んではぐねぐねしてるし、細々したアイデアは思いつくたび書き留めたりしています。ただ、今まで何冊か書いてきた中で、やりたいことはあらかたやってしまったなあという気持ちがここ一年すごく大きくなっていて。

 歴史改変と、艦娘とは何なのか、深海棲艦とは何なのかという話については、『終わりの花』でやってしまった。幻の戦艦土佐と、別の意味で幻の駆逐艦イワナミとについては、『ランドスケエプ』でやってしまった。あの世界はすべて集団幻覚の上に成り立つだけのものなのでは、という仮説は『艦娘ゲーム』で、深海棲艦も死んだら艦娘になるのではという発想は『楽章a』でやってしまった。深海棲艦は長江流域に栄え、三星堆文明の担い手となったという頭のおかしい妄想は『日本史の中の深海棲艦』でやってしまった。もうね、残ってないんです。

 もちろん、先ほども書いたように細々としたアイデアならいくつもあります。ゆうさみが文通を重ねるんだけど、やがて二人とも沈んでしまって、由良と涼風がそれぞれ夕張・五月雨として文通を続ける話だとか、夕張が起きると五月雨が眠り、五月雨が起きると夕張が寝てしまう相互影響性のある疾病に苦しむゆうさみの話とか、艦娘制度の広報のために小学校にやってきた夕張さんに憧れてしまう小学生の話とか。でも、それってすべて「光景」なんですよね。

 僕は二次創作を書く時に、基本的には「光景」か「解釈」かのどちらかをみんなに見せようとしてるんです。「解釈」は、原作の部分や全体について「ここはこういうことなんじゃないのか」と考えて出した僕なりの仮説。解釈それ自体では小説にならないので、その解釈をベースにお話を作ってやる必要がある。必然、わりとしっかりした分量のものができあがります。一方の「光景」は、「こういうの、絵になるよね……」という情緒的な思いつき、いわゆるシチュエーションです。光景はそれ単体でもまあまあSSとしては成り立ってしまうし、逆に肉付けをすると僕が見せたい光景がぼやけてしまう。

 どちらが上かというのは、こと二次創作という枠内で言えば答えを出すべきものでもないと思いますし、ここで検討するつもりもありません。ただ、少なくとも僕にとって書いていて楽しいのは解釈の方なんですよね。その解釈が、艦これにおいては枯れてしまった。寂しく、悲しいことです。

 解釈は特にせず、僕が見る光景をひたすらみんなに見せ続けるというのも、楽しいことだとは思います。そうしているサークルも割と多いと思う。でも、僕がやりたいのはそっちじゃない。できる限りがんばって、最後に一つだけ残している解釈を形にしてから、別のジャンルに行きたいなと考えています。

 もちろんこれはコミケの話なので、今後一切艦これの二次創作をやらないというわけではありません。先述の光景はどれもめっちゃ書きたいやつなので、オンリーイベントだとか、pixivなんかでもいいですね。どこかで出せていければなと思っています。

 そんな感じです。冬コミの本、ちゃんと出せるといいな。

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皆月蒼葉 2021/08/14 02:34

そもそもタイトルが意味分からんが――「三光インテック事件」についての解説各論①

 そもそも法律に詳しい人間でなければ「中労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」というタイトルの意味から分からない可能性ありますよね。というか実際にそういう感想を見た。まあそれはそう。何の暗号なんだ、ともなろうものですよ。本文中にも似たようなものが出てくるので、一応ここで解説しておきます。分からなくても通読には何の影響もないです!

 さて、あのよく分からん文字の羅列。あれは裁判の判決だとかを表すための書式なんですよ。裁判って、めちゃくちゃ有名な事件であれば「たぬき・むじな事件判決」とか「ゴナ事件判決」みたいな名前がつけられることもあるんですけど、普通はそんな名前はつきません。せいぜいが「東京高裁昭和61年(ネ)第814号」みたいなすこぶる分かりづらい事件番号や、「出版等差止請求控訴事件」みたいなフワッとした事件名しかないんですよ。

 なので、特定の判決について言及したいときは、その判決が出された日で言い表すというルールが存在します。例えば先ほどの「東京高裁昭和61年(ネ)第814号出版等差止請求事件」は、1986年2月26日に判決が出されています。この場合は、「東京高判昭和61年2月26日」と表記します。最初の3文字は「東京高等裁判所で出された」という意味で、次の「判」は判決を意味します。裁判所は判決以外にも「決定」なるものを出す場合もあるので、その場合は「東京高決」となります。あとは判決日ですね。なんか知らんけど和暦で書くルールになってます。判決日については「昭61.2.26」のように略記することも多いです。

 ちなみに、例えば大阪地方裁判所で出された判決は「大阪地判」で始まりますし、名古屋地方裁判所岡崎支部で出された判決は「名古屋地岡崎支判」で始まります。最高裁判所で出された判決だけは少し特殊で、どの部屋で出された判決かまで表記することがあります。その場合、大法廷で出された判決は「最大判」、第三小法廷で出された判決は「最三小判」で始まります。ただ、そこまでこだわらずに「最判」とだけ書くこともあります。また、地裁や高裁は戦前からありましたが、最高裁は戦前にはなく、代わりに大審院という機関がありました。大審院の判決は「大判」、大審院連合部(最高裁大法廷と同じようなもの)での判決は「大連判」で始まります。

 このルールは裁判所での判決や決定だけに留まりません。例えば公正取引委員会が出す「命令」や、特許庁が出す「審決」、国税不服審判所が出す「裁決」などの準司法手続もすべて同じ。ただし、裁判所の判決は「判」と略記されていたのに対し、命令は「命令」、審決は「審決」と、省略はせずに表記するようです。なので、「公取委命令」や「特許庁審決」、「国税不服審判所裁決」といった感じですね。

 今回の小説は、令和36年10月16日に出された中央労働委員会の命令です。この場合、「中労委命令」とかで始まりそうなものですが、なぜか労働委員会の命令については「命令」とまでは書かないことが多いみたいです。なので、「中労委令36.10.16」となります。

 続いて事件名です。先ほど、よほど有名な裁判でもない限り分かりやすい事件名はつかないと書きましたが、実はこれには例外があって、労働関係の裁判はほぼ確実に事件名がつきます。理由はよく分からないんですが、十中八九会社名が事件名となるようです。例えば男性社員の過労自殺について会社に責任があるとされた「電通事件」とか、内部通報したことを理由に左遷したことが違法とされた「オリンパス事件」など。今回の小説は三光インテックという架空の会社が一方の当事者なので、「三光インテック事件」となるわけですね。

 さて、最後の「判レビ1357.82」で戸惑った人が割といたようです。これはどの判例雑誌に載っている判決かを示すための表記なんです。判決文は普通は裁判所まで行かないと読めないんですが、それをわざわざ取り寄せて掲載してくれる雑誌がいくつかあって、それらを「判例雑誌」と呼びます。有名なものだと『判例時報』や『判例タイムズ』、特定分野に的を絞ったものとして『金融商事判例』や『労働判例』などがあります。また、こうした雑誌は民間企業が出版している非公式なものですが、それとは別に裁判所が発行しているオフィシャルな判例集もあります。『最高裁判所民事判例集』や『最高裁判所刑事判例集』などです。こうした判例雑誌や判例集は、略称で記載されることがほとんどです。『判例時報』なら「判時」、『判例タイムズ』は「判タ」または「判タイ」、『金融商事判例』は「金判」、『労働判例』は「労判」。『最高裁判所民事判例集』『最高裁判所刑事判例集』はそれぞれ「民集」「刑集」と略します。

 で、最後の数字は、何号の何ページにその判決が掲載されているかです。判例雑誌は「○○年○月号」といった名前で出されていることも多いですが、その表記は原則使わず、通算号(巻がある場合は巻号)で記載します。ここは他の分野の学術雑誌でも同じですよね。今回の小説は『判例レビュー』という架空の判例雑誌の1357号82ページに載った命令という体裁なので、『判例レビュー』を略して「判レビ」、そのあとに「1357.82」となるわけです。

 いや、「判例レビューって雑誌の1357号82ページに載った、三光インテック事件についての中央労働委員会の令和36年10月16日付の命令って意味だよ」で済むことに何行費やしとるねん。

参考

たぬき・むじな事件(大判大14.6.9):栃木県の猟師であるAさんが、ムジナ(タヌキの別名)2匹を洞窟に追い込んで狩猟したところ、この行為がタヌキの狩猟を禁じる狩猟法に違反しているとして、逮捕されてしまった事件です。Aさんは狩猟法でタヌキの狩猟が禁止されていることは知っていましたが、ムジナはタヌキとは別の生物だと思い込んでいたのです。大審院は、タヌキとムジナが同じ動物だということは広く国民に知れ渡っている事実ではなく、むしろAさん同様に別の生物だと思い込んでいる人も少なくない以上、罪を○す意志はAさんにはなかったとして、Aさんに無罪を言い渡しました。「○○することは禁止」という法律を知らずに○○しても罪は罪ですが(違法性の錯誤)、××も○○に含まれるという事実を知らずに××した場合、罪とはならない(事実の錯誤)という概念の代表的な判例です。変な名前の事件の代表格ですが、刑法ではハチャメチャに有名な重要判例なんですよ。

ゴナ事件(最一小判平12.9.7):写植機メーカーである写研は、1975年に極太モダンゴシック体「ゴナ」を発売しました。その後、ライバル会社のモリサワが1990年に「新ゴシック体」を発売しましたが、これがゴナと酷似したデザインであったため、写研がモリサワを著作権侵害で訴えたところ、モリサワも負けじと「ゴナこそモリサワのツデイという書体の著作権を侵害している」と写研を訴え返した事件です。しかし、最高裁は、そもそも書体はよほどの独創性を持ち、かつ文字自体が美術鑑賞できるレベルの美的特性を持たない限り著作物にならないとして、両者の訴えを退けました。やすやすと書体に著作権を認めてしまうと、小説や論文を出版する時にいちいち書体制作者の許諾を得なければならなくなるなど問題が多い、というのがその理由だと最高裁は述べています。ちなみに、書体の著作権を争う裁判はその後もしばしば起こされていますが(最近だと東京地判平31.2.28判時2429.66)、裁判所は概ねこの判例を引用して著作物性を否定しています。

東京高判昭61.2.26:いわゆる「太陽風交点事件」。SF作家である堀晃が、短編集『太陽風交点』の単行本を早川書房から出版した2年後に、徳間書店との間で同書の文庫版を出版する契約を結んだところ、早川書房が文庫判出版の差し止めを求めた事件です。早川書房は、出版業界の慣例として、文庫判の出版までは単行本の出版社が出版権や出版許諾権を持つと主張していましたが、一審の東京地裁は、早川書房と堀晃との契約は口約束でしかなく、出版権について明示的な文書は交わされていないと指摘して、早川書房の訴えを退けました。二審の東京高裁も、地裁判決に加えて、そもそも早川書房が主張するような慣例自体あるという証拠がないとして、同じく早川書房の訴えを退けています。契約はちゃんと書面で交わそうね、という話なんですが、ツイッターとかを見ていると、出版業界ではいまだに書面を交わさない契約も横行しているようですね。怖いですね。

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皆月蒼葉 2021/08/14 02:23

合同誌に参加しました!

 というわけなんです! 仲のいいフォロワー(「仲のいいフォロワー」は「恋人」という意味で使われることのある表現ですが、ここでは文字通り「仲のいいフォロワー」という意味で使用しています)(その注釈いる?)が主催した一次創作小説の合同誌『紙魚はまだ死なない』に、カメオ参加させていただきました(「カメオ参加」とは「ほんの短い時間だけ参加すること」を意味しますが、ここでは「カメオ参加」って言いたかっただけで実際普通に参加しました)(だからさあ)!

 『紙魚はまだ死なない』のコンセプトは、「リフロー型電子書籍化が絶対に不可能な小説合同誌」です。電子書籍というと、PDFみたいにどんなデバイスやディスプレイで表示してもレイアウトが変わらないものと、Kindleの一部書籍のように文字サイズを拡大するとレイアウトもそれに伴って変わるものとがあります。後者のスタイルを「リフロー型電子書籍」と呼びます。そうした形での電子書籍化が絶対に不可能な小説の合同誌。

 主催者を含め6人の参加者は、各自が手を変え品を変え、これでもかと言うほどにリフロー型電子書籍化ができないよう親の敵のように工夫を凝らしすぎました。中には工夫を凝らしすぎて、もはや小説ではなくなっているものもあります。あまり参加者の悪口を言いたくないんですが、「中労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」という小説なんかは、本当に小説と呼ぶのもおこがましいようなひどい作品で、作者は筆を折るべきなのではないかと密かに思っています。

 さて、そんな合同誌にぼくも一作寄稿しています! 「中労委令36.10.16三光インテック事件(判レビ1357.82)」という小説で、2050年を舞台にした法学SFです。法学SFとかいう聞いたことのない単語をいきなり出すな。あらすじについては、なんか、書けば書くほど自分でもわけが分からなくなっていくので、とりあえずサンプルを見て雰囲気を掴んでくれ。



 何だこれ……何だこれ……。

 全編この調子なんですが、別に法学の知識がなくても読めるのでご安心ください。そういう問題ではないと思うが。他の作品はまっとうに面白いものばかりで、なんか一作だけ読み取りエラーみたいな感じで浮いていますがよろしくお願いします!

 リフロー型電子書籍化不可能小説合同誌『紙魚はまだ死なない』は、今日主催者の手元に納品されたとのことなので、近いうちに販売開始されると思います! 販売開始されたら通知メールを送るよう登録もできるので、ぜひ今のうちに登録しちゃいましょう!!

販売ページ: https://sasaboushi.booth.pm/items/1949940

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皆月蒼葉 2021/08/14 02:20

創作と感想のことについて

 創作と感想についての話題でシーンが盛り上がるのは花火くらい定期的なものなんですが、そういえば今年はびわ湖花火大会も中止になったんでしたね。コミケ2日分の人が一気に大津に押し寄せる地獄のイベントで、会場最寄りのコンビニでバイトしていたときは本当に死ぬかと思った。あれ以来、混雑時のコンビニはできる限り使わないようにしてあげようと心に決めています。国際展示場駅前のローソンでモンエナを買うのはやめよう。

 何の話がしたいのかというと、ローソンの話でもコミケの話でも花火の話でもなく、創作と感想についての話なんですが、とにかく導入が下手。今回の発端はFANBOXらしく、僕も件の記事を読んでみたのですが、何ともやりきれないなあという気持ちになりました。と同時に、同じ支援サービスを使っている身として、一応の僕のスタンスとか、思いとかをお知らせしておいた方がいいのかなあと思うので、つらつらと書いていきます。嘘。つらつらとなんか書いていけないです。ガッ……ガガッ……と調整できてない鉋みたいな感じで詰まり詰まり書いています。

発端の記事について

 記事はこちらです。

https://m-molockchi.fanbox.cc/posts/1311201

 いわゆる「死体蹴り」みたいなことはしたくないので、リンクを張ろうかどうか悩んだんですが、未読の人にとって話がいまいち見えないまま記事が進んでいくのもどうかなと思い、一応張っておきます。念のため最初に言っておきますが、この記事や、記事を書いた方を非難する気も、または擁護する気も僕にはありません。

 記事を要約すると、FANBOXで連載中の小説に感想が一件も来ず、それどころか目に見える反応すら観測できず、一方で数巻を出していた商業出版も担当編集者からのコンタクトが途絶した状態で、小説を書く気が完全に失せてしまったため無期限活動休止する、という内容です。

 やるせないなあ。

 感想や反応がないのって、確かにそれなりに堪えるんですよね。小説を書くのって、ツイッターに思考を垂れ流すのとは違ってかなり神経を使う作業だし、一作を書くのに何十時間も費やす必要がある。そうしてやっとの思いでこしらえたものに対して、なんのリアクションもないとなると、壁打ちの徒労感だけが重くのしかかってくるんです。だからこの人の気持ちも分からなくはない。つらかったんだと思う。

 ただ、この記事を読むにつけ、月500円という決して安くないお金を毎月払っていた60人以上の支援者の方々に対しても、かわいそうに……という気持ちが出てきてしまうんですよね。その人達は、「お金を毎月払っている」、言い方を変えれば「解約するという手段をいつでも取れるにもかかわらず、取らずにいる」という形でリアクションをしていたわけで、それにもかかわらず「感想も反応もないのでやめる」という言葉を突きつけられるのは、まさに「お前達が反応しないからやめるんだ」と言われているに等しく、この上なくしんどいことだと思う。

 僕はライトノベルをほとんど読まないということもあり、この記事を書いた諸口正巳さんという方を存じ上げません。ただ、この方は少なくとも商業作家としてゲームのノベライズを担当し、これまでに4巻を上梓している。それ以前にも様々なレーベルでライトノベルを書いておられるわけで、物書きとしての格は僕なんかに比べれば氏の方が圧倒的に上です。僕はといえば何年も前に出版社の方から「これは賞ではないからね」という注釈付きで大森望賞というバッジをもらっただけで、その後何の活躍もできずにいるわけで、これがもしラップバトルであれば「誰だお前、知らねえ CDの1枚も出してねえ」とdisられて、バトル後の歓声もまったく上がらないような立ち位置の人間です。

 もし氏がこの記事を読んだら、「よく知りもしない人間がごちゃごちゃと言いやがって」と思うでしょうし、僕自身そう思っています。盛り上がっている話題にいっちょ噛みしているようにしか感じられず、あまり記事の内容についてとやかく言いたくはないですし、言うつもりもありません。ただ、氏自身にも、その支援者の方々にも、つらくやるせないだろうなあという気持ちを受けてしまった。そのことだけ書いておきます。

反応駆動で創作をする危うさ

 ここからは一般論です。諸口正巳氏について綴るわけではなく、あまねく創作を行うすべての方について述べる文章です。

 冒頭で花火のように定期的なものと書いたとおり、創作と感想についての話は本当に恒例行事のように話題になります。いろんな方が、それぞれの立場から、感想を書いてほしい、感想を書くよう押しつけるな、感想も内容によっては毒だ、感想なんか書けない、などとさまざまな主張を繰り広げています。僕のスタンスはここ数年一貫していて、少なくとも僕自身の創作物への感想については「感想なんか書かなくてもいいよ。貰えるならありがたく受け取るけどね」というものであって、一般論としては「好きにすればいい」というものです。

 何度かTwitterにも書いていますが、僕は「僕が読んで楽しい、格好いいと思えるものを書きたい」というスタンスで小説を書いています。だから正直なところ、読者を置いてけぼりにすることもありますし(三光インテック事件はひどかったですね)、僕にしか分からないだろうなあという小ネタの埋め込みも息を吐くように行っています。要は「自分が楽しむために書いている」というスタンスに近いので、他人から感想が貰えなくても「まあでも僕の中ではめちゃくちゃよかった」とある程度折り合いを付けてしまえます。もちろん感想が貰えるならそれはとても嬉しいことですし、特に僕の意図をしっかりと掬ってくれるようなものだとむせび泣いてしまうことだってあります。だからたまに思い出したかのように「僕の小説読んでくれ~」と宣伝したりします(この記事を書いている今日もしました)が、基本的には宣伝しません。そこまで自分の作品に固執していない。

 これに対して、感想がほしいと叫ぶ人たちの中には、感想を目当てにして創作をしてしまっている人が多いように思います。僕はそういうスタンスを「反応駆動」と呼んでいるんですが、要は作品を書き上げることではなく、書き上げた作品に対して反応をもらうことがゴールになってしまっている。だから作品を作り上げてもそこで満足できず、反応が来るまでピリオドを打てない。感想が来ないと、それは不出来によって黙殺されているのではないかと感じるようになってしまう。そうでなくとも、徒労感が押し寄せて負担となる。

 感想を求めている人全員がそうだと言うつもりはありませんが、そうなってしまっている人が多いのではないかなあと思います。感想が貰えないという状況は、実際にはそこには何の悪意もなく、単に目に見える反応をする人がいなかったか、あるいは作者の観測範囲の外にいただけというのがほとんどなのですが、最終的には存在しない悪意を仮定してしまう人も出てきます。そうでなくても、壁打ちはつらい。

 それに、もし感想が貰えたとしても危うさがつきまといます。貰えた感想が毒を持っていた場合、蛸壺化、あるいは(僕の嫌いな言葉ですが)駄サイクル化する危険性があるからです。「○○を書いても無反応だったけど、××を書いたら感想が貰えた」「××の中でも特に△△を書くと確実に感想が貰える」というような成功体験によって、局所解――ごく一部の読者だけを意識した創作しかできなくなる人はそれなりにいます。

 もちろん、反応駆動が一概に悪いとまで言い切る用意は今のところありませんし、僕のスタンスだって危うさを孕んでいるのは事実です。自分の好きなことだけ書き殴るというのは、突き詰めれば他人のアドバイスを一切聞かずにがむしゃらに書き殴ることに繋がるわけで、より深い蛸壺にハマっていきかねませんからね。そういう意味では、毎回何か書くたびにしっかりと辛辣な評価をくださる先輩方の存在は(皮肉ではなく)本当にありがたいと思っています。

感想を延命装置として用いるべきなのか

 今回の件に限らず、Twitter等で比較的よく見られる言説の一つに、「感想がないと作者は創作を行う気力をなくしてしまう。だから読み手は感想を書くべきだ」というものがあります。特に読み手側からこの言葉が出ることが多いように思います。「大好きな作者が創作をやめてしまってからでは遅い」というような論調で。ですがこの考え方については、僕個人としてはまったく賛同できません。

 こうした考え方の前提にあるのは、「創作をする人はそもそも承認を求めている」という仮説です。創作者は第一義的には承認を得ようと創作をしていて、だからこそ感想や反応という形で承認が得られないと創作をやめてしまう、という論法ですね。そういう仮説がないと、この考え方は成り立たないように思えます。例えば先ほどわざわざ「第一義的には」と断りましたが、二義的、つまりメインの目的ではないにしろ一応承認をも求めている、という状態で創作者が創作を行っているのであれば、承認が得られなかったところで、メインの目的が別にあるのならその創作者は創作を続けるはずです。

 この考え方については、非常にひねくれた見方をすれば、創作者をバカにしているのかな、とすら思わされる危うさを持っているのではないかな、と僕は考えています。創作者は誰かに褒めてもらいたいがために、小説を書いたり漫画を描いたり音楽を作ったりしている。だから誰からも褒められないと、その人は拗ねて作るのをやめちゃうよ、と。これ、創作を行っている人は怒っていい考え方だと僕は思うんですよ。もちろん、先述の考え方を主張する人は何も「アイツらは褒めないと拗ねるから」というような悪意めいた発想を明確に抱いているわけではありません。十中八九、いやまず十割、善意でそうした主張をしているはずです。しかし、その考えをよくよく考えると、どうもそうなってしまうのではないか、と。

 まあ、中には本当に「承認されたくて創作をしている」という人もいるかもしれません。いや、いるのは確実にいるはずです。では、そういう人に対して「創作を続けてほしいから」感想を送るというのは、それは正しい行為なのか。そこについても僕は、疑問を呈せざるをえないな、と思ってしまいます。

 上の方でも書きましたが、創作をするのって、ものすごくしんどい作業なんです。まずもって孤独。自分の中にしかない考えを自分の力だけで形にしていかなければならない。それに、創作において正解や王道などというものも存在せず、ひたすら手探りで暗闇の中を進んでいくような作業をじっと続けなければならない。それが創作です。そこまででもないって? まあそういう人もいるかもしれません。創作のイメージは人それぞれだとは思いますが、要するに僕が言いたいのは、「承認を得る手段としての創作は、異常なほどにコスパが悪い」ということです。知名度の非常に高い原作の力を借りた二次創作でもない限りは、本当にコスパが悪い。何十時間も掛けて一つの作品を作り上げて、感想が1件でも貰えればいい方で、まったくの無反応というのもザラなんです(1件でも感想をくださるというのは、とてつもなくありがたいことですよ、念のため)。

 翻って世の中を見渡してみれば、もっと手軽に承認を得られる舞台なんていくらでもあります。仕事でもいいし、スポーツでもいいし、友達や恋人を作るでもいい、ペットを飼うでも構いません。何かしら、自分に向いた(=コストの低い)被承認手段があるはずなんです。もし創作がコストの低い手段だという人がいれば、その人はおそらく創作で稼いでいるプロの方です。そういうことなんです。たいていの人には、創作なんて地獄のような(言いすぎかも知れませんが)手段よりも、もっとよい手段がある。

 それを、読み手の勝手な「続きを読みたいから」という思いだけで、無理矢理に相手を創作につなぎ止めてしまっていいものなのか? そういう風に、僕は捉えてしまうんです。言い方を変えて、もっと明け透けな表現をすれば、「感想が来ないから創作をやめるような人は、元々創作に向いていないんだから、無理に引き留めようとするな」ということです。そこまで悪意のこもった見方をあえてする必要もないとは思いますが、少なくとも僕が言いたいのは、「感想は創作者を引き留めるために使うカードなんかでは、決して、絶対に、間違いなく、ない」ということ。そして、そういう用途で感想を書いて欲しくないということです。

健康な感想を、健康な創作を
 というわけで、世の創作を楽しむ方々については、ぜひ健康な感想を書いてほしいなと思います。何かを読んだり、見たり、聞いたりして、心を揺さぶられるものがあったから、その思いを文章にまとめる。面白かった、感動した、唸らされた……内容は何でも構いません。文章に自信がなくても、あなたの感じたことは真実なのですから、それをどうにかして手持ちの言葉で模写すればいいんです。下手でも構いません。感想の文章が下手だからといって、機嫌を損ねるような創作者は、ちょっと想像できないので。

 ただ、その感想の目的が、自分の興奮を作者に伝えるためではなく、作者をつなぎ止めるためなのであれば、その感想は、出すべきではないのではないか、と僕は思います。少数のファンによる「買い支え」で保っている会社や業界が、不健康で先行きもよくないのと同じで、感想を送って無理矢理作者を走らせることに、果たして意義はあるのかな、と僕としては思うわけです。

 そして、創作者としても、感想を第一義的な目的にするのは危険です。「この話を書きたい」「自分を表現したい」「世界に問いかけたい」……創作の動機は何でも構いませんが、少なくとも、「誰かに褒められたい」という思いで筆を執るのは、貴方自身の首をゆっくりと締め付けていくことに繋がりますから。

 これまで、感想が貰えず筆を折った多くの元・創作者へ、「お疲れ様でした」の言葉をかけて、この文章を終えることにします。

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