ナントカ堂 2024/05/21 23:26

梁子美

 梅原郁氏の「宋代の恩蔭制度」の「おわりに」には
 「宋代の宰相には、なるほど、呂蒙正、李迪、王曾らの状元出身者をはじめとして科挙の上位出身者が少なくない。しかし目を転ずれば、賈昌朝、陳執中、梁適など、恩蔭出身者も混じっており、執政クラスにもそれが稀ではない。」
 とあります。
 賈昌朝と陳執中の子は恩蔭かどうかは分かりませんが、梁適の孫の梁子美は恩蔭により出仕して、これも執政クラスに昇進しています。(『万姓統譜』には徽宗が梁子美に対して「卿は四代続けて京尹となった。士大夫の間でも光栄なことだ」と言ったと記されています)
 ここでは『東都事略』巻六十六よりその伝を見ていきましょう。


 梁子美、字は才甫、蔭位に拠り出仕し、紹聖の初めに梓州路常平となった。湖南路に異動となって提点刑獄に昇進し、徽宗が即位すると河北転運使となった。
 梁子美は水上輸送で得た利益を上納し、遂には三百万緡で北珠を買って進上した。北珠とは敵地(契丹)から来るもので、敵は初め輸出禁止にしようとしていたが、群臣が協議してこのように言った。
「中国は府庫を傾けて無用の物を買う。これは我らの利となり中国は困窮するであろう。」
 崇寧年間に各地の漕臣が羨余を進上するのは、梁子美より始まる。
 枢密直学士から戸部尚書兼開封尹となった。
 梁子美は府の政務を執るに当たり、大小と無く全て自ら決裁したため、胥吏が賄賂を受けることができなかった。このため共謀して文書を路上で受け渡していたが、発覚すると路上に棄てて逃げた。梁子美はこの書状を焼くよう命じた。徽宗が焼いた理由を問うと、梁子美は「事が大事であれば改めて訴えざるを得ません。小事であれば放置しても良いでしょう。」と答え、徽宗は納得した。
 尚書右丞を拝命し、左丞となり中書侍郎に昇進して資政殿学士・定州知州となった。大名府知府に異動し大学士に昇進した。ある罪で単州に流されたが青州知州として復帰し、観文殿学士に昇進して寧遠軍節度使を拝命した。病のため引退を願い出て、開府儀同三司・提挙崇福宫を拝命し、まもなく致仕した。七十八歳で卒去して少師を追贈された。
 梁子美は地方官の時代に、贅沢で残虐であったが、実務能力があったため、赴任する先々で実績を挙げたという。


 『東都事略』と『宋史』の両方に伝があると、大体同じ内容だと思われがちですが、視点が結構異なってきます。次に『宋史』巻二百八十五の伝を見てみましょう。


 梁子美は紹聖年間に提挙湖南常平となった。このころ新たに「復役法」が施行され、梁子美は真っ先に諸路の賦役を纏めて記し、提点刑獄に昇進した。
 建中靖国の初めに尚書郎中となったが、中書舎人の鄒浩の反対に拠り、京西転運副使に改められた。諫議大夫の陳次升は更にこう言った。
 「梁子美は章惇の姻戚に当たり、たびたび湖南に赴任したのは、章惇の意向に拠るものです。鄒浩の反対に拠り左遷しましたが、後々鄒浩が迫害される恐れがあり、梁子美を都の近くに赴任させるべきではありません。」
 そして成都路に異動となった。
 その後、累進して直龍図閣・河北都転運使になると、転運で得た利益を上納し、緡銭三百万で北珠を買って進上するに至った。崇寧年間に諸路の転運使が羨余を進上するのは、梁子美より始まった。
 北珠は女真の地より産出し、梁子美は契丹から買っていた。契丹は利益を求めて、女真を虐げ海東青を捕え北珠を求めた。遼宋両国の災いはここに端を発する。梁子美はこれを用いて高位高官に至った。
 宣和四年に病のため、開府儀同三司・提挙嵩山崇福宮として致仕し、卒去して少保を追贈された。
 梁子美は地方官の時代に、贅沢で残虐であったが、実務能力があったため、赴任する先々で実績を挙げたという。

 最後の一行だけは一字一句合っているので、『宋史』編纂者が『東都事略』を見ながら記事を取捨したのでしょう。

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