ナントカ堂 2020/06/02 01:45

仇士良

ウィキペディアに仇士良の項目が無いから書こうと思ったのですが
アカウントだのIDだのいろいろ小難しい事が書いてあって
私、基本ローテク人間なので訳わからなくて不安なのでこちらに書きます。
というか、ウィキなら略歴だけ書いて、(出典:『全唐文』巻七百九十)とでも書こうと思ったのですが面倒なので「両唐書宦官伝」からの転写です。


「内侍省監楚国公仇士良神道碑」(『全唐文』巻七百九十)
(要訳)

 公の諱は士良、字は匡美、海豊の興寧の人である。宋の大夫の仇牧は忠義者として『春秋』に記されているが、公はまさにその子孫である。その子孫の仇香は文雅を以って後漢に仕え、仇儒は議論を以って北燕で評判となるなど、歴代著名人を輩出した。曽祖父は正議大夫・内給事で緋魚袋を賜った上客、祖父は朝議大夫・内常侍で紫金魚袋を賜った奉詮である。父の文晟は公の功績により特進・左監門衛将軍を追贈されて紫金魚袋を賜り、まさに親孝行といえよう。
 公は弱冠になる前に皇太子の宮に出仕した。当時皇太子であった憲宗の朝夕の食事係となって九年間共に楽しく過ごし、永貞十年(?)に掖庭局宮教博士となって緋魚袋を賜った。元和の初め(806)、憲宗は古くからの臣に報いようと考え、公は宣徽供奉官を加えられ紫金魚袋を賜った。閏六月には宣徽供奉官はそのままで朝散大夫・内侍省内給事に転じ、十月には内常侍となって、三年(808)に内外五坊使となった。
 十年(815)に大中大夫・内侍省内常侍を加えられ、まもなく平盧軍監軍使となった。平盧は古くから優遇されていたため兵力が強大で税を納めなかった。その反抗的なることを聞いた公が忠節を説いたため、平盧軍は従順になった。翌年に都に呼び戻されて内侍となり以前の通り宣徽供奉官となった。
 呉元済が淮に拠って叛くと官軍が遣わされたが、途中でぐずぐずして進まず、このままでは敗退する恐れが出てきた。このため使臣を遣わして説得する必要が出て、公が本官のまま淮西行宣慰使となった。到着すると帝の恩沢を説いて士気を上げ、さらに作戦を立てて戦果を挙げた。
 十五年(820)、雲麾将軍・右監門衛将軍に昇進して内外五坊使となり、上柱国の称号を賜り、南安県開国男に進封されて、食邑三百戸となった。その年の冬に冠軍大将軍を加えられ、長慶の初め(821)に五坊使は辞任して、南安県開国子に進封され、まもなく侯爵に昇格となり食邑一千戸となって、宣徽供奉官以下は元のままとされた。
 二年(822)に鳳翔監軍使となり、開国公に進封され食邑は千五百戸となった。鳳翔は統治し難い気風であったが、公は赴任すると、車から降りて直接兵たちを慰撫したため、兵たちは畏怖し民衆は懐いた。
 宝暦二年(826)に都に戻されて宣徽供奉となり、郡公に進封されて食邑二千戸となり、まもなく鄂岳監軍使となった。鄂岳は荊楚に通じ湖湘に接する要地で、安定して富も蓄積されていたが、兵は弱く民も怠惰になっていた。公は平盧での経験を踏まえて職務に励み、兵を強化した。
 太和元年(827)に都に戻って宣徽供奉官となり、内坊典内侍省に転じ、まもなく右神策軍副使を拝命した。公は着任すると兵たちを引き締めて規律を教え込んだ。二年に右領軍衛将軍・内外五坊使になり職務を遂行するうちに、隴では農業が困難であると知り、百隊を選んで開発に当たった。六年(832)に内侍知省事となって元の職はそのまま、翌年には大盈庫に転じて染坊を領し、知省事はそのままであった。その後、飛龍使となり、九年(835)五月には左神策軍中尉兼左街功徳使を拝命した。帝の爪牙となるよう良く兵を訓練して、寛大ではあるが威を失わず、簡略にしながら手は抜かず、熊をも恐れさせる勇を持ちつつ手には六韜を持ち、温情を以って接したので兵たちは敬服した。その後、左驍衛将軍に転じた。
 鄭注が陰謀を廻らし、李訓がこれに加担して、偽りの奏上を相次いで成し、さらには帝の身柄を手中に収めて謀叛を起こそうとするまでに至った。公は機先を制し禁中の兵を率いて謀叛の計画を挫くと、帝を保護した。そして首謀者を特定しその者だけを捕縛した。その他の扇動された者のうち、改心しようとしなかったり童子のように頑なに行いを改めようとしない者たちはそのまま処罰された。天網恢恢というもので国の法により処罰された。これより国家は平穏となり内外協調するようになった。(甘露の変)
 これは忠義心に天が味方したものであろう。朝廷でこのときの功が審議されて、公はその第一とされ、特別に詔が下り、中尉・知省事はそのままで特進・本衛上将軍を加えられた。
 まもなく驃騎大将軍に昇進し。開成五年(840)に開府儀同三司・左衛上将軍を加えられて、楚国公に封ぜられ、食邑は三千戸、実封は三百戸となった。会昌元年(841)にはさらに実封二百戸が加えられて観軍容使に昇進し、左右三軍の指揮を兼任した。
 公はいつも幸福の中に災いが潜んでいるのではないかと心配し、過大な昇進に引退を考えていた。三年(843)夏に病となって治らなかったため、以前から考えていたように実務の無い職に移ることを願って内侍監となったが、将軍・知省事はもとのままであった。その後、たびたび辞職を願い出たため、本官を以って致仕となり、その年の六月二十三日、広化里の私邸で薨去した。享年六十三。
 帝はこれを悼んで二日間朝政を停止し、揚州大都督を追贈した。公は弱冠より七代の皇帝に仕えた。
 元和年間に王承宗が叛旗を翻したが、盧従史は密かにこれと結びついた。憲宗は護軍中尉の吐突公統に討伐を命じ、吐突公統は盧従史を陣に誘い出すと捕縛して朝廷に送った。このとき公はちょうど陣中にいてこの計略を助けた。
 四年正月二十三日に万年県寧安郷鳳棲原社季村に帰葬し、夫人の安定胡氏が祭った。夫人は故開府儀同三司・検校太子賓客兼御史大夫・贈戸部尚書の胡承恩の娘であり、名門同士の婚姻で、公の地位が高まると共に累封されて魯国夫人になったが、壬戌歳に公に先立って没した。
 子息は五人。長男は宣徽使・銀青光禄大夫・行内侍省内給事で紫金魚袋を賜った従広。次男は光禄大夫・検校散騎常侍・持節曹州諸軍事・守曹州刺史兼御史中丞・上柱国南安県開国公食邑一千五百戸の亢宗。三男は閤門使・朝散大夫・行内侍省内府局丞で緋魚袋を賜った従源、四男はフン(分におおざと)寧監軍使・中散大夫・行内侍省内侍局丞で緋魚袋を賜った従渭、五男の従ヨク(さんずいに異)はまだ幼い。


 なお、 小野勝年氏の「知玄と圓仁 : 「入唐求法巡禮行記」研究の一節」には、排仏派の武宗に対して、仏教信者の仇士良がどうにかして抑えようとしていた様子が論じられていて、結局、会昌の廃仏が決行されたのは仇士良の没後になります。

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