自遊時閑 Nov/11/2023 20:47

[芥川龍之介] 羅生門 ファストノベル

 ある日の夕暮れ時の事である。一人の下人《げにん》が、羅生門の下で雨がやむのを待っていた。
 広い門の下には、この下働きの男の他に誰もいない。羅生門が、都の朱雀大路にある以上、この男の他にも、もう二三人はいそうなものである。ところが、この男の他には誰もいない。
 何故かというと、この二三年、京都には災いが続いて起こっていた。そこで都の寂れ方は尋常ではない。
 都がその始末であるから、羅生門の修理などは誰もが見捨てていた。挙げ句の果てには、引き取り手のない死人を、この門へ捨てていくという習慣さえできた。そこで、日が落ちると誰もが気味悪がって、この門の近くへは足を踏み入れないようになってしまったのである。
 下人は石段の一番上に尻を下ろし、右頬にできたニキビを気にしながら、ぼんやり雨が降るのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨がやむのを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、どうしようという当てはない。普段なら、主人の家へ帰るべきはずである。ところが、その主人からは、四五日前にクビを切られた。だから「下人が雨がやむのを待っていた」というよりも「雨に祟られた下人が、行き場がなく途方にくれていた」というほうが、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この下人をセンチメンタルにした。
 雨はいまだに上がる気配がない。そこで下人は、何をおいても今は明日の暮しをどうにかしようと――言わばどうにもならない事を、どうにかしようと、考えを巡らせていたのである。
 雨は羅生門を包んで、ざあっという音を集めてくる。夕闇は次第に空を低くして、門の屋根が、重たく薄暗い雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば飢え死にをするばかりである。
 選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を徘徊した挙げ句、やっと一つの結論に行き着いた。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、「すれば」のままであった。これを片付けるためには、当然、その後にくる「盗人になるより他に仕方がない」という事を肯定する他ない。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、それを積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。
 下人は、門の周りを見まわした。雨風の心配のない、それと人目につくおそれのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこで夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上へ上がるハシゴが目についた。そこで、腰にさげた太刀が抜けないように気をつけながら、そのハシゴの一番下の段へ足をかけた。


 それから、何分か後の事である。ハシゴの中程に、一人の男が、息を殺しながら、上の様子をうかがっていた。
 下人は始め、上にいるのは死人ばかりだろうと軽く考えていた。それが、上では誰かが火を灯しているらしい。
 下人はハシゴを一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして首を前へ出して、恐る恐る、中を覗いてみた。
 見ると、いくつかの死体が、無造作に捨ててある。ただ、おぼろげながらわかるのは、その中に裸の死体と、着物を着た死体とがあるという事である。
 下人は、それらの死体の腐敗した臭気に思わず、鼻を覆った。しかし、次の瞬間には、もう鼻を覆うことを忘れていた。ある強い感情が、この男の嗅覚をほとんど奪ってしまったからだ。
 その時、死体の中にうずくまっている人間を見た。着物を着た、背の低い、痩せた、猿のような老婆である。老婆は、右手に火を灯した木片を持って、その死体の一つの顔を覗きこむように眺めていた。多分女の死体であろう。
 下人は、恐怖と好奇心に動かされ、暫くの間は呼吸《いき》さえ忘れていた。すると老婆は、今まで眺めていた死体の首に両手をかけると、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。
 その髪の毛が、一本ずつ抜けるごとに、下人の心からは恐怖が少しずつ消えていった。それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ働いてきた。
 下人には、もちろん、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。なので、それを善悪のどちらに当てはめてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許されざる悪であった。
 そこで、両足に力を入れて、いきなり、ハシゴから上へ飛び上がった。そうして太刀に手をかけながら、老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは言うまでもない。
「おのれ、どこへ行く」
 下人は、老婆が屍につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。二人は屍の中でつかみ合った。しかし勝敗は、初めからわかっている。下人はとうとう、老婆をそこへねじ倒した。
 「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞ」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀をその目の前へつきつけた。老婆は両手をわなわな震わせて、目を見開いて黙っている。これを見ると、下人は始めて、老婆の生死が自分の意志に支配されていると意識した。そうしてこの意識は、今まで燃えていた憎悪の心を冷ましてしまった。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう言った。
「俺はたった今この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようということはない。ただ、今何をしていたのか、それを俺に話しさえすればいいのだ」
 すると、老婆は、見開いていた目を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。それから、唇を何か物でも噛んでいるように動かした。
「この髪を抜いてな、かつらにしようと思ったのじゃ」
 下人は、老婆の答えが平凡なのに失望した。そうして同時に、また前の憎悪が、心の中へ入ってきた。すると、老婆はヒキガエルが呟くような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。
「死人の髪の毛を抜くということは、なんとも悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、それくらいのことをされてもいい人間ばかりだぞよ。今、わしが髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりに切って干したのを、干し魚だと言って、太刀帯《たてわき》の詰め所へ売りに行ったんだわ。わしは、この女のしたことが悪いとは思っていぬ。せねば、飢え死にするのじゃて、仕方がなくしたことであろ。ゆえに、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これにしても、やはりせねば飢え死にするのじゃて。その仕方がないことを、よく知っていたこの女は、きっと、わしのすることも大目に見てくれるであろう」
 下人は、太刀を鞘におさめて、冷ややかに、この話を聞いていた。もちろん、右手では、ニキビを気にしながら、聞いているのである。
 しかし、これを聞いている最中、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、この男には欠けていた勇気である。下人は、飢え死にするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の気持ちから言えば、飢え死になどという事は、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか」
 下人は嘲るような声で念を押した。そうして、不意に右手をニキビから離して、老婆の襟をつかみながら、噛みつくようにこう言った。
「では、俺が追い剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にする体なのだ」
 下人は、素早く、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍の上へ蹴り倒した。下人は、剥ぎとった着物を脇に抱えて、瞬く間に急なハシゴを夜の底へ駆け下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はうめくような声を立てながら、ハシゴの口まで、這っていった。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、洞穴のように黒い夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。

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