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ソフトノベルの記事 (11)

自遊時閑 2023/11/30 18:25

[森鴎外] 高瀬舟 ソフトノベル

 高瀬舟《たかせぶね》は京都の高瀬川を上下する小舟である。江戸時代、京都の罪人が島流しを申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで別れの挨拶をすることが許された。それから罪人は高瀬舟に乗せられて、大阪へ回されるのである。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる役人で、この役人は罪人の親類の中で、代表一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上に許可されたことではないが、大目に見られており、いわゆる、黙認であった。
 当時、島流しを申し渡された罪人は、もちろん重い罪を犯したと認められた人間ではあったが、決して盗みをするために、人を殺し火を放ったというような、極悪な人物が多数を占めていたわけではない。高瀬舟に乗る罪人の大半は、いわゆる事実誤認のために、思わぬ咎《とが》を犯した人であった。ありふれた例を挙げてみれば、当時無理心中を謀って、相手の女を殺し、自分だけ生き残った男というような類である。
 そういう罪人を乗せて、夕暮れの鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川を横切って下りるのであった。この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜通し身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでも元には戻らない世迷い言である。護送をする役人は、傍らでそれを聞いて、罪人をだした親族の悲慘な境遇を細かに知ることができた。しょせん、町奉行所の白洲《しらす》で、表向きの罪状を聞いたり、役所の机の上で、口述を読んだりする役人には夢に思うこともできない境遇である。
 役人を勤める人にも、それぞれの性格があるから、この時ただうるさいと思って、耳を塞ぎたいと思う冷淡な役人がいるかと思えば、またしみじみと人の哀しみを身に受けとめ、その役目ゆえ表情には見せないながら、無言の中に密かに胸を痛める役人もいた。場合によっては非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類を、特に心弱い、涙脆い役人が監督していくことになると、その役人は思わず涙を流すのであった。
 そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の役人仲間で、不快な職務として嫌がられていた。


 いつの頃であったか。多分、江戸で白河楽翁《しらかわらくおう》侯が権力を仕切っていた寛大な政治の頃であっただろう。智恩院《ちおんいん》の桜が鐘に散る春の夕暮れに、これまでに類を見ない、珍らしい罪人が高瀬舟に乗せられた。
 その名を喜助といって、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。元より牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもたった一人で乗った。
 護送を命ぜられて、一緒に舟に乗り込んだ役人、羽田庄兵衛は、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。さて、牢屋敷から桟橋まで連れて来る間、この痩せ身の、色の蒼白い喜助の様子を見るに、いかにも素直で、いかにもおとなしく、自分を公儀の役人として敬って、何事につけても逆らわないようにしている。しかもそれが、罪人の間に時々見受けるような、従順を装って権力に媚びる態度ではない。
 庄兵衛は不思議に思った。そして舟に乗ってからも、役目として見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かく注意をしていた。
 その日は暮方から風がやんで、空一面を覆った薄い雲が、月の輪郭をかすませ、だんだん近寄ってくる夏の温さが、両岸の土からも、川底の土からも、もやになって立ち昇るかと思われる夜であった。下京の町を離れて、加茂川を横切った頃からは、辺りがひっそりとして、ただ船首に割かれる水のささやきを聞くのみである。
 夜舟で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。その額は晴やかで目には微かな輝きがある。
 庄兵衛はまともには見ていないが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気兼ねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。
 庄兵衛は心の内に思った。これまでこの高瀬舟の監督をしたことは数知れない。しかし乗せていく罪人は、いつもほとんど同じように、目もあてられない気の毒な様子をしていた。それに比べてこの男はどうしたのだろう。遊覧船にでも乗ったような顔をしている。罪は弟を殺したのだそうだが、もしもその弟が悪い奴で、それをどんな成り行きになって殺したにせよ、人の情としていい気持ちはしないはずである。この色の蒼い優男が、その人の情というものが完全に欠けているほどの、世にも稀な悪人であろうか。どうもそうは思えない。ひょっとして気でも狂っているのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合わない言動や挙動がない。この男はどうしたのだろう。庄兵衛には喜助の態度が考えれば考えるほど分からなくなるのである。


 暫くして、庄兵衛は堪えきれなくなって呼び掛けた。
「喜助。お前は何を思っているのか」
「はい」と言ってあたりを見回した喜助は、なにかを役人に見咎められたのではないかと気遣うように、佇まいを直して庄兵衛の顔をうかがった。
 庄兵衛は自分が突然質問した動機を明して、役目から離れた問答を求める言い訳をしなくてはならないように感じた。そこでこう言った。
「いや。別に訳があって聞いたのではない。実はな、俺はさっきからお前の島へ行く気持ちが聞いてみたかったのだ。俺はこれまでこの舟で大勢の人を島へ送った。それは随分色々な身の上の人だったが、誰もが島へ行くのを悲しがって、見送りにきて、一緒に舟に乗る親類の者と、夜通し泣くのに決まっていた。そこへきてお前の様子を見れば、どうも島へ行くのを苦にしてはいないようだ。一体お前はどう思っているのだ」
 喜助はにっこり笑った。
「ご親切におっしゃって下さって、ありがとうございます。なるほど、島へ行くということは、他の人には悲しい事でございましょう。その気持ちはわたくしにも同情することができます。しかしそれは世間で楽をしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしが経験したような苦しみは、どこへいっても味わうことはなかろうと存じます。お上のお慈悲で、命を助け、島へ送って下さいます。もし島が辛い所でも、鬼の棲まう所ではございますまい。わたくしはこれまで、自分の居て良い所というものがどこにもございませんでした。今度、お上は島に居ろとおっしゃって下さいます。その居ろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりも有り難い事でございます。それにわたくしはこんなにか弱い体ではございますが、一度も病気に罹ったことがございませんから、島へ行ってから、どんなつらい仕事をしたって、体を痛めるようなことはあるまいと存じます。それから今度島へお送り下さるにつきまして、二百文の銭を頂きました。それをここに持っております」
 こう言いかけて、喜助は胸に手を当てた。島流しを言い付けられたものには、二百銅を渡すというのは、当時の掟であった。喜助は言葉を続けた。
「お恥ずかしいことを申し上げなくてはなりませんが、わたくしは今日まで二百文というお金を、こうして懐に入れて持っていたことはございません。どこかで仕事に就きたいと思って、仕事を探して歩きまして、それが見つかり次第、労を惜まずに働きました。そして貰った銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませんでした。それも、現金で物が買って食べられるときは、わたくしの金回りがいい時で、大抵は借りたものを返して、また借りたのでございます。それが牢に入ってからは、仕事をせずに食べさせて頂きます。わたくしはそればかりでも、お上に対して申し訳のないことをしているようでなりません。それに牢を出る時に、この二百文を頂きましたのでございます。こうして相変わらずお上の物を食べていてみますれば、この二百文はわたくしが使わずに持っていることができます。お金を自分の物にして持っているということは、わたくしにとっては、これが初めてでございます。島へ行ってみますまでは、どんな仕事ができるかわかりませんが、わたくしはこの二百文を島でする仕事の元手にしようと楽しんでおります」
 こう言って、喜助は話を終えた。
 庄兵衛は「うん、そうかい」とは言ったが、聞いたことがあまりにも想像の範疇を超えていて、暫くなにも言うことができずに、考えこんで黙っていた。
 庄兵衛はもう初老に手が届く歳になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。それに老母が生きているので、家は七人暮らしである。普通の人にはケチと言われるほどの、倹約生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るものの他、寝巻きしか用意せずにいる。しかし不幸な事に、妻を良い身分の商人の家から迎えた。そこで女房は夫が給料として貰う扶持米《ふちまい》で暮しを立てていこうとする善意はあるが、裕福な家に可愛がられて育った癖があるので、ケチな夫が満足するほど財布の紐を引き締めて暮らしていくことができない。ともすれば月末になって勘定が足りなくなる。すると女房が内緒で里から金を持ってきて帳尻を合わせる。それは夫が借金というものを毛嫌いしているからである。そういうことは結局、夫に知られずにはいられない。庄兵衛は五節句だといっては、里方から物を貰い、子供の七五三の祝いだといっては、里方から子供に衣類を貰うことでさえ、心苦しく思っているのだから、暮らしの穴を埋めて貰ったのに気が付いては、良い顔はしない。格別平和を破るような事のない羽田の家に、時折波風が起こるのは、これが原因である。
 庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上と自分の身の上を比べてみた。喜助は仕事をして給料を貰っても、右から左へ人手に渡して失くしてしまうと言った。いかにも哀れな、気の毒な環境である。しかし一転して我が身を顧みれば、彼との間に、果してどれほどの差があろうか。自分も上から貰う扶持米を、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎないではないか。彼との相違は、言わばそろばんの桁が違っているだけで、喜助の有り難がる二百文に相当する貯蓄さえ、こっちはないのである。
 さて、桁を変えて考えてみれば、二百文でも、喜助がそれを貯蓄とみて喜んでいることに無理はない。その気持ちはこっちから察してやることができる。しかし、いかに桁を変えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のないこと、分相応の満足を知っていることである。
 喜助は世間で仕事を見つけるのに苦んだ。それを見つけさえすれば、労を惜まずに働いて、かろうじて生活できるだけのことで満足した。そこで牢に入ってからは、今まで得難かった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知ることのなかった満足を覚えたのである。
 庄兵衛はいかに桁を変えて考えてみても、ここに彼と自分の間に、大きな隔たりがあることを知った。自分の扶持米で立てていく暮らしは、時々足らないことがあるにしても、大抵収支が合っている。手一杯の生活である。それゆえそこに満足を覚えたことはほとんどない。いつもは幸福とも不幸とも感じずに過ごしている。しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという不安が潜んでいて、時々妻が里方から金を取り出してきて穴埋めをしたことなどがわかると、この不安が意識に浮かび上がってくるのである。
 一体この隔たりはどうして生じてくるのだろう。ただ上辺だけを見て、それは喜助には身内がないのに、こっちにはあるからだ、といってしまえばそれまでではある。しかしそれは嘘だ。もし自分が独り者であったとしても、どうも喜助のような気持ちにはなられそうにない。この根底はもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。
 庄兵衛はただ漠然と、人の一生というようなことを思ってみた。人は身に病いがあると、この病いがなかったらと思う。その日その日の食がないと、食っていけたらと思う。万一の時に備えて貯蓄がないと、少しでも貯蓄があったらと思う。貯蓄があっても、またその貯蓄がもっと多かったらと思う。そのように次から次へと考えてみれば、人はどこで踏みとどまることができるものやら分からない。それを今目の前で踏みとどまって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が付いた。
 庄兵衛は今更のように驚異の目を見張って喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から後光がさすように思った。


 庄兵衛は喜助の顔を見守りつつまた、「喜助さん」と呼びかけた。今度は「さん」と言ったが、これは十分の意識をもって呼称を改めたわけではない。その声が我が口から出て我が耳に入るや否や、庄兵衛はこの呼称が不適当なのに気が付いたが、今さら既に出た言葉を取り返すこともできなかった。
「はい」と答えた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ったらしく、おそるおそる庄兵衛の顔色をうかがった。
 庄兵衛は少し間の悪いのを堪えて言った。
「色々と聞くようだが、お前が今度島へ送られるのは、人をあやめたからだという話だ。俺にその訳をついでに話し聞せてくれないか」
 喜助はひどく恐れ入った様子で、「かしこまりました」と言って、小声で話しだした。
「どうもとんだ気の迷いで、恐ろしいことをいたしまして、なんとも申し上げようがございません。後で思ってみますと、どうしてあんなことができたかと、我ながら不思議でなりません。全く夢中でいたしましたのでございます。
 わたくしは小さい時に両親が流行り病で亡くなりまして、弟と二人あとに残りました。初めは町内の人達が、丁度軒下に生まれた子犬を不憫がるように、お恵み下さいますので、近所中の使い走りなどをいたして、飢え凍えもせずに育ちました。次第に大きくなりまして職を探しますにも、できるだけ二人が離れないようにいたして、一緒にいて、助け合って働きました。
 去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一緒に、西陣の職場に入りまして、空引《そらびき》と言う紋織りをいたすことになりました。そのうち弟が病気で働けなくなったのでございます。その頃わたくし共は北山の掘っ建て小屋同然の所に寝起きをいたして、紙屋川の橋を渡って職場へ通っておりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人で稼がせては済まない済まないと申しておりました。
 ある日いつものように何気なく帰ってみますと、弟は布団の上に突っ伏していまして、周囲は血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、手に持っていた竹の皮包や何かを、そこへほっぽり出して、そばへ行って『どうしたどうした』と申しました。すると弟は、両方の頬から顎へかけて血に染った、真っ青な顔を上げて、わたくしを見ましたが、ものを言うことができません。息をいたす度に、傷口からひゅうひゅうという音がいたすだけでございます。
 わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言って、そばへ寄ろうとすると、弟は右の手を床について、少し体を起こしました。左の手はしっかり顎の下の所を押さえていますが、その指の間から黒い血の固まりがはみ出しています。弟は目でわたくしのそばへ寄るのをとめるようにして口を利きました。少しずつものが言えるようになったのでございます。
『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせ治りそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄貴に楽させたいと思ったのだ。喉笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃こぼれはしなかったようだ。これをうまく抜いてくれたら俺は死ねるだろうと思っている。ものを言うのが切なくっていけない。どうか手を貸して抜いてくれ』と言うのでございます。
 弟が左の手を弛めるとそこからまた息が漏れます。わたくしはなんと言おうにも、声が出ませんので、黙って弟の喉の傷を覗いてみますと、どうも右の手に剃刀を持って、横に喉を切ったが、それでは死にきれなかったので、そのまま剃刀を、抉るように深く突っ込んだものと見えます。柄がやっと二寸ばかり傷口から出ています。わたくしはそれほどの事を見て、どうしようと言う考えも付かずに、弟の顔を見ました。弟はじっとわたくしを見詰めています。
 わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。弟は怨めしそうな目つきをいたしましたが、また左の手で喉をしっかり押さえて、『医者がなんになる、あぁ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と言うのでございます。わたくしは途方に暮れたような気持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ております。こんな時は、不思議なもので、目がものを言います。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と言って、さも怨めしそうにわたくしを見ています。わたくしの頭の中では、なんだかこう車輪のような物がぐるぐる回っているようでございましたが、弟の目は恐ろしい催促をやめません。それにその目の怨めしそうなのが段々険しくなってきて、とうとう敵の顔をでも睨むような、憎々しい目になってしまいます。それを見ていて、わたくしはとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。
 わたくしは『しかたがない、抜いてやるぞ』と申しました。すると弟の目の色ががらりと変わって、晴やかに、さも嬉しそうになりました。わたくしはとにかく一思いにしなくてはと思って膝をつくようにして体を前へ乗り出しました。弟はついていた右の手を放して、今まで喉を押さえていた手の肘を床について、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引きました。この時わたくしの家へ締めておいた表口の戸をあけて、近所の婆さんが入って来ました。留守の間、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるように、わたくしの頼んでおいた婆さんなのでございます。もうだいぶ家の中が暗くなっていましたから、わたくしには婆さんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆さんは『あっ』と言ったきり、表口を開け放しにして駆け出してしまいました。わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜こう、真っ直ぐに抜こうというだけの注意はいたしましたが、どうも抜いた時の手応えは、今まで切れていなかった所を切ったように思われました。刃が外の方へ向いていましたから、外の方が切れたのでございましょう。わたくしは剃刀を握ったまま、婆さんの入って来てまた駆け出して行ったのを、ぼんやりして見ておりました。婆さんが行ってしまってから、気がついて弟を見ますと、弟はもう事切れておりました。傷口からは大量の血が出ておりました。それから年寄り衆がおいでになって、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀をそばに置いて、目を半分あいたまま死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます」
 少しうつむき加減になって庄兵衛の顔を下から見上げて話していた喜助は、こう言ってしまって視線を膝の上に落した。
 喜助の話はよく筋が通っている。ほとんど通り過ぎているといってもいい位である。これは半年ほどの間、当時の事を幾度も思い浮べてみたのと、役場で問われ、町奉行所で調べられるその度毎に、注意に注意を加えて記憶を掘り出したためである。
 庄兵衛はその場の様子を目の当たりするような思いをして聞いていたが、これが果たして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑問が、話を半分聞いた時から起こってきて、聞いてしまっても、その疑問を解くことができなかった。弟は剃刀を抜いてくれたら死ねるだろうから、拔いてくれと言った。それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとはいえる。しかしそのままにしておいても、どうせ死ぬことになる弟であったらしい。それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えきれなかったからである。喜助はその苦しみを見ているに忍びなかった。苦しみから救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に違いない。しかしそれが苦しみから救うためであったと思うと、そこに疑が生じて、どうしても解けないのである。
 庄兵衛は、色々と心の中で考えてみた末に、自分より上のものの判断に任す他ないという思い、権威《オーソリティー》に従う他ないという念が生じた。庄兵衛はお奉行樣の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちないものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。
 次第に更けていく朧夜に、沈黙の人二人を乗せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。

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自遊時閑 2023/11/22 17:31

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自遊時閑 2023/11/19 19:02

[芥川龍之介] 蜘蛛の糸 ソフトノベル

  一

 ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池《はすいけ》のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ白で、その真ん中にある金色のおしべからは、なんとも言えない良い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 やがてお釈迦様はその池のふちにおたたずみになって、水面を覆っている蓮の葉の間から、ふと下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当たっていますから、水晶のような水を透き通して、三途の河や針の山の景色が、丁度のぞき窓を見るように、はっきりと見えるのでございます。
 するとその地獄の底に、カンダタと言う男が一人、他の罪人と一緒にうごめいている姿が、お目に止まりました。このカンダタと言う男は、人を殺したり家に火をつけたり、色々な悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、道ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を上げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無闇に取るということは、いくらなんでも可哀そうだ」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
 お釈迦様は地獄の様子をご覧になりながら、このカンダタは蜘蛛を助けたことがあるとお思い出しになりました。そうしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、翡翠《ひすい》のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけております。お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、玉のような白蓮《しらはす》の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下しなさいました。

  二

 こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしていた、カンダタでございます。何しろどちらを見ても、真っ暗で、たまにその暗闇からぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さといったらございません。その上辺りは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと言っては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちてくるほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れ果てて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですから流石の大泥棒カンダタも、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかったカエルのように、ただもがいてばかりおりました。
 ところがある時の事でございます。何気なくカンダタが頭を上げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした闇の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一筋細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでも登っていけば、きっと地獄から抜け出せるに違いございません。いや、うまくいくと、極楽へ入ることさえもできましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。
 こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりと掴みながら、一生懸命に上へ上へとたぐり登り始めました。元より大泥棒のことでございますから、こういうことには昔から、慣れきっているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦ってみたところで、簡単に上へは出られません。やや暫く登るうちに、とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へは登れなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休みするつもりで、糸の中程にぶら下がりながら、遥かに目の下を見下しました。
 すると、一生懸命に登った甲斐あって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう闇の底にいつの間にか隠れております。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この調子で登っていけば、地獄から抜け出すのも、案外簡単かもしれません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからませながら、ここへ来てから何年も出したことのない声で、「しめた。しめた」と笑いました。
 ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分の登った後をつけて、まるでアリの行列のように、やはり上へ上へ一心によじ登ってくるではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、暫くはただ、バカのように大きな口を開いたまま、目ばかり動かしておりました。自分一人でさえ切れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに耐えることができましょう。もし万一途中で切れたといたしましたら、折角ここへまで登ってきた、この肝心な自分までも、元の地獄へ逆さ落としに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そういううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、真っ暗な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせと登って参ります。今の中にどうかしなければ、糸は真ん中から二つに切れて、落ちてしまうに違いありません。
 そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に訊いて、登ってきた。下りろ。下りろ」と喚きました。
 その途端でございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れました。ですからカンダタもたまりません。あっという間もなく風を切って、コマのようにくるくる回りながら、見る見る中に闇の底へ、真っ逆さまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中程に、短く垂れているばかりでございます。


  三

 お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地獄から抜け出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうして、その心相応の罰を受けて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、浅ましく思し召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着いたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様のおみ足の周りに、ゆらゆら花弁を動かして、その真ん中にある金色のおしべからは、なんとも言えない良い匂いが、絶え間なく辺りへ溢れております。極楽ももう昼に近くなったのでございましょう。

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自遊時閑 2023/11/13 18:44

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自遊時閑 2023/11/11 20:50

[芥川龍之介] 羅生門 ソフトノベル

 ある日の夕暮れ時の事である。一人の下人《げにん》が、羅生門の下で雨がやむのを待っていた。
 広い門の下には、この下働きの男の他に誰もいない。ただ、所々朱色の塗りが剥げた、大きな円柱に、キリギリスが一匹とまっている。羅生門が、都の朱雀大路にある以上、この男の他にも、雨宿りをする市女笠《いちめがさ》の女や揉烏帽子《もみえぼし》の男が、もう二三人はいそうなものである。ところが、この男の他には誰もいない。
 何故かというと、この二三年、京都には、地震とか嵐とか火事とか飢饉といった災いが続いて起こった。そこで都の寂れ方は尋常ではない。古い説話によると、仏像や仏具を打ち砕いて、その朱色がついたり、金銀の箔がついたりした木を、道ばたに積み重ねて、薪の代わりに売っていたという事である。
 都がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰もが見捨てて顧みる者がなかった。するとその荒れ果てたのをいいことに、狐狸が棲む。盗人が棲む。挙げ句の果てには、引き取り手のない死人を、この門へ持ってきて、捨てていくという習慣さえできた。そこで、日が落ちると誰もが気味悪がって、この門の近くへは足を踏み入れないようになってしまったのである。
 その代わり、またカラスがどこからか、たくさん集ってきた。昼間に見ると、そのカラスが何羽となく輪を描いて、高い屋根飾りの周りを鳴きながら飛びまわっている。特に門の上の空が夕焼けで赤くなる時には、それがゴマをばら撒いたようにはっきり見えた。カラスは、もちろん、門の上にある死人の肉をついばみに来るのである。――もっとも、今日は時刻が遅いせいか一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れた間に長い草の生える石段の上に、カラスのフンが、点々と白くこびりついているのが見える。
 下人は七段ある石段の一番上の段に、洗い色薄れた紺色の衣の尻を下ろし、右頬にできた大きなニキビを気にしながら、ぼんやり、雨が降るのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨がやむのを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。普段なら、もちろん、主人の家へ帰るべきはずである。ところが、その主人からは、四五日前にクビを切られた。前にも書いたように、当時の京都の町は尋常ではなく衰退していた。今この下人が、長年使われていた主人からクビを切られたのも、実はこの衰退の小さな余波に他ならない。だから「下人が雨がやむのを待っていた」というよりも「雨に祟られた下人が、行き場がなく途方にくれていた」というほうが、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人をセンチメンタルにした。
 四時過ぎ頃から降りだした雨は、いまだに上がる気配がない。そこで、下人は、何をおいても今は明日の暮しをどうにかしようとして――言わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えを巡らせながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
 雨は、羅生門を包んで、遠くから、ざあっという音を集めてくる。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した瓦の先に、重たく薄暗い雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば、塀の下か、道ばたの土の上で、飢え死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持ってきて、犬のように捨てられてしまうばかりである。
 選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を徘徊した挙げ句、やっと一つの結論に行き着いた。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」のままであった。この「すれば」を片付けるためには、当然、その後にくる「盗人になるより他に仕方がない」という事を肯定する他ない。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、それを積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。
 下人は、大きなくしゃみをして、それから、面倒臭そうに立ち上がった。夕方に冷え込む京都は、もう火鉢が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇とともに遠慮なく吹きぬける。朱色の柱にとまっていたキリギリスも、もうどこかへ行ってしまった
 下人は、首をちぢめながら、山吹色の薄い衣に重ねた、紺色の衣の肩を高くして門の周りを見まわした。雨風の心配のない、それと人目につくおそれのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこでともかく、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の層へ上がる、幅の広い、これも朱色を塗ったハシゴが目についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた、柄が三鈷杵の形をした太刀が鞘から抜けないように気をつけながら、わら草履をはいた足を、そのハシゴの一番下の段へかけた。


 それから、何分か後の事である。羅生門の上の層へ出る、幅の広いハシゴの中程に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の様子をうかがっていた。上から差す火の光が、かすかに、その男の右頬を照らしている。短い髭の中に、赤く膿んだニキビのある頬である。
 下人は始め、上にいるのは死人ばかりだろうと軽く考えていた。それが、ハシゴを二三段上がってみると、上では誰かが火を灯して、しかもその火をあちらこちらに動かしているらしい。その濁った黄色い光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれとわかったのである。この雨の夜に、この羅生門の上で火を灯しているからには、どうせまともな者ではない
 下人は、ヤモリのように足音を消して、やっと急なハシゴを、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体をできるだけ、平らにしながら、首をできるだけ、前へ出して、恐る恐る、中を覗いてみた。
 見ると、中には、噂に聞いたとおり、いくつかの死体が、無造作に捨ててあるが、火の光のおよぶ範囲が、思ったより狭いので、数がいくつかはわからない。ただ、おぼろげながら、わかるのは、その中に裸の死体と、着物を着た死体とがあるという事である。もちろん、中には女も男も混ざっているらしい。そうして、その死体はみな、それが、かつて、生きていた人間だという事実さえ疑われるほど、土をこねて作った人形のように、口が開いたり手を伸ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光を受け、低い部分の影を一層暗くしながら、永久に失声のごとく黙っていた。
 下人は、それらの死体の腐敗した臭気に思わず、鼻を覆った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を覆うことを忘れていた。ある強い感情が、この男の嗅覚をほとんど奪ってしまったからだ。
 下人の目は、その時、はじめてその死体の中にうずくまっている人間を見た。樹皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪の、猿のような老婆である。その老婆は、右手に火を灯した松の木片を持って、その死体の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛が長いところをみると、多分女の死体であろう。
 下人は、六割の恐怖と四割の好奇心に動かされて、暫くの間は呼吸《いき》さえ忘れていた。古い説話の言葉を借りれば、「身の毛もよだつ」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死体の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子のしらみを取るように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。
 その髪の毛が、一本ずつ抜けるごとに、下人の心からは恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ働いてきた。――いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。
 この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にするか盗人になるかという問題を、改めて持ち出したら、おそらく下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上がりだしていたのである。
 下人には、もちろん、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。なので、合理的には、それを善悪のどちらに当てはめてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許されざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで自分が、盗人になるつもりでいた事などは、とうに忘れていたのである。
 そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、ハシゴから上へ飛び上がった。そうして太刀に手をかけながら、大股で老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは言うまでもない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで石弓にでも弾かれたように、飛び上がった。
「おのれ、どこへ行く」
 下人は、老婆が屍につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人を押しのけて行こうとした。下人はまた、それを行かすまいとして押し戻す。二人は屍の中で、暫く、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、初めからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞ」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を取り払って、白い鋼の色をその目の前へつきつけた。それでも、老婆は黙っている。両手をわなわな震わせて、肩で息をしながら、目を、目玉がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、失声のように執拗に黙っている。これを見ると、下人は始めて、明白にこの老婆の生死が、自分の意志に支配されているという事を意識した。そうしてこの意識は、今まで険しく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな自負と満足があるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう言った
「俺は検非違使《けびいし》の庁の役人などではない。たった今この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようというようなことはない。ただ、今この門の上で、何をしていたのか、それを俺に話しさえすればいいのだ」
 すると、老婆は、見開いていた目を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、シワで、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、カラスの鳴くような声が、息を切らし、下人の耳へ伝わってきた。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、かつらにしようと思ったのじゃ」
 下人は、老婆の答えが案外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一緒に、心の中へ入ってきた。すると、その気持ちが、相手にも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死体の頭から奪った長い抜け毛を持ったまま、ヒキガエルが呟くような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。
「なるほどな、死人の髪の毛を抜くということは、なんとも悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、それくらいのことをされてもいい人間ばかりだぞよ。今、わしが髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干し魚だと言って、太刀帯《たてわき》の詰め所へ売りに行ったんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに出ていた事であろ。それもよ、この女の売る干し魚は、味が良いと言うて、太刀帯どもが、欠かさず副食に買っていたそうな。わしは、この女のしたことが悪いとは思っていぬ。せねば、飢え死にするのじゃて、仕方がなくしたことであろ。ゆえに、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これにしても、やはりせねば飢え死にするのじゃて、仕方がなくすることじゃわい。じゃて、その仕方がないことを、よく知っていたこの女は、きっと、わしのすることも大目に見てくれるであろう」
 老婆は、大体こんな意味のことを言った。
 下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左手でおさえながら、冷ややかに、この話を聞いていた。もちろん、右手では、赤く頬に膿を持った大きなニキビを気にしながら、聞いているのである。
 しかし、これを聞いている最中、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、飢え死にするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の気持ちから言えば、飢え死になどという事は、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか」
 老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へでると、不意に右手をニキビから離して、老婆の襟をつかみながら、噛みつくようにこう言った。
「では、俺が追い剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にする体なのだ」
 下人は、素早く、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍の上へ蹴り倒した。ハシゴの口までは、僅か五歩ばかりである。下人は、剥ぎとった樹皮色の着物を脇に抱えて、瞬く間に急なハシゴを夜の底へ駆け下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、屍の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、ハシゴの口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、洞穴のように黒い夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。

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