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自遊時閑 2023/12/11 17:13

[梶井基次郎] 檸檬 ソフトノベル

 得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた。焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに二日酔いがあるように、酒を毎日飲んでいると二日酔いに相当する時期がやってくる。それがきたのだ。これはちょっといけなかった。生じた肺結核やノイローゼがいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。
 以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も我慢ならなくなった。蓄音機を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私をいたたまれなくさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。

 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさ苦しい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。
 雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土の塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時としてびっくりさせるような向日葵《ひまわり》があったりカンナが咲いていたりする。
 時どき私はそんな道を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百キロも離れた仙台とか長崎とか――そのような町へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような町へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清潔なふとん。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほどなにも思わず横になりたい。願わくばここがいつの間にかその町になっているのだったら。
 ――錯覚がようやく成功しはじめると私は次から次へ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんてことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
 私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは二番目として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまな縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆《そそ》った。
 それからまた、ビードロという、色ガラスで鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉《なんきんだま》が好きになった。またそれを舐めてみるのが私にとってなんともいえない快楽だったのだ。あのビードロの味ほど微かな涼しい味があるものか。
 私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼い時のあまい記憶が大きくなって落ちぶれた私に蘇ってくるせいだろうか、まったくあの味には微かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂ってくる。
 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言え、そんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには、贅沢というものが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚びてくるもの。――そう言ったものが自然と私を慰めるのだ。
 生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオーデコロンやヘアトニック。洒落た切子細工や優雅なロココ様式の浮模様をもった琥珀色や翡翠色の香水びん。煙管《きせる》、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一番いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。
 しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつんと一人取り残された。私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち止まったり、乾物屋の乾し蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下がり、そこの果物屋で足を止めた。
 ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感じられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。なにか華やかな美しい音楽の快速調《アレグロ》の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを押し付けられて、あんな色彩やあんなボリュームに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。
 青物もやはり奥へゆけばゆくほどうず高く積まれている。――実際あそこの人参の葉の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑《くわい》だとか。
 またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑やかな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾り窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かったのがはっきりしない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。
 もう一つはその家から突き出した庇《ひさし》なのだが、その庇が目深《まぶか》に冠った帽子のつばのように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子のつばをやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、庇の上はこれも真っ暗なのだ。そう周囲が真っ暗なため、店頭に点けられたいくつもの電灯がにわか雨のように浴びせかける絢爛《けんらん》は、周囲の何者にも奪われることなく、欲しいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電灯が細長い螺旋棒《らせんぼう》をきりきり目の中へ刺し込んでくる通りに立って、また近所にある鍵屋の二階のガラス窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時の私を楽しませたものは寺町の中でも稀だった。

 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬《れもん》が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただ当たり前の八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンイエローの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形《ぼうすいけい》の格好も。
 ――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧さえつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んできたようで、私は街の上で非常に幸福であった。あんなにしつこかった憂鬱が、そんな物の一つで紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的な本当であった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
 その檸檬の冷たさは例えようもなくよかった。その頃私は肺尖《はいせん》を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実、友人たちに私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰よりも熱かった。その熱いせいだったのだろう、握っている掌から体内に浸み透ってゆくようなその冷たさは心地よいものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。それの産地だというカリフォルニアが想像に上ってくる。漢文で習った「売柑者之言《ばいかんしゃのげん》」の中に書いてあった「鼻を撲《う》つ」という言葉が切れ切れに浮かんでくる。そして深々と胸いっぱいに匂い立つ空気を吸い込めば、今まで胸いっぱいに呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血の熱が昇ってきてなんだか体内に元気が目覚めてきたのだった。……
 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこれだけを探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
 私はもう通りを軽やかな興奮に弾んで、一種誇らしい気持ちさえ感じながら、美麗な装束を着て街を闊歩《かっぽ》した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量《はか》ったり、またこんなことを思ったり、
 ――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常づね探し求めていたもので、疑いもなく、この重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算してきた重さであるとか、思いあがった遊び心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――何はさておき私は幸福だったのだ。

 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日はひとつ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水のびんも煙管《きせる》も私の心にはのしかかってゆかなかった。憂鬱が立ちこめてくる、私は歩き回った疲労が出てきたのだと思った。
 私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ「いつにも増して力が要るな!」と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、念入りにめくってゆく気持ちはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出してくる。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪え難さのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に目を通し終わった後、さてあまりに尋常な周囲を見回すときのあの変にそぐわない気持ちを、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は袂《たもと》の中の檸檬を思い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら……「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな興奮が帰ってきた。私は手当たり次第に積みあげ、また慌ただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いて付け加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれは出来上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見渡すと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えわたっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に次のアイディアがひらめいた。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持ちがした。「出て行こうかなぁ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

 変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪人が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も木っ端微塵だろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇妙な趣きで街を彩っている京極を下って行った。

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自遊時閑 2023/12/09 15:09

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自遊時閑 2023/12/07 18:58

[江戸川乱歩] 赤い部屋 ファストノベル

 異常な興奮を求めて集った、七人の堅苦しい男が(私もその中の一人だった)わざわざそのために用意した「赤い部屋」の、緋色のビロードを張った深い肘掛け椅子にもたれ込んで、今晩の話手が何か怪異な物語を話しだすのを、今か今かと待ち構えていた。
 やがて、今晩の話手と定められた新入り会員のT氏は、じっと蝋燭の火を見つめながら、次のように話し始めた。

 私は、自分では正気のつもりでいますが、本当は狂人かもしれません。私という人間は、生きているという事が、もう退屈で退屈でしょうがないのです。
 初めのうちは、それでも人並みに色々な娯楽に没頭した時もありましたが、何一つ私の退屈を慰めてはくれないので、一時私は文字通りなにもしない、死ぬよりも辛い日々を過ごしていました。
 こんな風に申上げますと、皆さん「世の中に退屈している点では我々だって同じだ。だからこんなクラブを作って異常な興奮を求めているのではないか」とおっしゃるに違いありません。本当にそうです。あなた方が退屈がどんなものかをよく知っていると思えばこそ、私は今夜この席に並んで、私の奇妙な身の上をお話しようと決心したです。

 私はこの階下のレストランのご主人から、この「赤い部屋」へ何度となく入会することを勧められていました。しかし、お話があった頃には、私はもうそういう刺激には飽き飽きしていただけでなく、ある素晴らしい遊戯を一つ発見して、その楽しみに夢中になっていました。
 その遊戯というのは……人殺しなんです。しかも、私は今日までに百人近い命を、ただ退屈をまぎらす目的のためだけに、奪ってきたのです。しかし、なんということでしょう。私は近頃になって殺しにすら、もう飽きてしまったんです。そして、今度は自分自身を殺すように、阿片《アヘン》に溺れ始めたのです。私はやがて毒で命を取られてしまうでしょう。そう思いますと、せめて道筋の通った話のできる間に、一番話すにふさわしい「赤い部屋」の方々に私のやってきたことを打ち明けておきたいのです。
 そういう訳で、私はただ自分の身の上を聞いてもらいたいがために、今回会員の一人に加えて頂いたのです。

 それは三年ばかり前のある夜、私は一つの妙な出来事に遭遇しました。私が百人もの命を取るようになったのは、実はその晩の出来事がきっかけになったんです。
 少し酔っぱらっていたと思います。横町を何気なく曲がりますと、出会いがしらになにか狼狽している男と出会いました。男はいきなり「この辺に医者はないか」と尋ねてきました。聞くと、その男は今そこで老人を轢き倒し大怪我をさせたというのです。
 私は自宅の近所のことですから、早速こう教えてやりました。
「ここを左の方へ二百メートルほど行くとM医院がある」
 すると運転手はすぐさま、負傷者をそのM医院の方へ運んで行きました。私は家に帰って、すぐに眠りに入ってしまいました。
 翌日目を覚ました時、私は前夜の事をまだ覚えていました。そしてふと変なことに気がつきました。
「いや、大変な間違いをしてしまったぞ」
 私はびっくりしました。いくら酔っていたとはいえ、何を思って私はM医院などへ担ぎ込ませたんでしょう。
 Mというのは評判のヤブ医者で、しかもMとは反対の方角に、立派に設備の整ったKという外科病院があるではありませんか。無論私はそれをよく知っていたはずなんです。知っていたのになぜ間違ったことを教えたか。その時の心理状態は、今になってもまだよく分かりません。
 その後、それとなく近所の噂などを探ると、どうやら怪我人はM医院で死んだそうです。私はそれを聞いて、変な気持ちになってしまいました。
 この場合、可哀そうな老人を殺したは果たして誰でしょうか? 自動車の運転手とM医師に、それぞれ責任のあることは言うまでもありません。ですが、最も重大な責任者はこの私だったのではないでしょうか。もしあの時、私がK病院を教えたとすれば、問題なく怪我人は助かったかもしれないのです。その時の指示次第で、老人を生かすことも殺すこともできた訳です。もちろん怪我をさせたのは運転手でしょう。けれど〝殺した〟のはこの私だったのではないでしょうか?
 皆さんはかつてこういう殺人法について考えられたことがあるでしょうか。私はこの事件で始めてそれに気がついたんですが、この世の中はなんと過酷な場所なんでしょう。私のような男が、なんの理由もなく故意に間違った医者を教えたりして、いつ不当に命を失ってしまうか分かったものではないのです。

 これはその後私が実際やってみて成功したことなんですが、お婆さんが電車の線路を横切ろうと、まさに線路に片足をかけたときに、誰かが大きな声で「お婆さん危いッ」と怒鳴りでもしようものなら、たちまち慌てて、そのまま通り切るか、一度後へ引き返そうかと、暫く迷うに違いありません。そのたった一言が、最悪の場合命までも取ってしまわないとは限りません。さっきも申上げましたとおり、私はこの方法で一人殺してしまったことがあります。
 この場合「危いッ」と声をかけた私は明らかに殺人者です。しかし誰が私の殺意を疑いましょう。なんとまぁ安全極まる殺人法じゃありませんか。
 そこで私はこの手口の人殺しによって、あの死にそうな退屈をまぎらすことを思いつきました。なんという申分のない眠気覚ましでしょう。以来私はこの三年の間というもの、人を殺す楽しみにふけって、いつの間にか退屈をすっかり忘れていました。皆さん、私は戦国時代の豪傑のように、百人の命を取るまでは決して途中でこの殺人を止めないことを、私自身に誓ったのです。
 今から三月ばかり前です、私はちょうど九十九人まで〝済ませ〟ました。その九十九人をどんな風にして殺したか。もちろん、ただ人知れぬ方法とその結果に興味をもってやった事ですから、私は一度も同じやり方を繰り返すようなことはしませんでした。
 しかし、この席で、私のやった殺人法を一つ一つお話する暇もありませんし、それに、今夜私がここへ参りましたのは、そうした極悪非道の罪悪を犯してまで、退屈から逃れようとした、そしてまた、今度はこの私自身を滅ぼそうとしている、世の常ならざぬ私の気持ちをお話して皆さんの判断をあおぎたいためですから、その殺人方法については、ほんの二三の実例を申上げるに止めておきたいと存じます。

 ある夏のことでした。私は犠牲《いけにえ》にしてやろうと目を付けていたある友人、といっても決してその男に恨みがあった訳ではなく、長年の間無二の親友としてつき合っていたほどの友達なのですが、私には逆に、そういう仲のいい友達などを、なににも言わないで、ニコニコしながら、アッという間に死体にしてみたいという異常な望みがありました。その友達と一緒に、房州の僻地にある漁師町へ避暑に出かけたことがあります。
 ある日、私はその友達を、海岸の集落から、だいぶ離れた所にある、ちょっと断崖みたいになった場所へ連れ出しました。そして「飛び込みをやるのには持ってこいの場所だ」などと言いながら、私は先に立って着物を脱いだんです。友達もいくらか水泳の心得えがあったものですから「なるほどこれはいい」と私にならって着物を脱ぎました。
 そこで、私はその断崖の端に立って、ピョンと飛び上がると、見事な弧を描いて、逆さまに前の海面へと飛び込みました。
 パチャンと身体が水についた時に、胸と腹の呼吸でスイと水を切って、僅か一メートル潜るだけで、飛魚のように向こうの水面へ体を表すのが「飛び込み」のコツなんです。そして、
「オーイ、飛込んでみろ」
 と友達に呼びかけました。すると、友達は無論なにも気づかないで、
「よし」と言いながら、私と同じ姿勢をとり、勢いよく私のあとを追ってそこへ飛び込みました。
 ところが、しぶきを立てて海へ潜ったまま、彼は暫くたっても再び姿を見せないじゃありませんか……。私はそれを予期していました。その海の底には、水面からニメートルぐらいの所に大きな岩があったんです。私は前もってそれを探っておき、友達の腕前では「飛び込み」をやれば必ずニメートル以上潜るに決まっている、従ってこの岩に頭をぶつけるに違いないと見込みをつけてやった事です。
 案の定、暫く待っていますと、彼はポッカリとマグロの死体のように海面に浮き上がりました。
 私は彼を抱いて岸に泳ぎつき、そのまま部落へ駆け戻って、宿の者に緊急をつげました。そこで休んでいた漁師などがやって来て友達を介抱してくれましたが、ひどく脳を打ったためでしょう。もう回復の見込みはありませんでした。
 私が警察の取り調べを受けたのはたった二度きりですが、その一つがこの時でした。なにぶん人の見ていない所で起こった事件ですから、取り調べを受けるのは当然です。しかし、私も彼もその海底に岩のあることを知らず、幸い私は水泳が上手だったために危ないところを逃れたけれども、彼はそれが下手だったばっかりにこの事態を引き起こしたのだということが明白になったものですから、難なく疑いは晴れ、私はかえって警察の人達から「友達を亡くされてお気の毒です」と悔みの言葉までかけてもらう有様でした。
 いや、こんな風に一つ一つ実例を並べていてはきりがありません。もう皆さんも私の絶対に法律に触れない殺人法を、大体お分かりくださったことと思います。全てこの調子なんです。最後に少し風変わりなのを一つだけ申上げることにいたしましょう。

 今までお話しましたところでは、私はいつも一度に一人の人間を殺しているように思えますが、そうでない場合も度々ありました。でなければ、三年足らずの年月の間に、しかも少しも法律に触れないような方法で、九十九人もの人を殺すことはできません。その中でも最も大人数を一度に殺したのは、昨年の春のことでした。皆さんもご存知のことと思いますが、中央線の列車が転覆して多くの負傷者や死者を出したことがありますね、あれなんです。
 それを実行する土地を探すのにはかなり手間がかかりました。結局M駅の近くの崖を使うことに決心するまでに、まる一週間はかかりました。M駅にはちょっとした温泉場がありますので、私はそこのある宿へ泊まり込んで、いかにも長期滞在の湯治客らしく見せかけようとしました。そして、もう大丈夫だという時を見計らって、私はある日いつものようにその辺の山道を散歩しました。
 そして、宿からニキロほどの、ある小高い崖の頂上へたどりつき、私はそこでじっと夕闇の迫ってくるのを待っていました。
 暫くすると、予め定めておいた時間になりました。私は、これも予め探しだしておいた一つの大きな石ころを蹴り飛しました。それはちょっと蹴りさえすれば崖からちょうど線路の上あたりへ転がり落ちるような位置にあったんです。その石ころはうまい具合に一本のレールの上に乗っかりました。
 半時間後には下り列車がそのレールを通るのです。その時にはもう真っ暗になっているでしょうし、その石のある場所はカーブの向こう側ですから、運転手が気付くはずはありません。それを見定めると、私は大急ぎで、M駅へと引き返しそこの駅長室へ入って行って「大変です!石ころを線路の上へ蹴り落してしまいました。もしあそこを列車が通ればきっと脱線します!」とさも慌てた調子で叫びました。
 すると駅長は驚いて、
「それは大変だ、今下り列車が通過したところです。普通ならあの辺はもう通り過ぎてしまった頃ですが……」
 と言うのです。そうした問答を繰り返している内に、列車転覆により死傷数知れずという報告がもたらされました。さぁ大騒ぎです。
 私は成り行き上一晩Mの警察署へ引っ張られ、大変叱られはしましたが、別に処罰を受けるほどのこともありませんでした。そういう訳で、私は一つの石ころによって、少しも罰せられることなく、十七人の命を奪うことに成功したんです。
 皆さん。私はこんな風にして九十九人の人命を奪った男なんです。これらは普通の人には想像もつかない極悪非道の行いに違いありません。ですが、そういう大罪悪を犯してまで逃れたいほどの、ひどい退屈を感じなければならなかったこの私の気持ちも、少しはお察し願いたいのです、私という男は、そんな悪事でも企む他には、何一つこの人生に生きがいを発見することができなかったのです。皆さん、どうかご判断なさって下さい。私は狂人なのでしょうか。殺人狂とでもいうものなのでしょうか。

 このようにして今夜の話手の、とてつもなく奇怪極まる身の上話は終わった。しかし誰一人これに答えて批判の口を開くものもなかった。
 ふと、ドアのあたりに垂らされた布の表に、チカリと光ったものがあった。それは銀色の丸いもので、赤い布の間から、徐々に円形を作りながら現われているのであった。私は最初の瞬間から、それが給仕女の両手に捧げられた、我々の飲物を運ぶ大きな銀盆であることを知っていた。そう、いつもの美しい給仕が現れたのだ。彼女は飲物を配り始めると、その、世間とはまるでかけ離れた幻の部屋に、世間の風が吹き込んできたようで、なんとなく不調和な気がしだした。

「――ほら、撃つよ」
 突然Tが、今までの話し声と少しも違わない落着いた調子で言った。そして、右手を懐へ入れると、一つのキラキラ光る物体を取り出して、ヌーッと給仕女の方へ向けた。
 アッという私たちの声と、バン……というピストルの音と、キャッと驚愕する女の叫びと、それがほとんど同時だった。
 無論私達は一斉に席から立ち上った。しかし撃たれた女は何事もなく、ただ無惨にも撃ち砕かれた飲物の器を前にして、ボンヤリと立っているではないか。
「ワハハハハ……」T氏が狂人のように笑い出した。
「おもちゃだよ、おもちゃ。アハハハ……」
「まぁ、びっくりした……。それ、おもちゃなの?」
 Tとは以前から顔馴染みらしい給仕女は、そう言いながらT氏の方へ近づいた。
「ねぇ、貸して。まぁ、本物そっくりだわ」
 彼女は、照れ隠しのように、その玩具だというリボルバーを手にとって見ていたが、やがて、
「くやしいから、あたしも撃ってあげるわ」
 と言うかと思うと、彼女は生意気な格好でT氏の胸に狙いを定めた。
「君に撃てるなら、撃ってごらん。撃てやしないって」
 ――バン。前より鋭い銃声が部屋中に鳴り響いた。
「ウウウウ……」なんとも言えない気味の悪い唸り声がしたかと思うと、T氏がヌッと椅子から立ち上がって、バッタリと床の上へ倒れた。そして、手足をバタバタやりながら、苦悶し始めた。
 私達は思わず彼の近くへ走りよった。見ると、T氏は蒼白な顔を痙攣させて、夢中になってもがいていた。そしてだらしなく開かれたその胸の傷口からは彼が動く度に、だらりと真っ赤な血が流れていた。
 玩具と見せかけたリボルバーの二発目には実弾が装填してあったのだ。
 私たちは、長い間、ボンヤリそこに立ったまま、誰一人身動きするものもいなかった。奇怪な物語の後のこの出来事は、私達にあまりにも激しい衝動を与えたのだ。そして、苦悶している負傷者を前にして、私の頭には次のような推理の働いた。
「意外な出来事に違いない。しかし、よく考えてみると、これは最初からTの今夜のプログラムに書いてあった事なのではないか。彼は九十九人までは他人を殺したが、最後の百人目だけは自分自身のために残しておいたのではないだろうか。そして、そういうことには最もふさわしいこの『赤い部屋』を、最後の死に場所に選んだのではないか、これは、この男の奇怪極まる性質を考え合わせると、まんざら見当はずれの想像でもない」
 恐ろしい沈黙が場を支配していた。そこには、床に横たわった給仕女の、悲しげにすすり泣く声が、密やかに聞えているばかりだった。「赤い部屋」の蝋燭の光に照らしだされた、この僅かな間に起きた悲劇の場面は、この世の出来事としてはあまりにも夢幻的に見えた。

「ククククク……」
 突如、異様な声が聞えてきた。それは、最早やもがくことを止めて、ぐったりと死人のように横わっていた、T氏の口から漏れるよう感じられた。氷のような戦慄が私の背中を這い上った。
「クックックックッ……」
 その声は見る見る大きくなっていった。そして、ハッと思う間に、瀕死のT氏の体がヒョロヒョロと立ち上がった。だが……もしや……やはりそうだったのか、彼は先ほどから耐らないおかしさをじっと噛み殺していたのだった。「皆さん」彼はもう大声に笑い出しながら叫んだ。
「皆さん。分かりましたか、これが」
 すると、あぁ、これはまたどうしたことだろう。今の今まであのように泣き入っていた給仕女が、いきなり快活に立ち上がったかと思うと、もう耐らないというように、身体をくの字にして、これもまた笑いこけるのだった。
「これはね、偽物の弾丸《たま》なんですよ。中にインクが入れてあって、命中すれば、それが流れ出す仕掛けです。それからね。この弾丸と同じように、さっきの私の身の上話というのは始めから終わりまで、みんな作り話なんですよ。さて、退屈屋の皆さん。こんなことでは、皆さんが始終お求めなさっている、あの刺激とやらにはなりませんでしょうか……」
 彼がこう種明かしをしている間に、今まで彼の助手を勤めた給仕女の気転で階下のスイッチがひねられたのであろう、突如真昼のような電灯の光が、私たちの目を惑わせた。そして、その白く明るい光線は、たちまち部屋の中に漂っていた、あの夢幻的な空気を一掃してしまった。そこには、暴露された手品の種が、醜い骸を晒していた。緋色の絨毯や肘掛け椅子、果ては、あの意味ありげな銀の燭台までが、なんとみすぼらしく見えたことか。
 「赤い部屋」の中には、どこの隅を探してみても、最早や、夢も幻も、影さえとどめていないのだった。

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自遊時閑 2023/12/04 21:51

[芥川龍之介] トロッコ ソフトノベル

 小田原―熱海《あたみ》間に、軽便鉄道建設の工事が始まったのは、良平が八つの時だった。良平は毎日のように村外れへ、その工事を見物しに行った。工事を――というより、ただトロッコで土を運搬する――それが面白くて見に行ったのである。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走ってくる。舞い上がるように車台が動いたり、土工の半纏《はんてん》の裾がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんな景色を眺めながら、土工になりたいと思うことがある。せめては一度でも土工と一緒に、トロッコへ乗りたいと思うこともある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然とそこに止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押すことさえできたらと思うのである。

 ある夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その他はどこを見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力がそろうと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそういう音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登っていった。
 それからかれこれ十八メートルほど来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。ともすれば車と一緒に、押し戻されそうにもなる。良平はもう良しと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
 彼らは一度に手を離すと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初緩やかに、それから見る見る勢いよく、一気に線路を下り出した。その途端、突き当たりの風景は、たちまち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開してくる。顔に当たる薄暮夕暮れの風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平はほとんど有頂天になった。
 しかしトロッコは二三分ののち、もう元の終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
 良平は年下の二人と一緒に、またトロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼らの後ろには、誰かの足音が聞えだした。のみならずそれは聞えだしたかと思うと、急にこう言う怒鳴り声に変わった。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」
 そこには古い印半纏《しるしばんてん》に、季節外れの麦わら帽子をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そういう姿が目に入った時、良平は年下の二人と一緒に、もう九か十メートルほど逃げ出していた。――それっきり良平はお使いの帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗ってみようと思ったことはない。ただその時の土工の姿は、今でも良平の頭のどこかに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中ほのかに見えた、小さい黄色の麦わら帽、――しかしその記憶さえも、年ごとに色彩は薄れるらしい。

 その後、十日あまり経ってから、良平はまたたった一人、昼過ぎの工事場に佇みながら、トロッコが来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの他に、線路へ敷く枕木《まくらぎ》を積んだトロッコが一両、これは本線になるはずの、太い線路を登ってきた。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼らを見た時から、なんだか親しみやすいような気がした。
「この人たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコのそばへ駆けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人、――縞のシャツを着ている男は、うつむきトロッコを押したまま、思った通り心良く返事をした。
「おお、押してくれい
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
われはなかなか力があるな」
 他の一人、――耳に煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも良い」――良平は今にも言われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したきり、黙々と車を押し続けていた。良平はとうとう堪えきれずに、おずおずこんなことを尋ねてみた。
「いつまでも押していて良い?」
「良いとも」
 二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
 六百メートルあまり押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。そこには両側のみかん畑に、黄色い実がいくつも日差しを受けている。
「登り道のほうが良い、いつまでも押させてくれるから」――良平はそんなことを考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
 みかん畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と言った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、みかん畑の匂いを煽《あお》りながら、ひた滑りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと良い」――良平は羽織に風を受けながら、当り前のことを考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りにまた乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
 竹やぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをやめた。三人はまた前のように、重いトロッコを押し始めた。竹やぶはいつか雑木林になった。爪先上りの所々には、赤さびの線路も見えないほど、落ち葉の溜まっている場所もあった。その道をやっと登りきったら、今度は高い崖の向こうに、広々と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまり遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。

 三人はまたトロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気持ちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば良い」――彼はそうも念じてみた。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼らも帰れないことは、もちろん彼にも分かりきっていた。
 その次に車の止まったのは、切り崩した山を背負っている、わら屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へ入ると、乳児をおぶったおかみさんを相手に、悠々と茶などを飲み始めた。良平は独りイライラしながら、トロッコの周りを回ってみた。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。
 しばらく後茶店を出てくると、煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコのそばにいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「ありがとう」と言った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂いが染みついていた。
 三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登っていった。良平は車に手をかけていても、心は他のことを考えていた。
 その坂を向こうへ下りきると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へ入った後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴ってみたり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押してみたり、――そんなことで気持ちを紛らせていた。
 ところが土工たちは出てくると、車の上の枕木《まくらぎ》に手をかけながら、無造作に彼にこう言った。
われはもう帰んな。俺たちは今日は向こう泊まりだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら
 良平は一瞬呆気に取られた。もうすぐ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の距離はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そういう事が一気に分かったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って付けたようなお辞儀をすると、どんどん線路沿いに走り出した。

 良平はしばらく無我夢中で線路のそばを走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを道ばたへ放り出すついでに、板草履もそこへ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へ直に小石が食いこんだが、足だけは遥かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂道を駆け登った。時々涙がこみ上げてくると、自然に顔が歪んでくる。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
 竹やぶのそばを駆け抜けると、夕焼けのした日金山《ひがねやま》の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。行きと帰りと変わるせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗で濡れとおったのが気になったから、やはり必死に駆け続けながら、羽織を道ばたへ脱いで捨てた。
 みかん畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、滑ってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駆け続けた。

 彼の村へ入ってみると、もう両側の家々には、電灯の光が差しあっていた。良平はその電灯の光に、頭から汗の湯気が立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰ってくる男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼の家の門口へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周りへ、一気に父や母を集まらせた。特に母はなんとか言いながら、良平の体を抱きかかえるようにした。が、良平は手足をもがきながら、すすり泣き続けた。その声があまり激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集ってきた。父母はもちろんその人たちは、口々に彼の泣く訳を尋ねた。しかし彼はなんと言われても泣き立てるより他に仕方がなかった。あの遠い道を駆け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気持ちに迫られながら…………

 良平は二十六の年、妻子と一緒に東京へ出てきた。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆《しゅふで》を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。全然なんの理由もないのに?――世俗の煩わしさに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い竹やぶや坂のある道が、ほそぼそと一筋断続している…………

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自遊時閑 2023/12/02 22:42

[芥川龍之介] トロッコ ファストノベル

 小田原―熱海《あたみ》間に、軽便鉄道建設の工事が始まったのは、良平が八つの時だった。良平は毎日のように村外れへ、その工事を見物しに行った。
 トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走ってくる。舞い上がるように車台が動いたり、土工の半纏《はんてん》の裾がひらついたり――良平はそんな景色を眺めながら、土工になりたいと思うことがある。せめて、トロッコへ乗りたいと思うこともある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然とそこに止まってしまう。と同時に土工たちは、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押すことさえできたらと思うのである。

 ある夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは薄明るい中に並んでいる。が、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力がそろうと、突然ごろりと車輪をまわした。ごろり、ごろり、――トロッコはそういう音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登っていった。
 それから十八メートルほど来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコもいくら押しても動かなくなった。良平はもう良しと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
 彼らは一度に手を離すと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初緩やかに、それから勢いよく、一気に線路を下り出した。顔に当たる薄暮夕暮れの風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平はほとんど有頂天になった。
 しかしトロッコは二三分ののち、もう元の終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
 良平は年下の二人と一緒に、またトロッコを押し上げにかかった。が、突然彼らの後ろには、誰かの足音が聞えだした。のみならずそれは聞えだしたかと思うと、急にこう言う怒鳴り声に変わった。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った!」
 そこには季節外れの麦わら帽子をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そういう姿が目に入った時、良平は二人と一緒に、もう十メートルほど逃げ出していた。

 その後、十日あまり経ってから、良平はまた一人、トロッコが来るのを眺めていた。すると、線路へ敷く枕木《まくらぎ》を積んだトロッコが一両、太い線路を登ってきた。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は、トロッコのそばへ駆けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
 その中の一人は、うつむきトロッコを押したまま、思った通り心良く返事をした。
「おお、押してくれい
 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
われはなかなか力があるな」
 他の一人、――耳に煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
 その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。
 六百メートルあまり押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。そこには両側のみかん畑に、黄色い実がいくつも日差しを受けている。
 みかん畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と言った。良平はすぐに飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、ひた滑りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと良い」――良平は羽織に風を受けながら、当り前のことを考えた。
 竹やぶのある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをやめた。三人はまた重いトロッコを押し始めた。竹やぶはいつか雑木林になった。その道をやっと登りきったら、今度は高い崖の向こうに、広々と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、あまり遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。

 三人はまたトロッコへ乗った。車は雑木の下を走っていった。しかし良平はさっきのように、面白い気持ちにはなれなかった。
 その次に車の止まったのは、わら屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へ入ると、おかみさんを相手に、悠々と茶などを飲み始めた。良平は独りイライラしながら、トロッコの周りを回ってみた。
 しばらく後茶店を出てくると、煙草を耳に挟んだ男は、良平に駄菓子をくれた。良平は冷淡に「ありがとう」と言った。が、すぐに冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。
 三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登っていった。良平は車に手をかけていても、心は他のことを考えていた。
 その坂を向こうへ下りきると、また同じような茶店があった。土工たちがその中へ入った後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。
 ところが土工たちは出てくると、無造作に彼にこう言った。
われはもう帰んな。俺たちは今日は向こう泊まりだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら
 良平は一瞬呆気に取られた。もうすぐ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の距離はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そういう事が一気に分かったのである。良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。彼は若い二人の土工に、取って付けたようなお辞儀をすると、どんどん線路沿いに走り出した。

 良平はしばらく無我夢中で線路のそばを走り続けた。彼は左に海を感じながら、急な坂道を駆け登った。時々涙がこみ上げてくると、自然に顔が歪んでくる。
 竹やぶのそばを駆け抜けると、夕焼けのした日金山《ひがねやま》の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、いよいよ気が気でなかった。
 みかん畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、滑ってもつまずいても走って行った。
 やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。

 彼の村へ入ってみると、もう両側の家々には、電灯の光が差しあっていた。彼は無言のまま、明るい家の前を走り過ぎた。
 彼の家へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周りへ、一気に父や母を集まらせた。父母は彼の泣く訳を尋ねた。しかし彼はなんと言われても泣き立てるより他に仕方がなかった。あの遠い道を駆け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気持ちに迫られながら…………

 良平は二十六の年、妻子と一緒に東京へ出てきた。今ではある雑誌社の二階に、校正の筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。――世俗の煩わしさに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い竹やぶや坂のある道が、ほそぼそと一筋断続している…………

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