ナントカ堂 2014/09/20 11:34

明代の名門(4)

徐達の二家に次ぐ名門が沐英の沐氏です。
郭英の子孫で嘉靖帝に重用された郭勛が著した書に『三家世典』というものがあります。これは徐達・沐英・郭英の三家の子孫について記したものですが、実際には郭英の家はそれほどでもなく、この二家と並べて記すことで他とは隔絶した名門であると示そうとしものです。このように挙げられたことからも沐氏の地位の高さが窺えます。
『明史』巻百二十六より、沐英自身は良く知られているのでその子の代から記します。



(沐英の)子の春・晟・昂はみな雲南に鎮し、昕はフ馬都尉となって、永楽帝の娘の常寧公主を娶った。



春、字は景春、その武の資質は父の風格があった。十七歳で、英の西番遠征に従い、さらに雲南遠征、江西の賊の平定に従って、いずれも先頭に立った。軍功を重ねて後軍都督府僉事を授けられた。群臣は試用期間を設けようとしたが、帝は「この子はわが家族だ。試すようなことはするな。」と言って、実際の官職に就けられた。烈山の囚人の取調べを命じられ、さらに蔚州の謀叛人の一味の処罰を命じられて、各々数百人を釈放した。英が卒去すると爵位を嗣ぐよう命じられ、雲南に鎮した。洪武二十六年(1393)、維摩十一寨が乱を起こしたので、瞿能を遣わして討ち平らげた。翌年、越ケイ蛮を平定し、瀾滄衛を設置した。その冬、阿資がまた叛いたので何福と共に討った。このとき春はこう言った。「この賊が何年も誅殺を免れていたのは、各地の酋長が婚姻を結んでいたため、転々と匿われているからだ。今や全ての酋長を駆り出して従軍させているので、これらの者の心をつなぎとめ、多くの砦を造って人の出入りを統制すれば、必ずや阿資を捕らえることができるだろう。」そして越州に向かい、各道に分かれて阿資の城に迫った。そして精兵を道の左に伏せて、疲弊した兵で賊を誘い出し、散々に攻撃して大いに破った。阿資は山谷に逃れたが、春は密かに近隣の土官(朝廷から官職を授けられた在地領主)と結んで、阿資の所在を探った。そして砦を造ってその糧道を断った。このため賊は行き詰まった。こうしてから不意を突いて賊の巣窟を攻撃し、ついに阿資を捕らえ、その一党二百四十人とともに誅殺し、越州はついに平定された。広南の酋長の儂貞佑は味方する蛮族を糾合して官軍に抵抗したが、敗れて捕らえられ、斬られた捕虜は千人ほどであった。寧遠の酋長の刀拝爛は交阯を頼って朝命に従わなかったので、何福を遣わして討ち降伏させた。
三十年(1397)、麓川宣慰使の思倫発は配下の刀幹孟に追放されて逃げ込んできた。春は思倫発を連れてともに入朝し、帝から方略を授けられた。そして春を征虜前将軍とし、何福・徐凱を指揮官として討伐させた。先に思倫発に兵を付けて金歯に送り込んで、刀幹孟に出迎えに来るよう書状を送った。刀幹孟からの答えは無かった。そこで精鋭五千を選んで、何福と瞿能に指揮させて、高良公山を越え、そのまま南甸を攻撃させて賊を大いに破り、そこの酋長の刀名孟を斬った。そこから軍を引き返して景罕寨を攻撃した。賊は高所であることを恃みとして堅く守った。官軍は兵糧が尽きて、何福は急を報せた。春は五百騎を率いて救援に向かった。夜に怒江を渡り、夜明けには景罕寨に到着した。春は騎兵に走り回るよう命じ、巻き上がった塵は天を覆った。賊は大いに驚いて壊走し、春は勝ちに乗じてコウトウ寨を攻撃すると、こちらもまた壊滅した。前後で降伏した者は七万人いた。将士は皆殺しにしようとしたが、春は許さなかった。刀幹孟が降伏を願い出たが、帝はこれを許さず、春に命じてテン・黔・蜀の全て兵の兵で攻撃するよう命じた。まだ出陣しないうちに春は卒去した。享年三十六。恵襄と諡した。



春は陣中にあること七年、屯田制を大いに振興して、田三十万畝あまりを開墾した。鉄池河を開削し、宜良の水不足であった田数万畝を灌漑し、民で農業に復帰した者は五千戸以上に上った。このため祀が立てられて祀られた。子は無く、弟の晟が嗣いだ。



晟、字は景茂。若い頃から重々しい性格で言葉少なくして笑い、本を読むことを喜んだ。太祖はこれを愛した。後軍左都督の官職を歴任し、建文元年(1399)侯を嗣いだ。このころ鎮守の任に就いた。すでに何福が刀幹孟を破り、思倫発は帰順していた。まもなく思倫発が死んで、諸蛮は各々の領地に割拠した。これを晟が討って平定し、その地を三府二州五長官司に分け、さらに怒江の西に屯衛千戸所を設置し兵を置いた。こうして麓川は平定された。これ以前、岷王が雲南に封ぜられたが、法を無視することが多く、建文帝の命により捕らえられた。永楽帝が即位すると、岷王は藩に戻されたが、ますます好き勝手に振る舞った。晟がこれを少し正したところ、岷王は怒って晟を讒言した。帝は王からの訴えにより詔を下して晟を訓戒し、岷王にも返書を送って、晟の父の功を称賛し、あまり厳しく監督しないよう伝えた。



永楽三年(1405)、八百大甸が辺境に攻め込み、他国の朝貢の使者を遮った。晟は車里・木邦と合流してこれを平定した。翌年、大挙して兵を出し交阯を討った。晟は征夷左副将軍を拝命し、大将軍の張輔とともに道を分かれて雲南から交阯に入った。そして蒙自から野蒲を通り木を切りながら道を作って、猛烈・ヒョウ華などの諸関隘を奪取した。夜中に船を担いでトウ水に出て、富良江を渡り、張輔の軍と合流して、共同して多邦城を攻め落とした。そして東西の二都を攻め、各地の拠点を滅ぼし、偽王の黎季リを捕らえた。そのときのことは「張輔伝」に記されている。論功により黔国公に封ぜられ、毎年の禄は三千石とされて世券を与えられた。
交阯の簡定が再び叛き、晟は征夷将軍の印を帯びて討伐を命じられた。生厥江で戦って連敗し、張輔とともに出陣して共同してこれを討ち、簡定を捕らえて都に送った。張輔は帰還し、晟は留まって陳季拡を捕らえることになったが、連戦しても降すことができなかった。張輔がまた出征して晟と合流し、占城まで追い詰めて陳季拡を捕らえた。兵を引き揚げ、晟もまた帝から恩賞を与えられた。十七年、富州蛮が叛いた。晟は兵を率いてこれに臨み、攻めずに人を遣わして説得し、ついにこれを降した。
洪熙帝が即位すると太傅を加えられ、征南将軍の印を鋳造して給された。沐氏が代々鎮守したのは、この印が与えられて常例となった。宣徳元年(1426)、交阯の黎利の勢いが盛んになった。晟に詔して安遠侯の柳升とともに討伐に向かわせた。柳升は敗死し、晟は退却した。群臣は相次いで晟を弾劾した。帝はその上奏文に封をして示した。正統三年(1438)、麓川の思任発が叛いた。晟は金歯に着くと、弟の昂、都督の方政の軍と合流した。方政が先鋒となり、長江に沿って賊の砦を攻略していった。大軍は逃げる賊を追って高黎共山の麓まで来て、再び破った。翌年また族の旧砦を攻め落とした。方政は伏兵により戦死し、官軍は連敗した。晟は兵を引き揚げ、後悔と恐れのうちに病を発し、楚雄まで来たところで卒去した。定遠王を追贈され、忠敬と諡された。
晟は父や兄の事業を継いだが、兵を用いるに長ずるところ無く、戦ってはたびたび不利となった。朝廷はその地が絶境であり、かつ代々の将であったので、しばらく様子を見ていた。テン人は晟父子の威信を恐れ、朝廷に仕えるように敬った。一枚の紙が下されるにも、土酋は威儀を正して館から出て迎え、手を洗ってから開き「これは令旨なり。」と言った。晟は長期間鎮守するうち、田園三百六十区画を設置し、その資産は満ち溢れていた。上手に朝廷の貴人に仕えて、滞りなく賄賂を贈ったので、内にも外にも名声を得た。晟には子がいて、斌、字は文輝と言った。幼くして公爵を嗣ぎ、都に住んで、昂が代わりに鎮守した。



昂、字は景高、初め府軍左衛指揮僉事となった。永楽帝が晟を将として南に遠征させたとき、昂を都指揮同知に起用して、雲南都司を統括させた。累進して右都督となった。正統四年(1439)将の印を帯びて麓川を討つこととなり、金歯まで来たが、賊の勢いを恐れてに攻撃を永い間先延ばしにしていた。参将の張栄が先駆けて芒部に行き敗れても、昂は救わずに引き返した。このため禄を二級削られた。思任発が攻め込むと、これを討って退け、さらに師宗で反乱を起こした者を斬った。六年、兵部尚書の王驥、定西伯の蒋貴が大軍を率いて思任発を討伐した。昂は物資輸送を担当した。賊を破ったので、昂を復職させて、兵を率いて思任発を捕らえるよう命じたが、捕らえられなかった。十年(1445)、昂は卒去した。贈定辺伯を追贈され、武襄と諡された。



斌が鎮所に着任したとき、緬甸が思任発を捕らえて都に送った。このため思任発の子の思機発が来襲し、斌がこれを撃退した。思機発はまた孟養に拠った。十三年(1448)再び大規模に兵を出し、王驥らに討伐させ、斌は後方で防衛し、兵糧が欠乏しないように指揮した。卒去して太傅を追贈され、栄康と諡された。



子の琮は幼く、景泰の初め(1450)、昂の孫のリン(玉偏に隣のつくり)を都督同知として代わりに鎮守させた。リン、字は廷章、もとから儒学を修めて優雅な文を作った。テン人はこれを組しやすいと思ったが、果たして命令は行き渡り、粛然として違反することはなかった。リンは天順の初め(1457)に卒去した。琮はまだ幼く、リンの弟で錦衣副千戸のサン(三国志の公孫サンと同じ字)を都督同知として代わりに行かせた。雲南にいること七年、霑禄の諸寨や土官で反抗する者を討ち平らげ、思卜発を降伏させ、諸蛮が侵略した土地を奪還するなど、多くの軍功を立てたが、収賄も多かった。
成化三年(1467)春、琮が鎮所に着任すると、は副総兵となって金歯に移鎮した。琮、字は廷芳、経義に通じ、文章を得意とした。琮は支配下の蛮族から貢物を送られても受け付けなかった。尋甸の酋長が兄の子を殺して、その地の長官となることを求めた。琮はこれを捕らえて誅殺した。広西の土官が悪政を行い領民が乱を起こした。琮が奏上して土官を廃止して中央から官僚が派遣されるようになったので民の生活は大いに良くなった。その後、馬龍・麗江・剣川・順寧・羅雄の反抗する蛮族を討ち平らげ、橋甸・南窩の反逆者を捕らえた。卒去して太師を追贈され、武僖と諡された。子は無く、リンの孫の崑が嗣いだ。



崑、字は元中、初めに錦衣指揮僉事を継いだ。琮がこれをかわいがって自分の子とした。朝議は昆が西平侯の子孫であるため侯爵を嗣ぐべきだとしたが、現地で守備する者はこれに意義を唱え、「テン人は黔国公(沐琮)を知っておりますが、西平侯(沐英)は知りません。侯爵では軽んじるかもしれません。」と言った。孝宗はもっともなことだと考え、昆に公爵を嗣がせ、元通りの印を持たせた。弘治十二年(1499)、亀山・竹セイの諸蛮を平らげ、さらに普安の賊も平定したので、再び禄を増やされた。正徳二年(1507)、師宗の民の阿本が乱を起こした。昆は都御史の呉文度とともに兵を率いて三道に分かれて進んだ。一軍は師宗から、一軍は羅雄から、一軍は彌勒から出た。別に一軍が盤江で伏兵となって、賊の巣窟を分断し、ついには大いに賊を破った。七年(1512)、安南長官司の那代が跡目争いをして、土官を殺した。崑は都御史の顧源とともにこれを討伐して捕らえた。崑はさらに太子太傅を加えられた。昆は以前は文学を好んで自らを厳しく律していたが、その後は権力者や帝の側近に賄賂を贈って、願い事を全て聞き入れられていたので、しだいに驕り高ぶり、布政使・按察使・都指揮使らをあなどって通用門から出入りさせた。各方面の官僚から弾劾されて、罪を問われて地位を去った。卒去して太師を追贈され、荘襄と諡した。



子の紹勛が嗣いだ。尋甸の土司に仕える安銓が叛いたので、都御史の傅習がこれを討ったが連敗した。武定の土司に仕える鳳朝文もまた叛き、安銓と共に雲南を攻めたので、雲南は大混乱になった。嘉靖帝は尚書の伍文定に大軍を指揮させて出征させた。伍文定が到着しないうちに、紹勛は麾下の兵を率いて先に進んだ。そして土官の子弟のうち跡継ぎの者に、先に冠と官服を与えて、賊を破った後に自分が朝廷の許可を取ると告げた。兵の多くが奮闘し、賊を大いに破った。鳳朝文が普渡河を渡って逃げるのを遮り、追撃して東川で斬った。安銓は尋甸に戻り、砦数十を作った。官軍がこれを破り、芒部で安銓を捕らえた。前後して賊の一党千人あまりを捕らえ、捕虜を数え切れないほど斬った。時に嘉靖七年(1528)のことである。帝に戦勝報告がなされて、太子太傅を加えられ、毎年の禄を増やされた。このときラオス・木邦・孟養・緬甸・孟密は互いに敵視して殺し合っており、師宗・納楼・思陀・八寨はみな乱れて長らく解消できないでいた。紹勛は使者に諸蛮の間を廻らせて、武定や尋甸で起こったことをほのめかしたのでみな恐れて服従し、侵略した土地の返還を申し出た。そして木邦と孟養は揃って貢物を持ってきて謝罪したので、南中はことごとく平定された。紹勛は武勇も知略もあり、いくさをすれば必ず勝った。卒去して太師を追贈され、敏靖と諡された。



子の朝輔が嗣いだ。都御史が劉渠が暗に賄賂を求めたので、朝輔は贈ってからこのような上奏をした。「臣の家は代々この地を守っております。今、高官がよく分からないように制度を変更して、要地を守備する臣の言うことはおよそ帝の耳に届かず、直接お会いしても先例通りになされないようです。臣は遠方にいて孤立しやすく、蛮族を押さえつけて支配しているわけでもないので、行動も制限されます。帝には全て先例通りとするように諸臣に命じられるようお願いいたします。」詔によりその通りにした。給事中の万虞愷が朝輔を弾劾し、あわせて劉渠と論争になった。詔により劉渠を罷免し、朝輔には以前の通りに統治するよう命じた。に卒去した、太保を追贈され、恭僖と諡された。



融・鞏の二子がいたがともに幼く、詔により、琮・リンの故事から、融に公を嗣がせて、禄を半分とし、朝輔の弟の朝弼に都督僉事を授け、印を帯びさせて代わりに鎮守させた。それから三年して融が卒去した。鞏が嗣ぐところであったが、朝弼は心中これを殺害しようと考えた。そこで朝弼の嫡母の李氏が鞏を都で保護してもらい、成長してから雲南に戻って鎮守させるよう願い出た。許可されたが、鞏は都に着かないうちに卒去した。こうして朝弼はついに公を嗣ぐこととなった。嘉靖三十年(1551)、元江の土司に仕える那鑑が叛いた。詔により朝弼と都御史の石簡がこれを討つこととなった。軍を五つに分けて賊の城に迫った。その城壁があまりに高く、風土病も発生したため軍を引き揚げた。詔により石簡は罷免されて、再び軍が派遣された。那鑑はこれを懼れて毒薬を飲んで死に、反乱は収束した。四十四年(1565)、朝弼は叛逆した蛮族の阿方・李向陽を討伐して捕らえた。隆慶の初め(1567)、武定で叛いた酋長の鳳継祖を平らげ、賊の巣窟三十箇所あまりを攻め落とした。朝弼はもとから驕慢で、母や兄嫁に仕えるに礼儀も無く、兄の田や家を奪い、罪人の蒋旭らを匿い、軍事の連絡をする使者を使って都の様子を窺わせた。そこで朝弼を罷免して、その子の昌祚に嗣がせて禄を半分にした。朝弼は怏々として楽しまず、ますます放縦になった。朝弼が母の葬儀で南京に来ると、都御史は朝弼を南京に留め置くよう願い出た。詔によりテンに帰ることを許されたが、テンの政治に関与することは禁じられた。朝弼は憤慨して、昌祚を殺そうとした。巡撫と按察使から交互に朝弼の行状についての報告が入った。あわせて殺人や蛮族との内通などの諸々の違法行為を告発され、ついに詔により投獄され、死刑を検討された。今までの功績により南京に禁錮となり、卒去した。



昌祚は初め都督僉事・総兵官として鎮守した。永い間その地位にいてから公爵を嗣いだ。万暦元年(1573)、姚安蛮の羅思らが叛いて郡守を殺した。昌祚は都御史の鄒応龍は地元の兵と漢人の兵を集めてこれを討伐し、向寧・鮓摩など十以上の寨を攻め落として賊の拠点を一掃し、羅思らを全員捕らえた。十一年(1583)、隴川の賊の岳鳳が叛いて緬甸に付き、緬甸の兵とともに近隣の土司を攻撃した。昌祚はジ海に本陣を置き、裨将の鄧子龍・劉テイらに、木邦で叛逆した酋長の罕虔を斬るよう命じたが、暑さと瘴気のために軍は撤退した。翌年、再び兵を出して罕虔の以前の根拠地を攻撃した。三道から同時に攻め入り、酋長の罕招らを捕らえた。さらに猛臉で緬の兵を破った。このため岳鳳は降伏した。論功により太子太保を加えられ、削減されていた禄を元通りにされた。再び出兵して羅雄にいた反逆者の諸蛮を平定したので、また銀幣を賜った。緬の兵が猛広を攻めると、昌祚は兵を糾合して永昌に本陣を置いた。緬人は遁走し、これを那莫江まで追撃したが、瘴気が起こったので帰還した。二十一年(1594)、緬人がまた攻め込んできたので、昌祚はこれを撃退した。連戦連勝しついに緬を屈服させた。ちょうど蛮族の間で内乱が起こったので帰還した。



沐氏はテンにいることが長く、その権威は日ごとに盛んとなって、親王のように尊重されるようになった。昌祚が外出したとき、僉事の楊寅秋が道を開けなかった。昌祚は楊寅秋の輿を担ぐ者を鞭打った。楊寅秋がこれを朝廷に訴えたので、詔が下され厳しくとがめられた。病気になったので、子の叡が代わって鎮守した。武定の土豪の阿克が叛いて、政庁の城を攻め、脅迫して府の印を持ち去った。叡はこのために投獄され、昌祚が再び鎮所の政務を執ることとなった。昌祚が卒去すると、孫の啓元が嗣いだ。啓元が卒去すると、子の天波が嗣いだ。天波が治めてから十年以上して土司の沙定洲が乱を起こした。天波は永昌に逃れ、乱が平定されるとテンに戻った。永明王の由榔がテンに入ると、天波を元の官職に任命した。天波が永明王に従って緬甸に入ると。緬人は永明王に危害を加えようとし、天波は屈せずに死んだ。これ以前のこと、沙定洲の乱のとき、天波の母の陳氏と妻の焦氏は焼身自殺した。後に天波が緬に逃亡したとき、妾の夏氏は追いつけなくなり、首を吊って自殺した。数十日経ってから棺に納めたが、その体は損傷していなかった。人々がその節義に感銘したためである。




本来は雲南は太祖十八男の朱ヘンを王として封じていましたが不法により除かれ、その後も何度か試みられたものの上手くいかずに結局は沐氏が王のような立場となったのです。
遠隔地であったのでこのような形態が許されたのでしょうが、おそらく呉三桂も同じ雲南の地にあってこのような立場で家を伝えていけると思っていたのでしょう。


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