[芥川龍之介] 蜘蛛の糸 ファストノベル
一
ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池《はすいけ》のふちを、独りでお歩きになっていらっしゃいました。極楽は丁度朝なのでございましょう。
やがてお釈迦様は、ふと下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当たっていますから、水晶のような水を透き通して、はっきりと見えるのでございます。
すると地獄の底に、カンダタと言う男の姿が、お目に止まりました。この男は、色々な悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善いことをした覚えがございます。ある時この男が深い林の中を通りますと、蜘蛛が一匹、道を這って行くのが見えました。そこでカンダタは足を上げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。いくらなんでも可哀そうだ」と、その蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
お釈迦様は、このカンダタは蜘蛛を助けたことがある、とお思い出しになりました。そしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、極楽の蜘蛛が一匹、美しい糸をかけております。お釈迦様はその糸をそっとお手にお取りになって、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下しなさいました。
二
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮き沈みをしていた、カンダタでございます。ここへ落ちてくるほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れ果て、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。流石のカンダタも、血の池にむせびながら、ただもがいてばかりおりました。
ところが、何気なく空を眺めますと、遠い天上から、蜘蛛の糸がするすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸を登っていけば、きっと地獄から抜け出せるに違いございません。
こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手で掴みながら、一生懸命に上へ上へとたぐり登り始めました
すると、一生懸命に登っていった甲斐あって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう闇の底にいつの間にか隠れております。カンダタは、ここへ来てから何年も出したことのない声で、「しめた。しめた」と笑いました。
ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、上へ上へよじ登ってくるではございませんか。この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに耐えることができましょう。もし万一途中で切れたといたしましたら、折角ここへまで登ってきた自分までも、元の地獄へ落ちてしまわなければなりません。が、そういううちにも、罪人たちは何千となく、うようよと這い上がって、蜘蛛の糸をせっせと登って参ります。
カンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と喚きました。
その途端でございます。今までなんともなかった糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れました。あっという間もなく風を切って、見る見る中に闇の底へ、真っ逆さまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中程に、短く垂れているばかりでございます。
三
お釈迦様は一部始終を見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、相応の罰を受けて、地獄へ落ちてしまったのが、浅ましく思し召されたのでございましょう。
しかし蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着いたしません。その白い花は、ゆらゆら花弁を動かして、真ん中にある金色のおしべからは、なんとも言えない良い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れております。極楽ももう昼に近くなったのでございましょう。