yoho 2023/09/13 22:14

議論について という文章を書きたかった1

まえがき

議論や会話をしているとき、根本的に何が起こっているのか。そのことについて書きたかった。

とはいえ残念ながら体系だった一つの話をするにはなんか難しすぎた。まだ時が満ちていない。トピックを束ねる軸がない。話題として身に余るものに手を出したのかもしれない。etc。とりあえず一旦将来に向けてメモ書き程度のつもりで雑多に書いてみるつもりだ。

......それにしても、ぶっちゃけ健エミュみたいな話かもしれない。おれにとってはないと困るのだが、世間では見かけない時点でお察しだ。そういう特殊な話題だ。この文章の品質では似たような問題意識を持った人にしか読むことができないかもしれない。


会話のモデル - メモリモデル

さて、会話が行われるとき何が起きているのだろうか。
私としては次のように考えると色々と説明しやすい。

  1. 人間はメモリに様々なデータを持っている。そして、会話はそれに頼っておこなっている。文を作ったり解釈したりするのは必ずその個人のメモリを通して行われる。

  2. このメモリの影響はとても強い。ときには文や語それ自体よりも影響が大きいかもしれない。

こういった条件下で、相手のメモリに作用することを考えながら文のやり取りをするのが会話であるとみてみる。

さて、これは単なる言い換えや詩的な表現といったものだが後で便利なのでひとまずこうしてみる。

このまま関係する別の話に進む。


語や文はメモリによって意味付けされる遅延評価オブジェクトである

この話題では、一般的な会話や議論ということでとりあえず以下のことを仮定する。

  • 会話や議論は、話し手の意図を伝えるために行う。
  • 語や文は、話し手の意図を伝えるために用いられる。

......会話のドッジボールを除外しておこうくらいの意図だ。

さて、目の前の人になにか伝えよう。話し手は相手のメモリの中身が正確には分からない。なので、まず彼は広く共有されている(と思っている)メモリ内容に則しながら話をする。とはいえ話としては、一般に知られているよりも細かいニュアンスを伝えたいケースもある。また、語には複数の意味があり、どの意味で言ったかというのを限定する必要もある。こういった問題から結局、話し手は臨機応変に語や文にその場限りの特殊な意味を添加しながら議論を行うことになる。

このように、コミュニケーションの中では後から語や文に意味付けをしながら行うことが一般的である。その意味で、語や文のことを値ではなく遅延評価オブジェクトという形で捉えるとしっくり来るのだ。

いくつか例を挙げて説明していく。

例1. トピックセンテンス

遅延評価が行われる分かりやすい例として、いわゆるトピックセンテンスがあると思う。このテクニックでよく言われるものは次のような感じのものだろう。段落の最初の文でまず主張を言いきる「AはBだ」。そのあとでそれをどういう意図で言ったか、という説明が続く。こういう感じで後から「AはBだ」という文のより詳細な意味が発生するわけだ。
トピックセンテンスに限らず、大体の文や語は文章の中で後から意味が説明されるという側面がある。こういったお気持ちを込めて"遅延"評価という呼び方をしている。

捕捉. トピックセンテンスだけを引用した場合に起こること

この例でさらに遅延評価という解釈の効力をみていきたい。
さて、ここで「AはBだ」というトピックセンテンスを長い文から抜粋することを考えてみよう。

先述のように、この文の意味は元の文章全体によって決まっている。したがって、抽出すれば元々の発言者の意図は大きく消えてしまう。
こうしたトピックセンテンスだけ抜き出すような大雑把な引用をしても、大意だけが必要な場面なら問題はない。だが、正確さ・元の文意といったものが重要な場面では困ったことになるかもしれない。

よくある誤りとしては、論文の結論だけを持ってきて「◯◯が示された」などといってしまう話がある。実際にはその結果については色々な条件があったりする。話が大意だけで終わればまあよいのだが、実際は集まった人々がそのまま議論を始めたりする。そのように話が議論の段階に進んでしまうと、トピックセンテンスの抜粋だけでは色々な情報が不足してしまうのである。

残念なことに人は情報不足が起きたとき、無意識に情報を推測して補うという困った性質がある。こういうわけで議論をしたい人間が出てくるような話題なのに十分な情報がない場合、混乱が起きることがある。
出来れば書き手は元の文章へのアクセスを必要に応じて用意した方が良いし、読み手も目に映った文はただの抜粋であって、元の文意とは違うかもしれない、ということを十分意識する必要があるだろう。

こういう文の一部を取ってくると解釈がランダムになってしまう現象は、語や文が単独では意味をあまり持たず、遅延評価によって意味付けされているということと関連があると思う。


例2. 強調表現

「AというのはBという意味だ」という文章パターンがある。Aは一般語だ。そしてBは辞書のAの欄に書いてないような勤勉な言葉を想定している。[プロとは何か?]のような検索をすれば、大量の例を見つけることができる。
こういった文に不慣れだと、ついこういう反論をしてしまうかもしれない。「「AとはB」である、という主張は妥当だとは思えない。Aという語の意味はaであって、Bという意味は辞書に書かれていない。そのうえ必ずしもAはBを満たすものだとは思えない。だからそのA=Bという主張には違和感がある」

残念ながら、元の話者がこの文で言いたいことは「A=B」ではなく「AならBを意識してほしい」くらいのことだと思う。これは恐らく強調表現である。その発話者の中にはきっと許しがたいちゃらんぽらんな人間のイメージがあり、そこに向かって強めのお気持ちで言っているのかもしれない。この文章の世界ではA=Bと定めて話を続けているんだろうな、くらいに捉えてみるのが適正かもしれない。
このようにある意味で文法を無視する勢いの主張のやり方というものもある。とはいえ、よく見ればこうした構文も単独の文では意味が薄い。実際は後に続く文章が引き起こす遅延評価の方が本質で、最初の文なんて割とどうでも良いのかもしれない。

※ところでこの「AはBという意味だ」の発言者に先程述べた「語の定義としてどうかと思う」というような反論・質問を投げると、発話者は意見全体への否定として受け取るかもしれない。たぶん「プロ意識がないとこういう問題が起きるから、いま言ったように考えるべきだ」みたいな返信が返ってくるだろう。
繰り返すが、発話者のメモリ上には先ほどの強調表現という意識しかないと思う。言い返しても距離は遠い。けっきょく雰囲気のシリアスさから無意識に反対意見かと推論されてしまうだろう。


メモリモデルの話はここまで。
次は議論で有用だと思ういくつかの論法の話をする。

論法

論法と書いてはいるが、これはある角度から文を眺めた解釈か何かだと考えてほしい。一つの文が複数の論法に当てはまっているかもしれない。
以降の例は好みで選んだりする。

辞書・トートロジー論法

これは文脈や辞書の上で自明な文を作る論法をいう。
自明な文を端に発しているから、原理的に必ずどこかのレベルで受け入れられるという事がポイントだ。そういう点からか広く通じる格言などに存在することが多い気がする。
適当にいくつか例を挙げながら話す。

例1. Aは良い(このAは"良い"が定義に含まれる言葉である)

例えば「何事も中庸が良い」という格言がある。
中庸という語の辞書的意味は「両極端でなく調和が取れていて良い感じであること」なので、結局はこの文は良いものは良いというトートロジーを言っているに過ぎない。
「音ゲーの譜面は曲に合っているものが良い」
これも同様だ(合っている、には辞書的に良いの意味が含まれている)。

もちろん、これらの文に何の意味もないかというとそういうわけではない。これらの文は、いま話題にしている"良い"の意図/イメージを方向づけている。恐らく、話者はこの限定によって弾かれる何か悪いものをイメージして話しているのだろう。

ちなみに、この種類の発言に対しての適切な応答にも注意がいる。
例えばあなたがある譜面を好きだと言って、それに対して相手がただ「曲に合っていないものは良くない」という趣旨のことを言ってきたとしよう。
不適切な応答は星の数ほどあるので挙げられない。あわあわしながら「いや、でもこういうところが良いし......」などと弱いことを言うのがそうだろうか。こうした事を言って相手の自動推論を働かせてしまい「曲に合ってないのに大した問題ではないというんですか?」などと思わせてしまったらコミュニケーション失敗である。

この"合っている"は自明に良い概念であって、そういう言葉で起きてしまった齟齬は、このトートロジー論法と同じように強固なものになってしまうので大変なことになるだろう。

適切な応答は大体以下のものだと思う。
「hogeは曲に合っていない譜面というわけではないと思う」
このように前提をちゃんと明示的に崩す。
「hogeは確かに曲のリズムを崩すなど、曲にあまり合っていないと言われても仕方のない要素を持っているかもしれない。だが他にこういう良い要素があり、そちらの方に目が向いたので私はそういう風には気にはならなかった」
このようにはっきりと別のものが見えたと言うなどである。

ともあれ中庸という言葉もそうだが、基礎として広まるものはこの例のようなものが多いと思う。


例2. (Aのための)BはAを果たすように行うと良い。

より詳細には「(人に教えるための)説明は人が理解出来るように行うとよい」などだ。
この文は辞書を使うと、
人に教えるための説明 → 人に理解してもらうための説明
という変形が出来る。
そうすると、元の文は「人に理解してもらうための説明は人が理解できるように行うとよい」というトートロジー的なものになる。

ちなみにこの種のものは体感、()内が省略されることが多いのが厄介だ。
過去に私は「プレゼンテーションは人のことを考えて行うとよい」という文を見て、一体どういうことなのかと3時間くらい考え込んだことがあった。
人のことを考えるとは何か......利己主義......アフリカの子供たち......唯我論......考えるとは何か?......大宇宙......葦。結局は「(人に理解してもらうための)プレゼンテーションにおいては(略)」のように手前の()内の仮定が隠されていただけであった。
ともあれこういった省略がなければ、文の意味は自明だ。
実際、こういうものは色々な分野の基礎的なアドバイスに出てくるような気もしている。効果も先ほどの例1と同じく、方向を限定したり言い換えを行うものだろう。


例3. (AはBであると前提した上で)BはBである
この文のより細かい例を挙げる
「(Aは悪いことであるというのを前提した上で)悪いことは良くない」

さて、この例は恐らく、悪いかもしれない行いをするかどうか迷った人がいて、他の人がその人にやめるよう促そうとしている状況で出てくる発言だろう。

この形の文でも()内は抜けがちであり、補う必要がよくある。失敗すると次のようなコミュニケーションの破綻が起きるかもしれない。
aさん・・・行為Aを全くB(何かやるべきでないこと)だと思っていない。
bさん・・・行為AはBであってよくないことだと思っている。B=自分勝手 などとしてみようか。
b「自分勝手なことはよくないからやるべきでない」
a「(漠然と何かを否定されたと感じて人の習性から何かランダムなことを言う)」
b「自分勝手なことをしてもよいと考えているのか?ありえん」
この例では、bさんが最初に「Aという行動は自分勝手だと思うので」と一言付け加えれば良かっただろうと思う。あるいはaさん側が、この唐突な返答はさてはA=自分勝手ということを暗黙に仮定しているな、と立ち止まって質問を投げ返せれば、切り抜けられたかもしれない。えてして両者とも無意識で動き始めると止まれないものである。

まとめ.
トートロジー的な文は自明に正しいので、必ず背中が壁につく安定感がある。ゆえに考えの方向性を相手に示す上で非常に有用だ。とはいえ、トートロジー自体にはもちろん意味はない。なのでその文章の意味を特殊化する他の要素が非常に大事だ。そういった要素をうっかり省略して、混乱を呼ばないようにしたい。逆に、聞き手としてはそういった省略によく気づくようにしたい。


中断

さて、ここいらで長くなってきたし飽きてきた〰️~。ので一旦中断する。次回は他にもいくつか論法を挙げ、それとは別に程度問題などの問題クラスの話もしていくつもりだ。

それにしてもこの文章、私としては遅延評価オブジェクトという言葉を出して、文意って後から定まるよね、という話を最初の章でしてんのに、次の論法の章になったらすぐに手前の()内の省略が文意を定める重要な要素ですと言ってて混乱の極みという感じです。
どちらの話も自分にとっては重要だと思っているので、出し方やまとめ方の面でもっと検討した方がよいと思っています。

でもこの記事書かないと怖くて日常会話できないんですよね。

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