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ファストノベルの記事 (11)

自遊時閑 2023/11/28 20:56

[森鴎外] 高瀬舟 ファストノベル

 高瀬舟《たかせぶね》は京都の高瀬川を上下する小舟である。江戸時代、京都の罪人が島流しを申し渡されると、親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで別れの挨拶をすることが許された。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる役人で、この役人は罪人の親類の中で、代表一人を同船させることを許す慣例であった。
 当時、島流しを申し渡された罪人は、もちろん重い罪を犯したと認められた人間ではあったが、決して盗みをするために、人を殺し火を放ったというような、極悪な人物が多数を占めていたわけではない。大半は、いわゆる事実誤認のために、思わぬ咎《とが》を犯した人であった。
 そういう罪人を乗せて漕ぎ出された高瀬舟は、東へ走って、加茂川を横切って下りるのであった。この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜通し身の上を語り合う。護送をする役人は、傍らでそれを聞いて、罪人をだした親族の悲慘な境遇を知ることができた。
 役人を勤める人にも、それぞれの性格があるから、この時ただうるさいと思って、耳を塞ぎたいと思う冷淡な役人がいるかと思えば、またしみじみと人の哀しみを身に受けとめ、無言の中に密かに胸を痛める役人もいた。
 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の役人仲間で、不快な職務として嫌がられていた。


 いつの頃か、これまでに類を見ない、珍らしい罪人が高瀬舟に乗せられた。
 その名を喜助といって、三十歳ばかりの住所不定の男である。親類はないので、舟にも一人で乗った。
 護送を命ぜられて、一緒に舟に乗り込んだ役人、羽田庄兵衛は、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。さて、牢屋敷から桟橋まで連れて来る間、この痩せ身の、蒼白い喜助の様子を見るに、自分を公儀の役人として敬って、何事につけても逆らわないようにしている。
 庄兵衛は不思議に思った。夜舟で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、月を仰いで黙っている。その額は晴やかで目には微かな輝きがある。
 庄兵衛は、始終喜助の顔から目を離さずにいる。そして不思議だと心の内で繰り返している。それは喜助の顔がいかにも楽しそうで、もし役人に対する気兼ねがなかったなら、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。
 これまでこの高瀬舟の監督をしたことは数知れない。しかし乗せていく罪人は、いつも目もあてられない気の毒な様子をしていた。それに比べてこの男はどうしたのだろう。弟を殺したそうだが、どんな成り行きになって殺したにせよ、人の情としていい気持ちはしないはずである。庄兵衛には喜助の態度が考えれば考えるほど分からなくなるのである。


 暫くして、庄兵衛は堪えきれなくなって呼び掛けた。
「喜助。お前は何を思っているのか」
「はい」と言って喜助はあたりを見回した。
「いや。実はな、俺はさっきからお前の島へ行く気持ちが聞いてみたかったのだ。俺はこれまでこの舟で大勢の人を島へ送ったが、誰もが島へ行くのを悲しがって、親類の者と夜通し泣くのに決まっていた。そこへきてお前の様子を見れば、どうも島へ行くのを苦にしてはいないようだ。一体お前はどう思っているのだ」
 喜助はにっこり笑った。
「ご親切におっしゃって下さって、ありがとうございます。なるほど、島へ行くということは、他の人には悲しい事でございましょう。しかしそれは世間で楽をしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、これまでわたくしが経験したような苦しみは、どこへいっても味わうことはなかろうと存じます。わたくしはこれまで、自分の居て良い所というものがどこにもございませんでした。今度、お上は島に居ろとおっしゃって下さいます。その居ろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりも有り難い事でございます。それから今度島へお送り下さるにつきまして、二百文の銭を頂きました。それをここに持っております」
 こう言いかけて、喜助は胸に手を当てた。島流しを言い付けられたものには、二百銅を渡すというのは、当時の掟であった。
「わたくしは今日まで二百文というお金を、こうして懐に入れていたことはございません。仕事を探し歩きまして、それが見つかり次第、労を惜まずに働きました。そして貰った銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませんでした。それが牢に入ってからは、仕事をせずに食べさせて頂きます。それに牢を出る時に、この二百文を頂きましたのでございます。お金を自分の物にして持っているということは、わたくしにとっては、これが初めてでございます。島へ行ってみますまでは、どんな仕事ができるかわかりませんが、わたくしはこの二百文を島でする仕事の元手にしようと楽しんでおります」
 こう言って、喜助は話を終えた。
 庄兵衛は聞いたことがあまりにも想像の範疇を超えていて、暫く考えこんで黙っていた。
 庄兵衛はもう初老に手が届く歳になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。それに老母が生きているので、家は七人暮らしである。そして、普通の人にはケチと言われるほどの倹約生活をしている。
 庄兵衛は、喜助の身の上と自分の身の上を比べてみた。喜助は仕事をして給料を貰っても、右から左へ人手に渡して失くしてしまうと言った。いかにも哀れな、気の毒な環境である。しかし一転して我が身を顧みれば、彼との間に、果してどれほどの差があろうか。自分も上から貰う給料を、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎないではないか。彼との相違は、言わばそろばんの桁が違っているだけで、喜助の有り難がる二百文に相当する貯蓄さえ、こっちはないのである。
 さて、桁を変えて考えてみれば、二百文でも、喜助がそれを貯蓄とみて喜んでいることに無理はない。しかし、不思議なのは喜助の欲のないこと、分相応の満足を知っていることである。
 喜助は世間で仕事を見つけるのに苦んだ。それを見つけさえすれば、労を惜まずに働いて、かろうじて生活できるだけのことで満足した。そこで牢に入ってからは、今まで得難かった食が、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知ることのなかった満足を覚えたのである。
 庄兵衛はいかに桁を変えて考えてみても、ここに彼と自分の間に、大きな隔たりがあることを知った。自分の給料で立てていく暮らしは、大抵収支が合っている。それゆえそこに満足を覚えたことはほとんどない。
 庄兵衛はただ漠然と、人の一生というようなことを思ってみた。人はその日その日の食がないと、食っていけたらと思う。万一の時に備えて貯蓄がないと、少しでも貯蓄があったらと思う。貯蓄があっても、またその貯蓄がもっと多かったらと思う。そのように次から次へと考えてみれば、人はどこで踏みとどまることができるものやら分からない。それを今目の前で踏みとどまって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が付いた。
 庄兵衛は今更のように驚異の目を見張って喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から後光がさすように思った。


 庄兵衛は「喜助さん」と呼びかけた。庄兵衛はこの呼称が不適当なのに気が付いたが、今さら既に出た言葉を取り返すこともできなかった。
「はい」と答えた喜助も不審に思ったらしく、おそるおそる庄兵衛の顔色をうかがった。
 庄兵衛は少し間の悪いのを堪えて言った。
「色々と聞くようだが、お前が今度島へ送られるのは、人をあやめたからだという話だ。その訳を聞せてくれないか」
 喜助は恐れ入った様子で話しだした。
「とんだ気の迷いで、恐ろしいことをいたしまして、なんとも申し上げようがございません。
 わたくしは小さい時に両親が流行り病で亡くなりまして、弟と二人あとに残りました。初めは町内の人達が、丁度軒下に生まれた子犬を不憫がるように、お恵み下さいますので、飢え凍えもせずに育ちました。次第に大きくなりまして職を探しますにも、できるだけ二人が離れないようにいたして、助け合って働きました。
 去年の秋の事。弟が病気で働けなくなったのでございます。その頃わたくし共は掘っ建て小屋同然の所に寝起きをいたして、わたくしが食物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人で稼がせては済まないと申しておりました。
 ある日帰ってみますと、弟は布団の上に突っ伏していまして、周囲は血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、そばへ行きました。すると弟は、両方の頬から顎へかけて血に染った、真っ青な顔を上げて、わたくしを見ましたが、ものを言うことができません。
 弟は右手を床について、少し体を起こしました。左手はしっかり顎の下の所を押さえていますが、その指の間から黒い血の固まりがはみ出しています。
『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせ治りそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄貴に楽させたいと思ったのだ。喉笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。この剃刀をうまく抜いてくれたら俺は死ねるだろう。どうか手をかして抜いてくれ』と言うのでございます。
 弟が左手を弛めるとそこからまた息が漏れます。わたくしはそれほどの事を見て、どうしようという考えも付かずに、弟の顔を見ました。
 わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。しかし、弟は『医者がなんになる、あぁ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と言うのでございます。こんな時は、不思議なもので、目がものを言います。弟の目は、さも怨めしそうにわたくしを見ています。それにその目が段々険しくなってきて、とうとう敵の顔を睨むような、憎々しい目になってしまいます。わたくしはとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。
 わたくしは『しかたがない、抜いてやる』と申しました。すると弟の目の色ががらりと変わって、晴やかに、さも嬉しそうになりました。わたくしは剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引きました。この時表口の戸をあけて、近所の婆さんが入って来ました。婆さんは『あっ』と言ったきり、駆け出してしまいました。わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜こう、真っ直ぐに抜こうというだけの注意はいたしましたが、どうも抜いた時の手応えは、今まで切れていなかった所を切ったように思われました。わたくしは剃刀を握ったまま、婆さんの入ってきてまた駆け出して行ったのを、ぼんやりして見ておりました。婆さんが行ってしまってから、気がついて弟を見ますと、弟はもう事切れておりました。それから役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀をそばに置いて、死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます」
 喜助はこう言って視線を膝の上に落した。庄兵衛はその場の様子を目の当たりするような思いをして聞いていたが、これが果たして弟殺しというものだろうかという疑問が、話を半分聞いた時から起こってきて、その疑問を解くことができなかった。喜助は苦しみを見ているに忍びなかった。苦しみから救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に違いない。しかしそれが苦しみから救うためであったと思うと、そこに疑が生じて、どうしても解けないのである。
 庄兵衛は、色々と心の中で考えてみた末に、自分より上のものの判断に任す他ないという思い、権威《オーソリティー》に従う他ないという念が生じた。庄兵衛はお奉行樣の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちないものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。
 次第に更けていく朧夜に、沈黙の人二人を乗せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。

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自遊時閑 2023/11/25 22:10

[中島敦] 山月記 ファストノベル

 隴西《ろうさい》の李徴《りちょう》は博識で知性に優れていた。天宝の最後の年、彼は若くして官僚に名を連ねた。ただ、彼は頑固で人と打ち解けず、己の才覚を過信していたため、低い地位に甘んずることを良しとしてはいなかった。
 ほどなく官職を退いた後は、故郷に帰り、人との交流を絶って、ひたすら詩を作ることに明け暮れた。地位の低い役人として俗悪な高官の前に膝を屈するよりは、詩人としての名を後世に残そうとしたのである。
 しかし、詩人としての名は上がらず、生活は日を追って苦しくなる。数年後、貧窮に耐えられず、妻子のために信念を曲げ、地方の役人の職につくことになった。
 一方、これは、自身の詩人としての生業《なりわい》に半ば絶望したためでもある。彼が昔、愚鈍と断じた同輩たちは、すでに遥か高みに進んでいた。その連中から命令を受けることが、李徴の自尊心をどれほど傷つけたかは、想像に難くない。
 一年後、公用で汝水《じょすい》の近くに泊まった時、ついに発狂した。夜中、急に寝床から起き上がると、訳の分からないことを叫びつつ、闇の中へ駆け出した。その後、彼がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 翌年、袁傪《えんさん》という者が、勅命を受け嶺南《れいなん》に向かう途中、商於《しょうお》の地に泊まった。次の朝、まだ暗いうちに出発しようとしたところ、宿場の役人がこう言った。
「ここから先に人喰い虎が出るので、昼間でなければ通せない。少し待たれたほうがよろしいでしょう」
 しかし袁傪は、同行者が多勢いることを頼りに、役人の言葉を気にせず出発した。林の中を通っていった時、一匹の虎が草むらから飛び出した。虎は、危うく袁傪に飛びかかるかと思えたが、即座にその身を返して、元の草むらに隠れた。すると、中から「危ないところだった」と呟くのが聞えた。その声に袁傪は聞き覚えがあった。彼は咄嗟に思い当たって、叫んだ。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
 袁傪は友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。
 暫くして、低い声が答えた。
「いかにも、自分は隴西の李徴である」
 袁傪は恐怖を忘れ、久方ぶりの挨拶をした。そして、何故出てこないのかと問いかけた。
「自分は今や異形となっている。どうして、恥ずかしげもなくこの姿を晒せようか。しかし、今、図らずも友に会えて、恥も忘れるほどに懐かしい。ほんの少しでいい、言葉を交わしてくれないだろうか」
 彼は見えざる声と対談した。都の噂、旧友の消息、袁傪の現在の地位、それに対する祝辞。それらが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。
 今から一年程前、汝水の近くに泊まった夜のこと、ふと目を覚ますと、外で誰かが名を呼んでいる。外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。
 自分は声を追って走り出した。いつしか道は山林に入り、知らぬ間に自分は両手で地を掴んで走っていた。気が付くと、手先や肘のあたりに毛を生じているらしい。
 少し明るくなってから、川に姿を映してみると、すでに虎となっていた。自分は直ぐに死を想った。しかし、その時、目の前を一匹の兎が駆け抜けるのを見た途端に、自分の中の〝人間〟は姿を消した。再び自分の中の〝人間〟が目を覚ました時、自分の口は兎の血にまみれていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行を続けてきたか、それは到底この口からは語れない。
 ただ、一日の中で数時間は、人間の心が還《かえ》ってくる。しかし、その人間に還る時間も、日を追うごとに短くなっていく。もう少したてば、俺の中の人間の心は、獣の習慣の中に埋れて消えてしまうだろう。そうすれば、最後には自分の過去も忘れ果て、今日のように道で君と出会っても友と認めることなく、君を引き裂き喰ってなんの悔も感じないだろう。
 俺の中の人間が全て消えてしまえば、おそらく、そのほうが、俺は〝幸せ〟だろう。なのに、俺の中の人間は、その事を、この上なく恐ろしく感じているのだ。この気持ちは誰にも分からない。俺と同じ運命になった者でなければ。
 ところで、そうだ。俺が完全に人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
 自分は元々詩人として名を上げるつもりでいた。かつて作った詩の数は百を超える、もちろん、世に出てはいない。その中に、今もなお語れるものが数十ある。これを記録していただきたいのだ。自分が生涯それに執着したものを、一部なりとも後代に伝えずには、死んでも死に切れない。
 袁傪は部下に命じ書き取らせた。李徴の声は朗らかに響いた。どれも格調高く、卓逸した、作者の非凡の才を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。作者の素質が一流に属するものであることは疑いない。しかし、一流の作品となるのには、どこか非常に微妙な点において欠けるところがあるのではないか、と。
 詩を吐き終わった李徴の声は、突然調子を変え、自嘲するかのように言った。
 恥ずかしいことだが、こんな〝無様な〟身と成り果てた今でも、俺の詩が長安《ちょうあん》の知識人の机上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。嗤《わら》ってくれ。この哀れな男を。そうだ。お笑い草ついでに、今の想いを詩にしてみようか。この虎の中に、まだ、かつての李徴が生きている〝しるし〟に。

  偶因狂疾成殊類 図らずして心病み、人ならざる物となる
  災患相仍不可逃 災い重なり逃れることも叶わぬ
  今日爪牙誰敢敵 今やこの爪牙に誰が敵対しようか
  当時声跡共相高 かつて我らは共に名を馳せた
  我為異物蓬茅下 だが、我は異形と成り果て草の下にいる
  君已乗軺気勢豪 貴君は馬車に乗る地位となり勢い溢れる
  此夕渓山対明月 この夕暮れの谷や山を照らす月に向かい
  不成長嘯但成嘷 我は詩を吟ずることもなく、ただ吠える

 木々の間を渡る冷風はすでに夜明けが近いことを告げていた。人々は厳かに、詩人の薄幸を嘆いた。李徴の声は続ける。
 何故こんな運命になったか分からないと言ったが、思い当たることが全くないでもない。人間であったとき、人々は俺を高慢だ、尊大だと言った。実は、それが羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、自分に自尊心が無かったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。俺は詩によって名を馳せようと思いながら、師を仰いだり、詩友と交流を求め、切磋琢磨することをしなかった。かといって、低俗な人間に落ちぶれることも良しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいだ。
 俺は次第に世と離れ、苦悶と憤慨によってますます己の内なる臆病な自尊心を飼い〝太らせる〟結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが心だという。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を失い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の姿をこうして、内心に相応しいものに変えてしまったのだ。
 俺には最早人間としての生活はできない。たとえ、今、俺が頭の中で、どんな優れた詩を作ったところで、どういう手段で発表できよう。まして、俺の頭は日ごと虎に近づいていく。どうすればいいのだ。俺は堪まらなくなる。そういう時、俺は、向こうの山頂の岩に上り、谷に向かって吼《ほ》える。この胸を焼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。しかし、獣どもはただ恐れ、ひれ伏すばかり。山も樹木も月も露も、虎が怒り狂っているとしか考えない。誰一人俺の気持ちを分かってくれるものはない。ちょうど、人間だった頃、俺の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。
 ようやく辺りの暗さが薄らいできた。どこからか、夜明けを告げる笛の音が哀しげに響き始めた。
 最早、別れを告げなければならない。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。君が南から帰ったら、俺はすで死んだと告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願いだが、彼女たちが路頭に迷わないように計らっていただけるならば、自分にとって、これ以上恩に着ることはない。
 言い終わって、草むらから慟哭《どうこく》が聞えた。袁傪もまた涙を浮かべ、李徴の意に沿いたいと答えた。李徴の声はしかし、たちまち先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
 本当は、まず、このことを先にお願いするべきだったのだ、俺が人間だったのなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。
 そうして、付け加えて言うことに、帰りには決してこの道を通らないで欲しい、その時には自分が狂っていて友を認めずに襲いかかるかもしれないから。また、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。我が醜悪な姿を示して、再びここを過ぎて自分に会おうという気持ちを君に起させないために。
 袁傪は別れの言葉を述べ、馬に上った。草むらからは、堪えざるがごとき泣き声が漏れ聞こえた。袁傪も涙の中出発した。
 一行が丘の上についた時、彼らは、言われたとおりに振り返って、先程の林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、二声三声、咆哮《ほうこう》したかと思うと、また、草むらに入って、再びその姿を見ることはなかった。

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自遊時閑 2023/11/16 17:16

[芥川龍之介] 蜘蛛の糸 ファストノベル

 ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池《はすいけ》のふちを、独りでお歩きになっていらっしゃいました。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがてお釈迦様は、ふと下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当たっていますから、水晶のような水を透き通して、はっきりと見えるのでございます。
 すると地獄の底に、カンダタと言う男の姿が、お目に止まりました。この男は、色々な悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善いことをした覚えがございます。ある時この男が深い林の中を通りますと、蜘蛛が一匹、道を這って行くのが見えました。そこでカンダタは足を上げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。いくらなんでも可哀そうだ」と、その蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 お釈迦様は、このカンダタは蜘蛛を助けたことがある、とお思い出しになりました。そしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、極楽の蜘蛛が一匹、美しい糸をかけております。お釈迦様はその糸をそっとお手にお取りになって、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下しなさいました。


  二

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮き沈みをしていた、カンダタでございます。ここへ落ちてくるほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れ果て、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。流石のカンダタも、血の池にむせびながら、ただもがいてばかりおりました。
 ところが、何気なく空を眺めますと、遠い天上から、蜘蛛の糸がするすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸を登っていけば、きっと地獄から抜け出せるに違いございません。
 こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手で掴みながら、一生懸命に上へ上へとたぐり登り始めました
 すると、一生懸命に登っていった甲斐あって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう闇の底にいつの間にか隠れております。カンダタは、ここへ来てから何年も出したことのない声で、「しめた。しめた」と笑いました。
 ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、上へ上へよじ登ってくるではございませんか。この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに耐えることができましょう。もし万一途中で切れたといたしましたら、折角ここへまで登ってきた自分までも、元の地獄へ落ちてしまわなければなりません。が、そういううちにも、罪人たちは何千となく、うようよと這い上がって、蜘蛛の糸をせっせと登って参ります。
 カンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ」と喚きました。
 その途端でございます。今までなんともなかった糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れました。あっという間もなく風を切って、見る見る中に闇の底へ、真っ逆さまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中程に、短く垂れているばかりでございます。


  三

 お釈迦様は一部始終を見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、相応の罰を受けて、地獄へ落ちてしまったのが、浅ましく思し召されたのでございましょう。
 しかし蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着いたしません。その白い花は、ゆらゆら花弁を動かして、真ん中にある金色のおしべからは、なんとも言えない良い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れております。極楽ももう昼に近くなったのでございましょう。

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自遊時閑 2023/11/13 18:42

[宮沢賢治] 注文の多い料理店 ファストノベル

 二人の若い紳士が、イギリス兵隊の姿をして、ぴかぴかの鉄砲を担いで、白熊のような犬を二匹つれて、こんなことを言いながら、歩いておりました。
「まったく、ここらの山はダメだね。鳥も獣も、一匹もいやしない。なんでも構わないから、撃ってみたいもんだなぁ」
「鹿の黄色い横っ腹なんかに、二三発お見舞いしたら、くるくる回って、それからドタッと倒れるだろうねぇ」
 それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の猟師も、ちょっと迷って、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
 それに、あんまりも山が物凄いので、その白熊のような犬が、二匹いっしょにめまいを起こして、それから泡を吐いて死んでしまいました。
 はじめの紳士は、少し顔色を悪くして、もう一人を見ながら言いました。
「僕はもう戻ろうと思う」
「ああ、僕もちょうど寒くなってきたし、腹は空いてきたし戻ろうと思う」
「それじゃ、これで切り上げよう。昨日の宿屋で、山鳥を十円分も買って帰ればいい」
「ウサギもでていたねぇ。そうすれば結局おんなじことだ」
 ところがどうも困ったことに、どっちへ行けば戻れるのか、一向に見当がつかなくなっていました。
「ああ困ったなぁ、なにか食べたいなぁ」
「食べたいもんだなぁ」
 その時、ふと後ろを見ますと、立派な一軒の西洋造りの家がありました。
 そして玄関には

   西洋料理店
   山猫軒

という札がでていました。
「ちょうどいい。入ろうじゃないか」
「おや、こんなとこにおかしいね。しかしとにかく、なにか食事ができるんだろう」
「もちろんできるさ」
「じゃ、入ろうじゃないか。僕はもうなにか食べたくて倒れそうなんだ」
 二人は玄関に立ちました。ガラスの開き戸が立って、そこに金文字でこう書いてありました。
   「当軒は注文の多い料理店ですから
    どうかそこはご承知ください」
「なかなか流行ってるんだ。こんな山の中で」
「そりゃそうだ。考えてみろ、東京の大きな料理屋だって大通りには少ないだろう」
 そう言いながら、二人は先に進みました。
 すると、また扉が一つありました。そしてその横に鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
 扉には赤い字で、
   「お客さま方、ここで髪をきちんとして、それから履物の泥を落としてください」
と書いてありました。
「これはもっともだ」
「作法の厳しい店だ。きっとよほど偉い人たちが、たびたび来るんだ」
 そこで二人は、綺麗に髪をとかして、靴の泥を落としました。
 二人は扉をガタンと開けて、次の部屋へ入って行きました。
 扉の内側に、また変なことが書いてありました。
   「鉄砲と弾丸をここへ置いてください」
 見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持って物を食うという作法はない」
「いや、よほど偉い人がいつも来ているんだ」
 二人は鉄砲を外して、それを台の上に置きました。
 また黒い扉がありました。
   「どうか帽子とコートと靴をお取りください」
「どうだ、取るか」
「仕方ない、取ろう」
 二人は帽子とコートを釘にかけ、靴を脱いでぺたぺた歩いて扉の中に入りました。
 少し行きますとまた扉があって、その前にガラスの壺が一つありました。扉にはこう書いてありました。
   「壺の中のクリームを顔や手足にしっかり塗ってください」
 見ると確かに壺の中は牛乳のクリームでした。
「クリームを塗れというのはどういうことなんだ」
「これはね、外が非常に寒いだろう。部屋の中があんまり暖いとひび割れるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほど偉い人が来ている。こんなとこで、案外僕らは、貴族とお近づきになるかも知れないよ」
 二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下を脱いで足に塗りました。
 するとすぐその前に次の扉がありました。
 二人は扉をあけて中に入りました。
 扉の裏側には、大きな字でこう書いてありました。
   「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。
    もうこれだけです。どうか体中に、壺の中の塩をたくさん
    よくもみ込んでください。」
 立派な塩壺が置いてありましたが、今度という今度は二人ともぎょっとしてお互いにクリームをたくさん塗った顔を見合わせました。
「どうもおかしいぜ」
「僕もおかしいと思う」
「たくさんの注文というのは、向こうがこっちへ注文してるんだよ」
「だからさ、西洋料理店というのは、西洋料理を、来た人に食べさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる店とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、僕らが……」ガタガタガタガタ、震えだしてもうものが言えませんでした。
「その、ぼ、僕らが、……うわぁ」
「逃げ……」
 奥の方にはまだ一枚扉があって、大きな鍵穴が二つ付き、銀色のフォークとナイフの形が切りだしてあって、
   「いや、わざわざご苦労です。
    大変よくできました。
    さぁさぁおなかにお入りください」
と書いてありました。おまけに鍵穴からはきょろきょろ二つの青い目玉がこっちをのぞいています。
「「うわぁ」」ガタガタガタガタ。
 二人は泣き出しました。
 すると戸の中では、コソコソこんなことを言っています。
「ダメだよ。もう気がついたよ」
「当たり前さ。親分の書き方がまずいんだ」
「どっちでもいいよ。どうせボクらには、骨も分けてくれやしないんだ」
「それはそうだ。けれども、あいつらが入ってこなかったら、それはボクらの責任だぜ」
「呼ぼうか。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。後はあなた方と、菜っ葉をうまく取り合わせて、まっ白なお皿にのせるだけです」
「へい、いらっしゃい。それともサラダはお嫌いですか。とにかく早くいらっしゃい」
 二人はあまりにも心を痛めたため、顔がまるでくしゃくしゃの紙くずのようになり、声もなく泣きました。
「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか」
「早くいらっしゃい。親方がもうナイフを持って、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます」
 二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。
 その時後ろからいきなり、
「わん、わん、ぐゎあ」という声がして、あの犬が二匹、扉をつきやぶって中に飛び込んできました。
 鍵穴の目玉はたちまちなくなり、犬どもはううと唸ってしばらく室の中をくるくる回っていましたが、また一声「わん!」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。
 戸はがたりと開き、犬たちは吸い込まれるように飛んで行きました。
 その扉の向こうの真っ暗闇の中で、
「にゃあお、くゎあ、ごろごろ」という声がして、部屋は煙のように消え、二人は寒さにぶるぶる震えて、草の中に立っていました
 見ると、上着や靴は、あっちの枝にぶらさがったり、こっちの根元にちらばったりしています。
 犬がふうと唸って戻ってきました。
 そして後ろからは、
「おーい、旦那ぁ、旦那ぁ」と叫ぶものがあります。
 二人はたちまち元気付いて
「おーい、おーい、ここだぞ、早く来い」と叫びました。
 専門の猟師が、草を分けてやってきました。
 そこで二人はやっと安心しました。
 そして猟師のもってきた団子を食べ、途中で十円分の山鳥を買って東京に帰りました。
 しかし、さっきいっぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、帰っても、お湯に入っても、もう元通りにはなりませんでした。

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自遊時閑 2023/11/11 20:47

[芥川龍之介] 羅生門 ファストノベル

 ある日の夕暮れ時の事である。一人の下人《げにん》が、羅生門の下で雨がやむのを待っていた。
 広い門の下には、この下働きの男の他に誰もいない。羅生門が、都の朱雀大路にある以上、この男の他にも、もう二三人はいそうなものである。ところが、この男の他には誰もいない。
 何故かというと、この二三年、京都には災いが続いて起こっていた。そこで都の寂れ方は尋常ではない。
 都がその始末であるから、羅生門の修理などは誰もが見捨てていた。挙げ句の果てには、引き取り手のない死人を、この門へ捨てていくという習慣さえできた。そこで、日が落ちると誰もが気味悪がって、この門の近くへは足を踏み入れないようになってしまったのである。
 下人は石段の一番上に尻を下ろし、右頬にできたニキビを気にしながら、ぼんやり雨が降るのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨がやむのを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、どうしようという当てはない。普段なら、主人の家へ帰るべきはずである。ところが、その主人からは、四五日前にクビを切られた。だから「下人が雨がやむのを待っていた」というよりも「雨に祟られた下人が、行き場がなく途方にくれていた」というほうが、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この下人をセンチメンタルにした。
 雨はいまだに上がる気配がない。そこで下人は、何をおいても今は明日の暮しをどうにかしようと――言わばどうにもならない事を、どうにかしようと、考えを巡らせていたのである。
 雨は羅生門を包んで、ざあっという音を集めてくる。夕闇は次第に空を低くして、門の屋根が、重たく薄暗い雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば飢え死にをするばかりである。
 選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を徘徊した挙げ句、やっと一つの結論に行き着いた。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、「すれば」のままであった。これを片付けるためには、当然、その後にくる「盗人になるより他に仕方がない」という事を肯定する他ない。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、それを積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。
 下人は、門の周りを見まわした。雨風の心配のない、それと人目につくおそれのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこで夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上へ上がるハシゴが目についた。そこで、腰にさげた太刀が抜けないように気をつけながら、そのハシゴの一番下の段へ足をかけた。


 それから、何分か後の事である。ハシゴの中程に、一人の男が、息を殺しながら、上の様子をうかがっていた。
 下人は始め、上にいるのは死人ばかりだろうと軽く考えていた。それが、上では誰かが火を灯しているらしい。
 下人はハシゴを一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして首を前へ出して、恐る恐る、中を覗いてみた。
 見ると、いくつかの死体が、無造作に捨ててある。ただ、おぼろげながらわかるのは、その中に裸の死体と、着物を着た死体とがあるという事である。
 下人は、それらの死体の腐敗した臭気に思わず、鼻を覆った。しかし、次の瞬間には、もう鼻を覆うことを忘れていた。ある強い感情が、この男の嗅覚をほとんど奪ってしまったからだ。
 その時、死体の中にうずくまっている人間を見た。着物を着た、背の低い、痩せた、猿のような老婆である。老婆は、右手に火を灯した木片を持って、その死体の一つの顔を覗きこむように眺めていた。多分女の死体であろう。
 下人は、恐怖と好奇心に動かされ、暫くの間は呼吸《いき》さえ忘れていた。すると老婆は、今まで眺めていた死体の首に両手をかけると、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。
 その髪の毛が、一本ずつ抜けるごとに、下人の心からは恐怖が少しずつ消えていった。それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ働いてきた。
 下人には、もちろん、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。なので、それを善悪のどちらに当てはめてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許されざる悪であった。
 そこで、両足に力を入れて、いきなり、ハシゴから上へ飛び上がった。そうして太刀に手をかけながら、老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは言うまでもない。
「おのれ、どこへ行く」
 下人は、老婆が屍につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。二人は屍の中でつかみ合った。しかし勝敗は、初めからわかっている。下人はとうとう、老婆をそこへねじ倒した。
 「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞ」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀をその目の前へつきつけた。老婆は両手をわなわな震わせて、目を見開いて黙っている。これを見ると、下人は始めて、老婆の生死が自分の意志に支配されていると意識した。そうしてこの意識は、今まで燃えていた憎悪の心を冷ましてしまった。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう言った。
「俺はたった今この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようということはない。ただ、今何をしていたのか、それを俺に話しさえすればいいのだ」
 すると、老婆は、見開いていた目を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。それから、唇を何か物でも噛んでいるように動かした。
「この髪を抜いてな、かつらにしようと思ったのじゃ」
 下人は、老婆の答えが平凡なのに失望した。そうして同時に、また前の憎悪が、心の中へ入ってきた。すると、老婆はヒキガエルが呟くような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。
「死人の髪の毛を抜くということは、なんとも悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、それくらいのことをされてもいい人間ばかりだぞよ。今、わしが髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりに切って干したのを、干し魚だと言って、太刀帯《たてわき》の詰め所へ売りに行ったんだわ。わしは、この女のしたことが悪いとは思っていぬ。せねば、飢え死にするのじゃて、仕方がなくしたことであろ。ゆえに、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これにしても、やはりせねば飢え死にするのじゃて。その仕方がないことを、よく知っていたこの女は、きっと、わしのすることも大目に見てくれるであろう」
 下人は、太刀を鞘におさめて、冷ややかに、この話を聞いていた。もちろん、右手では、ニキビを気にしながら、聞いているのである。
 しかし、これを聞いている最中、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、この男には欠けていた勇気である。下人は、飢え死にするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の気持ちから言えば、飢え死になどという事は、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか」
 下人は嘲るような声で念を押した。そうして、不意に右手をニキビから離して、老婆の襟をつかみながら、噛みつくようにこう言った。
「では、俺が追い剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にする体なのだ」
 下人は、素早く、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍の上へ蹴り倒した。下人は、剥ぎとった着物を脇に抱えて、瞬く間に急なハシゴを夜の底へ駆け下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はうめくような声を立てながら、ハシゴの口まで、這っていった。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、洞穴のように黒い夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。

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