ナントカ堂 2014/09/30 21:06

明代の名門(13)

明代において宦官が跳梁跋扈したのは有名な話です。
ただし宦官の地位は皇帝の恩寵によるものであり、皇帝の代変わりで失脚したり、魏忠賢や曹吉祥のように増長して族滅されることもありました。
宦官が権力を握ったことで一族が爵位を受けても、その権勢の時が短いので大概が一代限りのはかない夢でした。
その例外といえるのが劉永誠の甥の劉聚の家系です。
以下これに関連した記事を載せます。

『明史』巻三百四「宦官伝」一

曹吉祥とともに兀良哈を討伐した劉永誠は、かつて永楽帝の時代に偏将として北征に従軍した。宣徳、正統年間(1426~1449)に再び兀良哈を討った。後に監軍として甘・涼に駐留し、沙漠で戦って功があった。景泰の末(1457)に団営を掌握した。英宗が復辟したとき、兵を纏めてこれに従った。官はその子の聚が継ぎ、成化年間になってから(1464~1487)永誠は卒去した。

『万暦野獲編』巻六

成化七年(1471)、太監の劉永誠の延綏遠征の功により、甥の聚を寧晋伯に封じた。のち再び功により世襲を許された。嘉靖の初年(1522)、太監・張永の兄の泰安伯・富、永の弟の安定伯・容、太監・谷大用の兄の高平伯・大寬、弟の永清伯・大亮、太監・馬永成の甥の平涼伯・山、太監・魏彬の弟の鎮安伯・英、太監・陸誾の甥の鎮平伯・永、太監・裴□の義子の永寿伯・朱徳など宦官の子弟で恩沢により拝命したものをすべて爵位没収とし、ただ劉聚のみが存続を許された。成化帝より今まで百四十年、爵位を伝えて十代、代々絶えずに兵権を握り、枢府を掌ってきた。どのような功績があって十代も続いていられたのであろうか?今、都の多くの有力者の家の壁には、劉永誠の西征のことが描かれた絵が飾られている。劉永誠が自ら志願して宮廷に入り、実績を挙げて帝にお目見えが叶い、中使に任命されて、御馬太監にまで至った。遠征に従軍して、付け髭を付けて奮闘し、凱旋して恩賞を受けた。その諸々が詳しく描かれているが、どこまでが真実なのかは分からない。劉永誠が死ぬと、帝は特にその祠に「褒功」の額を賜ってこれを労わった。英宗が土木の変で捕らえられる前、王振は生前に自らの祠に「旌忠」の額を賜ったが、同じく祠に額を賜ったとはいえ、こちらは称えるには及ばない。劉永誠は小名を馬児といったが、都の人は今に至るまで、なおもこれを賞賛している。

『明史』巻百五十五「劉聚伝」

劉聚は太監の永誠の従子である。金吾指揮同知となり、奪門の変の功により都指揮僉事となり、さらに特別に抜擢されて都督同知となった。共同して曹欽を討伐して右都督に昇進した。

成化六年(1470)、右副総兵として朱永が延綏に赴くのに従った。賊を黄草梁まで追撃し、激戦によりあごを負傷し、麾下が奮闘して賊を防いだので、どうにか命は助かった。まもなく都督の范瑾らとともに青草溝で賊と戦い撃ち破った。朱永らは賊を牛家寨まで追撃し、聚もまた南山に拠って果敢に攻めた。賊は大敗して、延綏から逃げた。論功により左都督に昇進し、永誠の働きかけもあって特に寧晋伯に封ぜられた。

八年(1472)冬、趙輔に代わって将軍となり、陜西の諸鎮の兵を束ねた。賊が花馬池に侵入すると、副総兵の孫鉞、遊撃将軍の王璽らを率いて撃退した。高家堡まで引き揚げると、賊がまた侵入したので、これを撃ち破った。そして漫天嶺まで追撃すると、伏兵が起こって挟み撃ちにしたので、これもまた撃ち破った。孫鉞と王璽もまた別に井油山で賊を撃ち破った。この戦勝報告がなされ、世券を与えられた。

その冬、孛羅忽、満都魯、イン加思蘭が共同して領内深くまで侵入し、秦州・安定・会寧の諸州県まで入って、数千里にわたり縦横無尽に行動した。賊が撤退した後、王越は紅塩池から帰還する際に、誇大な戦勝報告をして、璽書により慰労された。まもなく、兵部員外郎の張謹が軍功を調べて、聚と総兵官の范瑾ら六将が民を殺し略奪し、ありもしない軍功を報告したと弾劾し、兵部省と御史から弾劾の奏上が出された。詔により、給事中の韓文が行って調査し、戻ってきて張謹の奏上の通りだと言い、百五十の首を取る軍功が、実際にはわずか十九であったと報告した。帝は賊が既に逃亡していたことをもって、これを不問に付した。まもなく聚は卒去し、侯を追贈されて、威勇と諡された。

爵位を子の禄と福と伝え、福は弘治年間(1488~1505)に三千営を統括して、太子太保を加えられた。卒去して、子の岳が嗣ぎ、岳が卒去して、従子の文が爵位を嗣ぐことを願い出た。吏部は、聚には大功が無く、これ以上は子孫に継承させるべきではないと言ったが、嘉靖帝は吏部の意見を却下して、文に爵位を嗣ぐよう命じた。こうしてさらに爵位を伝えて明が亡ぶに及んで絶えた。

こうして見たところ、劉聚にはある程度軍功はあれど、世襲の伯爵を授けるほどの大功とは思われず、もっぱら劉永誠の功績によるものでしょう。ただ、宦官が大功を立てたというのは文人には認めがたいので詳細は書き残されず、今となっては『万暦野獲編』の記述からわずかに窺い知るだけです。

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