ナントカ堂 2020/11/15 23:19

宋太宗家臣団②

 今回は『宋史』巻二百七十六から王継昇と、その子の王昭遠を見ていきましょう。

王継昇

 王継昇は冀州の阜城の人である。素直で慎み深い性格で、晋王であったころの太宗に仕えて信任を得た。太祖が即位すると供奉官に任じられ、累進して軍器庫副使となった。陳洪進が来て漳と泉の地を献上すると、太祖は王継昇を泉州兵馬都監とした。
 このころ遊洋洞の民一万人あまりが叛乱を起こして泉州を攻めた。王継昇は密かに騎兵の精鋭二百騎を率いて夜襲を掛け、これを撃ち破り、その首魁を捕らえて檻に入れ朝廷に送った。残りの一味も全て平らげると、都に呼び戻されて軍器庫使に昇進し、順州刺史を領し、知諸道陸路発運事となった。

 雍熙四年(987)、諸道の水陸の運搬を一つの官庁に統合することとなり、王継昇と刑部員外郎の董儼が共同でこれを統括し、この地位を「称職」と呼んだ。
 まもなく右神武軍将軍となり、端拱の初め(988)、本州団練使に改領となった。三月、六十四歳で卒去した。太宗は大いに嘆き悲しみ、洋州観察使を追贈して、官費で葬儀を行った。
 子は昭遠である。

王昭遠

 王昭遠は立派な体格で色は黒く、王継昇はこれに「鉄山」という名をつけた。膂力があって騎射を得意とした。
 少年のころ山に入って鷹やハヤブサを獲っていると、谷間から深さ十丈以上の激しい水が流れてきた。王昭遠は大きな樹に登り、そこで一晩過ごして難を逃れた。
 凍った河を渡ったとき、氷が割れてその穴に落ち、近くにいた二人の大人が助け出したが、王昭遠は何も無かったように平然としていた。
 郷里の悪童と遊ぶことを好み、ある日、みなが里の神を祀っている所に王昭遠がちょうど通りかかった。ある者が王昭遠にさいころを渡して「汝がいつか節鉞を授けられるほどの将になるかどうか、試しにさいころを振って占ってみるといい。」と言った。王昭遠が一振りすると、六個とも赤い面になった。

 都で遊学して、晋王だった太宗に仕え、特に目をかけられ、常に小字で呼ばれた。
 太宗が即位すると殿前指揮使に任命され、まもなく都知となった。北漢の太原への遠征に従軍した際、先頭に立って戦い、流れ矢が当たって、よろいをつなぐ紐が血に染まったが、益々激しく戦った。ここで劉継元が降伏したので、太宗は王昭遠に城門を守り降伏した兵から武器を回収するよう命じた。さらに范陽遠征に従軍して多くの戦果を挙げたので、大抜擢されて散員指揮使となった。

 趙光美が房陵に流されると、禁衛諸校の楊均や王栄らは趙光美に加担したとして処罰を受けたが、王昭遠だけは関与していなかったので、太宗は王昭遠の忠誠心を認めた。
 二度昇進して東西班都虞候となり、さらに転じて殿前班都指揮使となって、寰州刺史を領した。馬歩軍都軍頭に改められると、命を奉じて鎮・定・高陽関に向かい、兵を募集して契丹に備えるよう命じられた。更に冀州駐泊都監となり、まもなく沢州団練使・洺州都部署の地位を与えられた。太宗は、王昭遠が有能で急ぎの用件でも対応できることをしばしば称賛した。

 端拱の初め(988)、都に呼び戻されて殿前都虞候となり、勤州防禦使を領した。
 太宗が担当官に綾錦院を公営のものとするよう命じた。そこで建物を建てようと地面を掘ったところ山のような形の鉄が現れた。ある者が「ここには昔、鉄山(地名)の営所があった。」と言った。これが王昭遠の幼名と合っていたので、これを聞いた者は不思議に思った。
 太宗は絹張りのうちわに草書で古い詩を書いて諸将に賜っていた。その詩の内容は多くが婉曲的に諭す内容であったが、王昭遠に賜ったものは大いに褒め称える内容であった。
 二年に沙州観察使を領し、再び并と代の副都部署となった。
 至道年間(995~997)、李継遷が西の辺境を乱し、霊武の糧道を断ったので、太宗は王昭遠を霊州路都部署とし、二十五州の飼料と食糧を守らせた。王昭遠が霊武に到着すると、李継遷は敢えて攻め込もうとはしなくなった。

 真宗が即位すると定州行営都部署に異動となり、まもなく保静軍節度使を拝命して、天雄軍都部署・知府事となった。
 咸平二年(999)、河陽知府に異動となり、数ヵ月後に卒去した。享年五十六。
 このとき真宗は大名にいたが、朝政を停止してその死を悼んだ。太尉を追贈し、恵和と諡して、宮中から使者が遣わされて葬儀を警護した。

 王昭遠は多くの書を読んだが、吝嗇な性格で、赴任した地で善政を行うことは無かった。同母弟の王昭懿もまた晋王のころから太宗に仕え、捧日都虞候となった。弟の王昭遜は西京作坊使となった。
 以前に祖母の郭氏が王昭遠を指差しながら王昭遠の母に向かって「この子は貴相がある。後日、必ずや公侯にまでなるであろう。」と言い、王昭懿を指差して「この子は俸禄二万貫以上の官職には就けないであろう。」と言った。果たしてその言葉のとおりとなった。

 王昭遠の子の王懐普は九歳で太宗の側近として仕え、西京左蔵庫使・平州刺史となった。王懐一は供備庫副使、王懐正は内殿承制、王懐英は内殿崇班となった。



 弟の王昭遜は列伝ではほとんど事績が記されていませんが、『宋史』巻百七十六の「食貨志上四」に駐泊都監として屯田を開発していることが記されており、民政にさほど力を注がなかった兄とは対照的に、専ら文官として仕えていた人物です。

 巻二百七十六の太宗の家臣六人のうち、張平は「ドックの発明者」の項で挙げたので本人の伝は記しませんが、附伝として記されている子の事績を見てみましょう。



 張従式は晋王時代から太宗に仕え、累進して文思使となった。

 次子の張従吉は蔭位により殿直となった。供奉官に転じ、宜州知州となって、何度も溪蛮を破った。転運使の堯叟がその功を報告したため、累進して内殿崇班・閤門祗候となった。知州在任八年で、交替して都に戻り、如京副使となった。
 咸平年間(998~1003)、環州知州となった。宋沆と共に兵を率いて西夏を攻め、やや失敗すると、部署の張凝が「独断専行である」と報告したため、内殿崇班に降格となったが、まもなく澧州知州となって、元の位階に戻された。
 景徳四年(1007)、宜州の軍校の陳進が叛くと、曹利用の副将として広南東路と西路の安撫使となり、兵を率いて討伐に向かった。象州の大鳥砦に着くと、叛乱軍と戦闘となり、陳進は先鋒の郭志言に刺された。張従式は入城し、六十の首級を挙げた。叛乱平定の功により、荘宅副使に改められたが、凱旋の途中で卒去した。享年四十九。

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